第三十話:氷壁の監視
ミーシャの瓦版が、凍りついた民衆の心に小さな火を灯し始めた頃、ケイレブは一人、別の戦場で静かに剣を抜いていた。彼の戦場は、会議室でも、街頭でもない。街の屋根の上、月明かりだけが照らす影の中だった。
莉奈が神殿に連行されて以来、彼は夜ごと、神殿を見下ろせる最も高い教会の尖塔に陣取り、その周囲の動きを監視し続けていた。ドルフが政治の泥にまみれ、ミーシャが言葉の力で戦うなら、自分の務めはただ一つ。莉奈の身に、物理的な危険が及ぶことだけは、絶対に阻止する。
最初の数日、神殿を警備する王都の騎士たちの動きは、規律正しく、何ら不審な点はなかった。だが、街にミーシャの瓦版が出回り始め、民衆の間に再び「聖女」への同情と支持の空気が生まれ始めた四日目の夜、ケイレブはその動きに微かな、しかし見過ごすことのできない変化を見出した。
騎士たちの警備は、もはや単なる「監視」ではなかった。
日中の交代の際、彼らは神殿の壁の高さや窓の位置を、明らかに計測するような視線で確認していた。夜間の巡回兵は、二人一組で行動しながら、壁の暗がりや裏口の警備が手薄になる時間を、念入りに計っているようだった。
そして、今夜。
一人の騎士が、巡回ルートを外れ、神殿の裏手にある古い納骨堂の影に滑り込んだ。彼は偵察兵か、あるいは暗殺術の心得がある者だろう。その身のこなしは、ただの兵士のものではなかった。男は、壁の石材の継ぎ目に指をかけ、登攀が可能かどうかを確かめるように、静かに壁を調べている。
(……やはりか)
ケイレブの瞳が、氷壁のように冷たくなる。
グランヴィルとセオドーラは、七日後の「審問」という表向きの筋書きだけで、事を収めるつもりはない。万が一、民衆の抵抗が激しくなったり、莉奈が彼らの想定外の行動を取ったりした場合に備え、いつでも実力行使で莉奈を「無力化」あるいは「排除」する準備を進めているのだ。あの神殿は、聖なる祈りの場などではない。莉奈を閉じ込める檻であり、いざとなれば処刑場にもなる、罠そのものだった。
ケイレブは、尖塔から音もなく飛び降りると、影から影へと伝い、ギルドへと向かった。
彼は、かつて禁忌の森への遠征を共にした、信頼できる冒険者たちだけをギルドの地下に集めた。
「状況は理解したな」
ケイレブの低い声が、薄暗い地下室に響く。
「侯爵は、聖女様を殺すことも視野に入れている。だが、我々が表立って動けば、街は賊軍となる。故に、我々は影の中で、影を狩る」
それは、街の正規の騎士団としての命令ではなかった。聖女リナに救われ、その温かいラーメンの味を知る、仲間たちへの個人的な依頼だった。誰もが、黙って、しかし力強く頷いた。
その夜から、神殿周辺の闇の構図は、完全に塗り変わった。
王都の騎士たちが神殿を囲む、第一の包囲網。
そのさらに外側を、ケイレブの部下たちが音もなく囲む、第二の包囲網が形成されたのだ。
深夜、例の偵察兵が再び納骨堂の壁を調べていると、背後の暗がりから、カツン、と小さな金属音がした。男が驚いて振り返ると、そこには一人の冒険者が、ただ壁に寄りかかって短剣を研いでいる。冒険者は、偵察兵を一瞥だにしない。だが、その存在そのものが、明確な警告を発していた。
「―――お前たちの動きは、全て見えているぞ」
偵察兵は、冷や汗を背中に感じながら、その場を立ち去るしかなかった。
ギルドの作戦室で、ケイレブからの報告を受けたドルフは、満足げに頷いた。
「……でかした、ケイレブ。俺が会議室で狸じじいと言葉遊びをしている間に、てめえは本物の刃から莉奈を守れ。奴らが一線を超えた時は―――」
ドルフの隻眼が、獰猛な光を宿す。
「―――遠慮はいらん。一人残らず、叩き斬れ」
ケイレブは静かに頷くと、再び夜の闇へと姿を消した。
政治の戦い、情報の戦い、そして水面下で繰り広げられる、命のやり取り。
莉奈を巡る包囲網は、幾重にも張り巡らされ、それぞれの思惑を孕んで、決着の日に向けて静かに狭まっていく。




