第二十九話:ミーシャの瓦版
街の空気は、日増しにささくれ立っていった。経済封鎖によって物資は滞り、人々は日々の糧を心配し始めた。グランヴィル侯爵の策略は、莉奈が一杯のラーメンで紡ぎ上げた人々の絆を、見事に解きほぐしつつあった。円卓会議は機能不全に陥り、ドルフさんやケイレブ様も、表立って動けない状況に歯噛みしていた。
誰もが、このまま緩やかに絶望していくしかないのかと、諦めかけたその時。
一人の少女が、静かに、しかし断固として立ち上がった。
ミーシャだった。
彼女は、閉ざされた『聖女の厨房』で、一人帳簿と向き合っていた。日に日に減っていく店の貯蓄。助手の若者たちに払う給金。数字は、冷徹に絶望的な未来を示していた。
(このままでは、莉奈さんが帰ってきても、この場所は……)
ペンを握る彼女の指が、悔しさに震える。自分には、ドルフさんのような腕力も、ケイレブ様のような武力も、侯爵と渡り合う政治力もない。ただの、経理係。無力感に、涙がこぼれそうになった、その時だった。
彼女の視線が、帳簿の隣に置かれた、もう一冊の分厚い革張りの手帳に落ちた。
【聖女様の御言葉録】
それは、莉奈がこの世界でラーメンを作り始めてから、ミーシャが几帳面に記録し続けてきた、奇跡の記録。レシピだけではない。その一杯が、いつ、誰を、どのように救ったのか。その時の莉奈の言葉、食べた人々の笑顔まで、克明に記されている。
「……これだ」
ミーシャの瞳に、強い光が宿った。
侯爵は、「富」と「安定」で人の心を支配しようとしている。セオドーラは、「信仰」と「奇跡」の定義で莉奈さんを縛ろうとしている。
ならば、こちらは「記憶」で戦う。
ミーシャは、店のなけなしの金庫から資金を掴むと、街の裏通りにある、一軒の小さな印刷所へと走った。
「……無茶ですよ、ミーシャさん!」
話を聞いた初老の印刷所店主は、首を横に振った。「侯爵様に逆らうような瓦版を刷ったら、うちも潰されちまう!」
「お願いします!」ミーシャは、深く頭を下げた。「店主さんだって、食べたことがあるでしょう!領主の圧政でみんなが俯いていた時、広場で食べた、あの温かい醤油ラーメンを!」
店主の顔が、ハッとして歪む。あの日の、冷えた体に染み渡った一杯のスープの記憶。
「あの温かさを、侯爵の冷たい論理で忘れさせてはいけないんです!これは、街の魂を守るための戦いなんです!」
ミーシャの必死の説得に、店主は天を仰いでため息をつくと、やがて覚悟を決めたように頷いた。
「……わかったよ。聖女様には、俺の家族も救われた。恩を仇で返すわけにはいかねえやな」
その夜、印刷所にはインクの匂いと、機械の低い唸る音だけが満ちていた。ミーシャは、自らが書き上げた原稿を、震える手で職人に渡す。
瓦版の見出しは、こうだ。
【あの日の味を、覚えていますか?】
そこには、難しい言葉は一つもなかった。ただ、領主の圧政下で、誰もが希望を失いかけていたあの日、聖女様がなけなしの材料で作ってくれた「復興醤油ラーメン」の物語が、優しい筆致で綴られていた。ありふれた野菜の切れ端が、どうやって心温まるスープになったのか。一杯のラーメンを、身分の違う人々がどうやって分かち合って笑ったのか。
『―――聖女様は言いました。「温かいものを食べれば、人はもう一度、顔を上げられるんです」と』
ガチャン、ガチャン、と音を立てて、一枚、また一枚と、ミーシャの小さな反撃の狼煙が刷り上がっていく。
翌日の未明。
ミーシャは、ゴークに見張りを頼み、店の助手の若者たちと共に、完成した瓦版を手に街へ散った。彼らはそれを、広場の掲示板に、酒場の扉に、市場の壁に、一枚一枚、祈るように貼っていった。
グランヴィル侯爵が発令した「交易検問の継続」を告げる冷たい布告の隣に、ミーシャの瓦版は、ささやかに、しかし確かな温もりを持って、夜明けの光を待っていた。
まだ誰も知らない。このインクの匂いが、やがて街全体の記憶を呼び覚まし、人々の心を再び一つに結びつけていくことになるということを。




