第三百一話:遠い両親、揺れる心
ジロが知の海に潜り、魁人が扉の謎に迫る中、私の心は穏やかではなかった。仲間たちが体験する一つ一つのカルチャーショックは、私にとっては忘れていたはずの日常の断片。それは、楽しさよりも、郷愁という名の、甘く切ない痛みを伴って胸に突き刺さった。
「莉奈さん、顔色が優れません」
宿に戻ると、ミーシャが心配そうに声をかけてくれた。「この世界の空気が、体に合わないのでしょうか」
「ううん、大丈夫。少し、考えごとをしていただけ」
私は無理に微笑んでみせたが、心は正直だった。この世界に来てから、私の魂はずっと、二つの故郷の間で引き裂かれそうになっていた。
その夜、私は誰にも告げずに、一人で宿を抜け出した。足が、自然と、あの場所へ向かう。
何度も夢に見た、帰り道。街灯の頼りない光が、見慣れた住宅街をぼんやりと照らし出す。角を曲がれば、そこにあるはずだ。私の、本当の家が。
やがて、私はその家の前にたどり着いた。
【斎藤】
少し色褪せた表札。二階の、私の部屋だった場所の窓からは、もう光は漏れていない。物置になっているのだろうか。庭には、母が好きだった季節の花が、変わらずに咲いていた。
全てが、あの日のままだ。私という存在だけが、綺麗さっぱりと消え失せて。
私は、息を殺して、リビングの窓へと近づいた。カーテンの隙間から、温かい光が漏れている。
その光の中に、二つの人影があった。
ソファに座り、テレビの野球中景を見ながら缶ビールを飲む、父。
キッチンで、エプロン姿のまま、明日の夕食の準備をしている、母。
「……お父さん……お母さん……」
声にならない声が、喉の奥で震えた。涙が、頬を伝う。
父の髪には、白いものがずいぶんと増えていた。母の背中は、記憶の中よりも、少しだけ小さく見えた。私が失った十数年という歳月が、彼らの上に、確かに流れていた。
「あなた、明日のゴミ出し、忘れないでよ」
「おう、分かってるよ」
交わされる、他愛ない会話。私がいた頃と、何も変わらない、穏やかな夜。
私のいない、完璧な日常。
私は、その光景に、胸が張り裂けそうになった。
声をかければ、この温かい日常に戻れるのかもしれない。異世界でのことなど、長い夢だったのだと、笑い合えるのかもしれない。
「ただいま」と、言えるかもしれない。
だが、私の足は、地面に縫い付けられたかのように動かなかった。
私の背後には、この光景を知らない、私の帰りを待つ仲間たちがいる。ゴークが、ケイレブ様が、ミーシャが、マヤが。彼らにとって、私は聖女であり、大師匠であり、かけがえのない家族なのだ。
私の故郷は、もう、この温かい光の中だけにあるのではない。
私は、自分がもう「あちら側」の人間ではないことを、痛いほど実感していた。
私は、この世界の住人でも、この世界の住人でもない。二つの世界の狭間に取り残された、孤独な異邦人。
「帰りたい」と叫ぶ心と、「帰れない」と告げる現実。
その矛盾が、私の魂を、容赦なく引き裂いていく。
「……ごめんね」
私は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
そして、その温かい光に背を向け、来た道を、ふらふらと引き返し始めた。一歩、また一歩と、自らの過去から遠ざかるように。
宿への帰り道、私のポケットの中で、異世界と繋がるための小さな通信石が、魁人からの緊急連絡を告げる、かすかな熱を持ったことに、私はまだ気づいていなかった。
それは、私の感傷的な逃避行が、もはや許されないことを告げる、冷たい現実の合図だった。




