第二十七話:閉ざされた厨房、開かれた記憶
石の部屋での最初の朝は、静寂と共に訪れた。窓格子の隙間から差し込む一筋の光が、壁に長い影を作る。私の世界から音という音が消え去り、聞こえるのは自分の呼吸と、時折不満を訴える胃の音だけだった。
水だけを口にする生活の一日目は、まだ耐えられた。だが二日目になると、確かな飢餓感が全身を支配し始める。思考はまとまらず、手足からは力が抜けていく。セオドーラが日に一度運んでくる水盤を手に取るのすら、億劫に感じられた。
(ダメだ……このままでは、思考まで衰弱していく)
祈りを捧げろと言われても、私の心に浮かぶのは神の姿ではなく、仲間たちの心配そうな顔ばかりだった。
私は、冷たい石の床にゆっくりとあぐらをかき、目を閉じた。
雑念を振り払うように、深く、深く息をする。そして、一つの光景を、心のスクリーンに鮮明に描き出した。
―――湯気に満ちた、私の厨房。
そこは、現実よりも鮮明な、私の記憶の聖域だった。
私は、記憶の中の調理台の前に立つ。ひんやりとした木の感触。壁にかけられたお玉やフライパンの重み。空気中に漂う、鶏ガラと野菜が煮える、あの懐かしい香り。
(……まずは、原点に戻ろう)
私は、この世界で最初に作り上げた、あのカップラーメンの再現を、頭の中で始めた。
まず【麺】。風味の弱い小麦粉に、「灰トカゲの苔」の灰を溶かした水を加える。練り込み、生地をまとめ、均一な力で伸ばしていく。記憶の中の指先が、生地の弾力をありありと感じ取る。細く切りそろえ、高音の油で揚げる音まで、耳の奥で響いた。
次に【スープ】。ギガボアの骨とコカトリスのガラを煮込む大鍋。浮かび上がる灰汁を丁寧にすくい、森のキノコと岩塩を粉末にして加える。味見はしない。私の舌と記憶が、完璧な配合比を知っている。
最後に【器】。陶器職人のお爺さんに作ってもらった、あの特殊な形のカップ。
全ての工程を、寸分の狂いもなく、思考の中で完了させる。
不思議なことに、この「記憶の厨房」に没頭している間は、肉体の飢えを忘れられた。私の精神は、料理への情熱と知識の再確認という儀式によって、別の形で満たされていたのだ。
その頃、現実の『聖女の厨房』は、主を失い、固く扉を閉ざしていた。
あれほど賑やかだった店内は静まり返り、火の消えた厨房はひやりと冷たい。その店の入り口に、ゴークは腕を組んで仁王立ちになっていた。彼は、莉奈が試練に発ったあの日から、一歩もここを動かず、ただ静かに、厨房の番人を続けていた。
「……ゴークさん」
店の中から、心配そうなミーシャの声がする。彼女は、誰もいない客席のテーブルを拭きながら、帳簿と冷たくなった厨房を交互に見て、ため息をついた。
「莉奈さんは、大丈夫でしょうか。それに、このままでは店の蓄えも……助手の若い子たちにも、お給金を払えなくなってしまいます」
彼女の不安は、感傷だけではない。生活を預かる経営者としての、現実的な苦悩だった。
「どうすれば……。私たちには、祈ることしかできないのでしょうか」
ミーシャの弱音に、ゴークは振り返らず、扉の外を見つめたまま、低く答えた。
「俺は、祈り方は知らねえ」
その声は、ぶっきらぼうだが、揺るぎない響きを持っていた。
「だが、守り方は知ってる。俺は、ここを守る。聖女様が、腹を空かせて、いつでも帰ってこられるように。ここが、俺たちの戦場だ」
その言葉に、ミーシャはハッとして顔を上げた。自分だけが不安なわけではない。ゴークも、ドルフさんも、ケイレブ様も、皆がそれぞれの場所で、それぞれのやり方で戦っているのだ。彼女はペンを握り直し、帳簿に向き直った。その瞳に、再び強い光が宿る。
神殿の独房。
私は、ゆっくりと目を開けた。思考の中の一杯は、完璧な出来だった。
肉体は確かに衰弱している。だが、心は折れていない。
セオドーラは、私の厨房を閉ざし、食材を奪った。だが、私の頭の中にある、この広大な記憶の厨房だけは、誰にも奪うことはできない。
(まだだ……まだ、戦える)
私は、壁に刻まれた正の字を一つ増やし、静かに二日目の夜が更けていくのを待った。




