第三百二十八話:人質と交渉
異世界側の【ラーメン処 聖女の厨房】の厨房は、重い沈黙と、仲間を失ったことへの深い絶望に包まれていた。ドルフさんが日本側に捕らえられた。その事実は、これまでのどんな戦いの敗北よりも重く、私たちの心に深い傷と、そして新たな怒りを刻み込んだ。
「くそっ…!俺が、俺があの時、もっとちゃんと盾になっていれば…!」
ゴークが、悔しさに自らの拳を壁に何度も叩きつける。壁が砕け、彼の拳から血が流れても、心の痛みは少しも和らがない。ケイレブ様もまた、自らの判断ミス…あるいは力不足を責めるかのように、固く目を閉じ、微動だにしなかった。氷壁の騎士の心が、初めて無力感に凍てついていた。ミーシャは、ただ静かに涙を流し、マヤは不安そうに私のエプロンの裾を掴んでいた。
数日後、日本の当局から、ジロが扉の残骸に設置した監視システムを通じて、一方的な通信が入った。画面に映し出されたのは、都内某所の、殺風景な尋問室らしき部屋だった。そこには、やつれた、しかし未だその眼光だけは少しも衰えていないドルフさんの姿と、その隣に立つ、冷徹な表情の公安担当官がいた。ドルフさんの手首には、魔力を封じる特殊な手錠がかけられているように見えた。
『…聞いているかね、異世界の者たちよ』
担当官の声は、一切の感情を排した、交渉人のそれだった。
『我々は、この人物…自らをドルフと名乗る存在を、国家安全保障上の観点から「未確認危険生物」として現在、厳重に保護している。彼の処遇…そして身柄の安全と引き換えに、我々にはいくつかの要求がある』
画面の中のドルフさんが、何かを叫んでいるようだったが、音声は遮断されているのか、私たちには聞こえない。
担当官は、淡々と要求を読み上げた。
一つ、時空を繋ぐ「扉」に関する全ての情報開示。その構造、エネルギー源、制御方法、そしてそれを可能にする技術体系の全て。また、扉の完全な管理権を日本政府に譲渡すること。
一つ、次元商人「レン」に関する、全ての情報の提供。彼の正体、目的、能力、そして彼との接触記録。
『期限は、これより一週間後の同時刻とする。要求が受け入れられない場合、あるいは不完全な情報提供であった場合、我々はドルフ氏を、我が国の平和と秩序に対する明確な脅威とみなし、国際法及び国内法に基づき、それ相応の『最終的措置』を取らざるを得ないだろう』
それは、人質を取った、あまりにも非情で、一切の妥協を許さない最後通告だった。
私は、画面に映るドルフさんの、悔しそうな、しかし私たちを案じるような複雑な表情を見つめながら、激しく葛藤した。仲間を救いたい。この手で必ず助け出したい。だが、扉の秘密を明け渡せば、この穏やかで温かい異世界は、日本の、あるいはレンの、一方的な干渉と搾取に晒されることになる。それは、この世界を愛する者として、決して受け入れられない選択だった。
どちらを選んでも、待っているのは茨の道。守るべきものが二つになったことの、あまりにも重い代償を、私は突きつけられていた。私の決断が、二つの世界の未来を左右する。その重圧に、私の心は押し潰されそうだった。




