第四十話:逆転の交渉
私が意識を取り戻したのは、丸一日が過ぎた後だった。見慣れた、店の二階にある自室のベッドの上だった。枕元では、ミーシャが付きっきりで看病してくれていた。
「……莉奈さん!よかった……!」
私が目を覚ましたことに気づき、ミーシャは涙を浮かべて喜んだ。彼女から、私が眠っている間に街で起こった、劇的な変化について聞かされた。
広場での出来事の後、街の空気は完全に変わっていた。民衆は、侯爵の権威を恐れるどころか、彼に公然と野次を飛ばす者まで現れた。王都の騎士たちも、神殿が認めた聖女に敵対するわけにもいかず、その士気は地に落ちていた。商人バルトロは、円卓会議の場でドルフに泣きながら土下座し、己の愚かさを詫びたという。
そして今日、最後の舞台の幕が上がろうとしていた。
グランヴィル侯爵が滞在する館に、ドルフの名で、一枚の召喚状が叩きつけられたのだ。
「円卓会議、緊急召集。貴殿の出席を『要求』する」と。
会議棟の一室。一週間前とは、全てのパワーバランスが逆転していた。
議長席に堂々と座るドルフ。その脇を固めるのは、揺るぎない忠誠を取り戻した商人や市民の代表者たちだ。部屋の隅には、治癒神殿を代表してムツィオ司教も静かに座っている。彼の存在そのものが、神殿がどちらの側についたかを雄弁に物語っていた。
そこへ、グランヴィル侯爵が、少数の供だけを連れて入室した。彼の顔には、もはや傲岸な笑みはなく、敗北を認めた男の、苦々しい疲労だけが浮かんでいた。
「……何の用かな、議長殿。私は、王都へ帰る準備で忙しいのだが」
侯爵の、最後の虚勢だった。
ドルフは、その言葉を鼻で笑うと、机に一枚の羊皮紙を叩きつけた。
「てめえの準備なんざ知ったことか。だが、手ぶらで帰すわけにはいかねえな。これに、サインをしてもらう」
それは、円卓会議が総意で作り上げた、この街の未来を記した「独立宣言書」だった。
ドルフは、一つ一つ、その要求を突きつけていく。
「第一条!王都による、この街への経済封鎖を即時、かつ永久に解除すること!差し押さえた物資は、賠償金を付けて返還しろ!」
「第二条!我々『円卓会議』を、この街の唯一にして正当な統治機関として、王国が正式に承認すること!」
「そして第三条!」ドルフの隻眼が、鋭く光る。「この街を、王国の法が及ばぬ『食文化特別自治区』として認定すること!俺たちの食卓に、王の指図は受けねえ!」
「……無茶苦茶な」侯爵が、絞り出すように言った。「そのような要求、王が飲むとでも……」
「飲ませるのさ」ドルフは、にやりと笑った。「てめえが、な。神殿が認め、民が熱狂する聖女を、てめえは『魔女』として断罪しようとした。その失態を王に報告されたくなければ、この要求を飲むしか、てめえに道はねえだろうが」
それは、完璧なチェックメイトだった。
侯爵は、わなわなと震えながら、しばらくドルフを睨みつけていたが、やがて、諦めたように椅子に深く座り込んだ。
「……わかった。その条件を、呑もう」
その日の午後。
街の全ての民衆が見守る中、広場で、侯爵とドルフによる条約の調印式が執り行われた。ドルフの、荒々しくも力強い署名の隣に、侯爵の、震える筆跡で書かれた署名が記された瞬間、街は、あの日以上の大歓声に包まれた。
政治の戦いは、終わったのだ。
剣でも、魔法でもなく、ただひたすらに街を想う人々の団結と、そして一杯の温かいラーメンが、王国という巨大な権力に勝利した瞬間だった。




