第三十三話:司教の告白
試練が始まって、五日目の夜が更けた。
石の独房を支配するのは、絶対的な静寂と、飢餓感がもたらす微かな耳鳴りだけだった。私の肉体は、もはや限界に近かった。立ち上がるだけでめまいがし、思考を集中させるのも困難になりつつある。それでも、私は「記憶の厨房」での精神的な調理だけはやめなかった。それが、かろうじて私という存在の輪郭を保つ、唯一の儀式だったからだ。
その夜更け、独房の石の扉が、音もなく、わずかに開いた。
月明かりを背に立っていたのは、セオドーラではない。治癒神殿の主、ムツィオ司教だった。その顔には、深い苦悩と罪悪感が、隠しようもなく刻まれていた。
「……聖女殿。いや、リナ殿」
彼は、許しを乞うように、か細い声で私に呼びかけた。
「眠っているところを、すまない」
「司教様……」
壁にもたれかかったまま、私は弱々しく答えた。
「何か、御用でしょうか」
ムツィオは、ためらいがちに部屋に入ると、私の前にそっと膝をついた。彼は、この数日間の自分の無力さを、告白するように語り始めた。
「私は、審問官様のお考えが、全て正しいとは思えない。彼女の信仰は、あまりに純粋で、厳格すぎる。まるで磨き上げられた刃のようだ。だが、刃は人を救えん。人を救うのは……あなたの作る、あの温かいスープのようなものではないのかと……」
彼は、街が分断され、人々が苦しんでいる様を、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった。セオドーラという絶対的な権威の前で、彼自身の信仰も、この街への愛情も、無力だったのだ。
「これは、せめてもの、私の贖罪だ」
ムツィオは、そう言うと、法衣の袖から、布に包まれた小さな塊を取り出した。包みを開くと、そこには一切れの黒パンと、数枚の干し肉があった。この状況下では、何よりも贅沢なご馳走だった。
「さあ、誰にも気づかれんうちに。神も、慈悲深きお方だ。このような無意味な試練で、あなたが命を落とすことを望んではおるまい」
パンの香りが、私の飢えた鼻腔をくすぐる。ごくり、と喉が鳴った。一口食べれば、この苦しみから解放される。その誘惑は、悪魔的ですらあった。
だが、私は、最後の力を振り絞るように、静かに首を横に振った。
「……お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします。ですが、司教様。私はこれを、受け取ることはできません」
私の言葉に、ムツィオは驚いて目を見開いた。
「な、なぜだ!痩せこけて……このままでは本当に!」
「ええ、そうかもしれません」私は、虚ろな視線を彼に向け、続けた。「でも、もし私がここであなたの情けにすがってしまえば、私のラーメンは、本当にただの『まやかし』になってしまう。侯爵や審問官様の言う通り、人を騙すための、ただの料理になってしまうのです」
私は、自分の腹の音を聞きながら、必死に言葉を紡いだ。
「この戦いは、もう私一人のものではありません。私のラーメンを信じてくれる、街のみんなの戦いです。私がここでルールを破れば、みんなの想いを裏切ることになる。私は、私のやり方で、この理不尽な試練を乗り越えてみせます。それが、私の……料理人としての、誇りですから」
その言葉は、弱々しかったが、鋼のような意志が宿っていた。
ムツィオは、目の前の衰弱した少女の姿に、言葉を失った。彼は、憐れみから救いの手を差し伸べに来たはずだった。だが、そこにいたのは、憐れみなど必要としない、自らの哲学のために命を懸ける、気高き求道者の姿だった。彼の信仰が、目の前の少女の「誇り」の前に、完全に打ちのめされた瞬間だった。
「……そうか。そう、だったな」
ムツィオは、自らの浅はかさを恥じるように、パンと干し肉をしまい、深く、深く頭を垂れた。
「許してくれ、リナ殿。私が、間違っていた」
彼はそれだけを言うと、影のように静かに部屋を去っていった。
一人残された独房で、私は再び目を閉じる。ムツィオの優しさが、冷え切った心に温かい火を灯してくれた。
(もう少しだ……もう少し……)
肉体は限界でも、心は、まだ戦える。決戦の日は、すぐそこまで迫っていた。




