第三十五話:決意の夜
最後通告が突きつけられた翌日、街はまるで死んだかのように静まり返っていた。市場に人影はなく、家々は固く扉を閉ざしている。人々は、二日後に訪れるであろう「浄化」という名の殺戮を、ただ息を殺して待っているだけだった。絶望が、冷たい霧のように街全体を覆っていた。
だが、冒険者ギルドだけは、その静寂の中で、熱を帯び始めていた。
ホールには、武装したギルドのメンバーが、一人、また一人と集まってきていた。誰もが無言だったが、その目には同じ光が宿っていた。
「……集まってくれたな、野郎ども」
壇上に立ったドルフさんが、集まった全員の顔をゆっくりと見渡した。彼の隣には、抜き身の剣を携えたケイレブ様が、氷の彫像のように静かに立っている。
ドルフさんは、嘘や気休めを一切口にしなかった。
「てめえらも聞いている通りだ。二日後の夜明け、王国の軍隊がこの街に攻め込んでくる。数はおそらく、俺たちの十倍以上。勝ち目は、ねえ」
彼の言葉に、ゴクリと唾をのむ音が響く。
「降伏すりゃあ、命だけは助かるかもしれねえ。だが、俺たちは聖女様を『魔女』として奴らに引き渡し、この街の魂を売り渡すことになる。俺は、ごめんだ」
ドルフさんは、壁にかけてあった巨大な戦斧を手に取った。
「俺は戦う。腹が減ったら、聖女様のラーメンを腹いっぱい食わせてくれる、この街が好きだからだ。ここで死ぬなら、本望だ」
彼は、集まった冒険者たちに叫んだ。
「だが、てめえらにそれを強制する気はねえ!降伏して生き延びたい奴は、今すぐここから出ていけ!誰も、責めやしねえ!」
一瞬の静寂。
だが、誰一人として、その場を動く者はいなかった。
やがて、一人の若い冒険者が、震える声で叫んだ。
「俺も戦うぜ、ギルドマスター!聖女様のラーメンの恩を、今こそ返す時だ!」
その声が引き金だった。
「「「オオオオッ!!俺たちもだ!!」」」
絶望は、いつしか鋼の覚悟へと変わり、ギルドホールは戦士たちの雄叫びに揺れた。ケイレブ様は、その光景を静かに見つめると、すぐに持ち場へと散っていく冒険者たちに、的確な指示を与え始めた。バリケードの設営、食料と矢の分配。ギルドは、街の最後の砦として、玉砕覚悟の籠城準備を開始した。
同じ頃、ミーシャは一人、印刷所の薄暗い明かりの下で、ペンを走らせていた。
軍備だけでは勝てない。人々の心が、降伏を選んでしまえば、ギルドの抵抗はただの無駄死にに終わる。彼女は、自らの最後の武器を、この一枚の紙に注ぎ込もうとしていた。
完成した瓦版の原稿を、印刷所店主は震える手で受け取った。
「……ミーシャさん。これを刷れば、俺も反逆者だ。殺されちまう」
「はい」ミーシャは、まっすぐに店主の目を見て頷いた。「ですが、もし私たちが降伏すれば、最初に殺されるのは『真実』です。この街で何が起こったのか、なぜ私たちが立ち上がったのか、その記憶は全て、侯爵に塗り替えられてしまうでしょう」
彼女は、深く頭を下げた。
「お願いします。この街で最後に印刷されるのが、嘘や降伏勧告であっていいはずがありません。私たちの物語を、どうか形にしてください」
店主は、しばらく黙ってミーシャを見つめていたが、やがて腹を括ったように、インクの匂いが染みついた手で、力強く原稿を受け取った。
その夜。
街は、死んだような静寂を取り戻していた。
だが、その水面下では、二つの流れが、決戦の夜明けに向かって、確かに動き出していた。
一つは、ギルドで、静かに武器を研ぎ、バリケードを固める、戦士たちの覚悟。
そしてもう一つは、印刷所で、ガチャン、ガチャンと音を立てて刷り上がっていく、ミーシャの最後のメッセージ。それは、眠りについた街の魂を、夜明けと共に揺り動かすための、希望の鬨の声だった。




