第三十八話:魂を揺さぶる一口
時が、止まったかのようだった。
広場の全ての視線が、審問官セオドーラの手元に差し出された、素朴などんぶりに注がれている。琥珀色のスープから立ち上る優しい湯気が、彼女の厳格な顔を揺らめかせた。
「……これが、奇跡だと?」
最初に沈黙を破ったのは、玉座に座るグランヴィル侯爵だった。その声には、抑えきれない侮蔑と苛立ちが滲んでいる。
「ただの塩水ではないか。聖女よ、我々を、そして王国を愚弄するのも大概にせよ!審問官殿、早く、この茶番を終わらせて魔女として断罪なさ…」
「静粛に。侯爵」
セオドーラが、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さでそれを制した。彼女は、目の前の器から視線を外さない。その瞳には、戸惑い、探究心、そして自らの信仰を試すかのような、真剣な光が宿っていた。
彼女は、神に仕える身として、美食や俗世の楽しみとは無縁の人生を送ってきた。食事は、生命を維持するための、味気ない義務でしかなかった。
だが、今、鼻腔をくすぐるこの香りはどうだ。炒った麦の香ばしさ、岩塩のかすかな甘み、そしてその二つが合わさることで生まれた、未知の、心を落ち着かせる香り。
セオドーラは、意を決したように、付属の木のレンゲを手に取った。そして、まずスープを一口、静かに口に運んだ。
その瞬間、彼女の世界は変わった。
最初に感じたのは、温かさ。七日間の試練を見届け、彼女自身も張り詰めていた心身に、優しい熱がじんわりと染み渡る。
次に感じたのは、塩味。だが、それはただの塩辛さではない。岩塩が持つ複雑なミネラルの風味が、舌の上でゆっくりと花開く。
そして、最後に訪れたのは―――未知の感覚。
塩味でも、甘味でも、酸味でもない。舌の芯に、魂の奥深くに、じんわりと広がる、深く、豊かで、満ち足りた味わい。
「……あ……」
セオドーラの唇から、小さく、吐息のような声が漏れた。
彼女の脳裏に、遠い昔の、固く封印していたはずの記憶が、鮮烈に蘇る。
貴族の家に生まれながら、幼くして全てを失い、王都の修道院に預けられた日。高熱にうなされ、孤独と絶望の中で死を待っていた、寒い冬の夜。誰もが、神に祈ることしかできない中、一人の年老いた修道女だけが、彼女の枕元に一杯の温かい飲み物を差し出してくれた。
それは、炒った麦を、ただお湯で煮出し、ひとつまみの塩を溶いただけの、質素な「麦湯」だった。
だが、その温かさと、優しい塩味と、香ばしい風味が、どれほど幼い彼女の命を繋ぎ、孤独な魂を救ってくれたことか。
それは、神の御業ではなかった。一人の人間が、別の一人の人間を想う、ただの「慈悲」だった。
これか。
これだったのか。
聖女リナの起こす「奇跡」の正体。
神の御業のような、人知を超えた力ではない。あまりにも人間的で、あまりにも地に足の着いた、しかし、だからこそ何よりも尊い、魂への救済。
セオドーラは、もう一口、スープをすする。今度は、不揃いな麺も一緒に。小麦の素朴な甘みが、優しいスープと絡み合い、彼女の乾いた心を、幼いあの日のように満たしていく。
彼女の氷のように硬質だった表情が、ゆっくりと、雪解けのように和らいでいく。その瞳から、一筋の雫が、ぽろりとこぼれ落ち、スープの器の中に小さな波紋を作った。
「……温かい……」
それは、かつて氷壁の騎士ケイレブが、初めて莉奈のラーメンを食べた時と同じ言葉だった。
広場は、静まり返っていた。誰もが、審問官のその異変に、言葉を失っていた。グランヴィル侯爵の顔からは、余裕の笑みが消え、焦りの色が浮かんでいる。
セオドーラは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は、もう私を罪人として見てはいなかった。畏敬と、そして、自らの信仰を揺るがされた者だけが浮かべる、深い問いかけの色をしていた。
彼女は、私を、そして広場の民衆を交互に見つめ、やがて、厳かに口を開こうとした。
街の運命を決める、審判の言葉が、今、紡がれようとしていた。




