第三十六話:夜明けの塩水
試練七日目の夜明けは、血のように赤く、不吉なほどに静かだった。
街が、そしてギルドが、玉砕覚悟の決意を固めていることなど、石の独房にいる私には知る由もなかった。私の戦場は、ただこの冷たい石の床の上、自らの肉体と精神の内側だけだった。
肉体は、もはや悲鳴を上げていた。七日間の断食は、私の体力を根こそぎ奪い去り、指一本動かすのにも、全ての意志を集中させる必要があった。意識は朦朧とし、現実と記憶の厨房との境界線が、曖昧に溶け出していく。
(水……塩……麦……)
極限状態の中、私の思考は、あらゆる装飾を削ぎ落とされ、食の最も根源的な三つの要素へと収斂していった。
豪華なラーメンの記憶はもう遠い。ただ、この三つの要素だけで、どうすれば人の心を温める「一杯」を創り出せるのか。その一点だけに、私の料理人としての全存在が注がれていた。
(水は、ただの液体じゃない。熱を伝え、素材の魂を溶かし出す、最高の媒体だ)
(塩は、ただ塩辛いだけじゃない。生命を維持するミネラルの塊。味の輪郭を決め、深みを与える、絶対的な基礎だ)
(そして、麦……)
私の精神は、一粒の麦の内部へと深く潜っていく。外皮の香ばしさ、胚乳の甘み、胚芽の持つ生命力。火を加えれば、その香りはどう変わる?砕けば、その旨味はどう広がる?
朦朧とする意識の中、私の「記憶の厨房」で、最後の調理が始まった。
まず、鉄鍋で麦を炒る。香ばしい匂いが立つまで。これはスープの「香り」の基盤になる。
次に、その麦を砕き、沸騰した湯に入れる。麦から溶け出したデンプンが、スープに「とろみ」と「コク」を与える。
最後に、岩塩を溶かし込む。極限まで研ぎ澄まされた舌の記憶が、一粒単位で塩分を調整し、香りとコクを最大限に引き出す、完璧な「塩梅」を導き出す。
麺は作れない。だが、「すいとん」のように、麦粉を練った小さな塊なら。スープの中で煮込めば、麦の甘みがさらに溶け出し、スープと一体になるだろう。
……できた。
私の頭の中で、一杯の、あまりにも素朴な、しかし完璧な調和を持つ液体が、湯気を立てた。
それは、料理というより、化学。奇跡というより、ロジックの帰結だった。
飢えと衰弱の暗い海の底で、私は、確かに一つの答えを掴み取っていた。
その瞬間、独房の扉が、重い音を立てて開かれた。
逆光の中に立つ、審問官セオドーラのシルエット。
「……時が、来ました。聖女リナ」
彼女の声で、私はゆっくりと現実へと引き戻される。
セオドーラは、私の姿を見て、わずかに目を見開いた。そこにいたのは、衰弱しきって床に突っ伏している、哀れな少女ではなかったからだ。
私は、壁に手をつき、震える足で、ゆっくりと、しかし確かに立ち上がった。
肉体は限界だった。だが、私の瞳は。
その瞳は、飢えや絶望の色を通り越し、これから最高の舞台に臨む料理人だけが宿す、青い炎のような、静かで、そして燃えるような光を放っていた。
「ええ……」
私の声は、ひどく嗄れていた。だが、その響きには、一片の迷いもなかった。
「行きましょう。私の、最高のラーメンを、作りに行きます」
セオドーラは、私のその瞳に気圧され、一瞬だけ言葉を失った。
決戦の朝。
街では、戦士たちが武器を手に、その時を待っている。
そして神殿では、一人の料理人が、水と麦と塩だけを武器に、最後の厨房へと歩みを進めていた。




