第三十一話:分断の囁き
ミーシャの瓦版は、確かに人々の心に火を灯した。しかし、侯爵が仕掛けた経済封鎖という冷たい現実は、その炎を容赦なく揺さぶっていた。腹が減っては、理想だけでは戦えない。その真理を、商人代表のバルトロは痛いほど噛み締めていた。
彼の商会は、街でも最大手の一つだ。革命を支持したのは、領主ソラムの重税から逃れ、自由な交易で街を豊かにできると信じたからだ。しかし、現実はどうだ。侯爵の封鎖によって彼の隊商は街道で立ち往生し、倉庫に眠る商品は日に日に価値を失っていく。従業員たちの不安そうな顔が、彼の心を重く締め付けていた。
その夜、バルトロが一人、事務所で頭を抱えていると、一人の従者が音もなく現れた。グランヴィル侯爵からの、私的な晩餐への招待状だった。
(……罠だ)
バルトロは直感した。だが同時に、この膠着した状況を打破できる唯一の蜘蛛の糸かもしれない、という考えが頭をよぎる。彼は、震える手でその招待状を受け取った。
侯爵が滞在する宿舎の一室は、王都から持ち込んだであろう調度品で飾られ、ここだけが別の世界のように華やかだった。テーブルには、この街ではもはや手に入らない、高価なワインと豪勢な料理が並んでいる。
「まあ、座りたまえ、バルトロ殿」
グランヴィル侯爵は、まるで旧知の友を迎えるかのように、にこやかに言った。
「私は、君のような理知的な人物と話がしたかったのだよ。円卓会議の面々……特に、議長のドルフ殿は、少々、腕力に頼りすぎるきらいがあってな」
侯爵は、バルトロにワインを注ぎながら、同情的な口調で続けた。
「君の苦境は理解している。君は、民の生活を背負う実務家だ。あの聖女が作るというスープが、どれほど人の心を温めようと、それだけでは金は生まれんし、従業員の腹も満たされん。違うかね?」
その言葉は、バルトロが心の内で感じていた苛立ちそのものだった。そうだ、自分はドルフやケイレブのような戦士ではない。夢や理想だけでは、誰も守れないのだ。
「ドルフ殿は、街の『魂』を守ると言う。結構だ。だが、魂を守るために、民を飢えさせるのが果たして正しい道かね?」
侯爵は、そこで懐から一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、王国宰相の印が押されている。
「これは、王都との交易を許可する、特別な通行許可証だ」
バルトロは、息をのんだ。
「君が、円卓会議で『賢明な判断』を下してくれるのであれば……」侯爵は、悪魔のように甘く囁いた。「この許可証を、君の商会『だけ』に与えよう。他の者たちが封鎖に苦しむ中、君だけが莫大な富を築くことができる。君は、街を救う英雄になれるのだよ。さあ、どうする?」
それは、街への裏切りを唆す、この上なく甘美な毒だった。自分の商会だけが助かる。いや、それどころか、この街の経済を牛耳る唯一の存在になれる。従業員も、その家族も救われる。失うのは、目に見えない「団結」という名の、脆い理想だけだ。
バルトロは、汗の滲む手で、その許可証を受け取ってしまった。
翌日の円卓会議は、重苦しい雰囲気で始まった。ドルフさんが、苦渋の決断として、街全体の食料を配給制にする案を提示した。誰もが、それしか道はないと覚悟を決めた時だった。
「……待っていただきたい」
バルトロが、静かに口を開いた。
「そのような市民の自由を奪う策の前に、検討すべきことがあるのではないか?もっと……侯爵様と対話し、穏便に解決する道も、あるやもしれん」
その言葉に、場の空気が凍り付いた。ドルフさんが、隻眼を鋭く細めてバルトロを睨む。
「……バルトロ。てめえ、何を言ってる」
「私は、ただ、市民の生活を第一に考えているだけだ!」
もはや、彼の言葉を信じる者はいなかった。彼の瞳には、昨日まであったはずの街への想いではなく、己の欲望と保身の色が、隠しようもなく浮かんでいた。
莉奈が一杯のラーメンで繋いだ円卓に、侯爵が囁いた一言で、今、明確な亀裂が走った。




