第三十二話:聖女様の御言葉録
円卓会議の亀裂は、街の空気に即座に伝染した。商人代表バルトロが侯爵と密会したという噂が広まり、人々は互いに疑心暗鬼になり始めていた。経済封鎖による物資不足も深刻さを増し、街は内側から崩壊する寸前だった。
その淀んだ空気を切り裂くように、ミーシャの瓦版は、街の隅々まで静かに浸透していった。
酒場では、不満を募らせた冒険者たちが、ぬるいエールを片手にドルフへの悪態をついていた。
「ドルフの旦那も、侯爵様の前じゃ手も足も出ねえ!」
「このままじゃ干上がるだけだ。いっそ王都に降っちまった方がマシかもな」
そんなやさぐれた空気の中、一人の若い冒険者が、壁に貼られた瓦版をぼんやりと読み上げた。
「【あの日の味を、覚えていますか?】……『聖女様は言いました。「温かいものを食べれば、人はもう一度、顔を上げられるんです」と』……か」
その言葉に、酒場は水を打ったように静まり返った。
ベテランの戦士が、エールのジョッキを置いて、遠い目をする。
「……復興醤油ラーメン、か。確かに、あの日の味は忘れられねえな」
別の魔法使いが、フードの奥で頷いた。
「領主ソラムが倒れた後、まだ街がめちゃくちゃだった頃だ。金持ちも貧乏人もなく、みんなで一杯のラーメンをすすって……あの時、俺たちは確かに一つだった」
記憶の蓋が、開かれたのだ。
グランヴィル侯爵が突きつける「安定」や「富」という未来の約束よりも、ずっと確かで、温かい過去の記憶。聖女がもたらした、奇跡の記憶が、人々のささくれた心を潤し始めた。
「復興ラーメンだけじゃねえ!」
最初に文句を言っていた冒険者が、今度は興奮して叫んだ。
「俺なんて、『濃厚体力味噌ラーメン』がなけりゃ、あのオークの群れとの戦いでとっくに死んでたぜ!あのニンニクと背脂のガツンとくる一杯!あれを食えば、どんな傷も癒える気がしたもんだ!」
そうだ、とばかりに、あちこちから声が上がる。
「『禁忌の森ラーメン』の不思議な味も忘れられない!」
「俺は、基本の塩ラーメンが一番好きだったな……」
話題の中心は、いつの間にか侯爵への不満から、聖女のラーメンへの想い出へと変わっていた。人々は、自分たちが何のために戦い、何を守ろうとしていたのかを、思い出し始めていたのだ。ミーシャの瓦版は、侯爵の冷たい論理に対する、民衆の心の防衛線となった。
その動きは、当然グランヴィル侯爵の耳にも入っていた。
「……子供騙しの感傷だな」
彼は報告を一笑に付したが、その内心には微かな苛立ちが生まれていた。彼は、街の象徴である『聖女の厨房』そのものを潰しておくべきだと考えた。
その夜。
三人のごろつき風の男たちが、閉ざされた『聖女の厨房』の前に現れた。侯爵に雇われ、店の扉や窓を破壊し、人々の希望の象徴に泥を塗るのが目的だ。
一人が、扉を蹴破ろうと足を振り上げた、その時。
「―――やめとけ」
店の軒下の暗がりから、地響きのような低い声がした。
見上げると、そこには月明かりに照らされた、巨大な影。ゴークだった。彼は試練が始まって以来、ずっとそこで、一人で店を守り続けていたのだ。
「ここは、聖女様の厨房だ。そして、俺たちの帰る場所だ」
ゴークは武器を構えない。ただ、そこに立っているだけ。だが、その山のような体躯と、静かな怒りをたたえた瞳が、何よりも雄弁に語っていた。
「汚させは、しねえ」
ごろつきたちは、本能的な恐怖に気圧され、悲鳴のような声を上げて逃げ去っていった。
翌朝、ミーシャはその話を聞いて、店の前に駆けつけた。そこには、変わらず静かに佇むゴークの姿と、店の扉の前に、誰が置いたのか、一輪の小さな野の花が供えられているのが見えた。
ミーシャの瞳から、涙がこぼれた。
侯爵は、まだ理解していない。
この街の人々と、聖女の絆は、ただ与えられた奇跡への崇拝ではない。
一杯のラーメンを共にすすり、共に戦い、共に街を立て直してきた、温かい記憶そのものなのだ。その記憶は、暴力でも、金でも、簡単には壊すことなどできない。
ミーシャは、次の瓦版の原稿を、強く握りしめた。




