第二十五話:静かなる観察者
グランヴィル侯爵が街の政治に揺さぶりをかけている間、神聖審問官セオドーラは、静かに行動を開始した。彼女は王都の騎士を一人も伴わず、黒い法衣姿で、一人街を歩き始めたのだ。
彼女が最初に訪れたのは、活気に満ちた市場だった。野菜売りの威勢のいい声、鍛冶屋から聞こえる槌の音、子供たちの笑い声。彼女の予想に反し、街は不安に沈んでいるどころか、力強い生活のエネルギーに満ちあふれていた。
「聞いたかい?今日の『聖女厨房』の日替わりは、猪の背脂を使ったこってり味らしいぜ」
「まあ!うちの亭主が聞いたら、仕事を放り出して飛んでいくわ」
すれ違う人々の会話に、ごく自然に混じる「聖女」と「厨房」という言葉。セオドーラは、その響きに崇拝や狂信とは違う、もっと身近で、温かい信頼のようなものが含まれていることに気づき、わずかに眉をひそめた。
次に彼女が向かったのは、治癒神殿だった。
「……セオドーラ様。よくお越しくださいました」
ムツィオ司教は、直属の上司以上に畏敬すべき存在を前に、緊張で声を上ずらせていた。
セオドーラは、神殿の最も神聖な礼拝堂で、ムツィオに静かに問いかけた。
「司教。あなたの目で見た、聖女リナの『奇跡』について、ありのままを報告なさい」
「は、はい。聖女様の作る『ラーメン』なる糧食は、確かに不思議な力を持ちます。それを食した者は、疲労を回復し、活力を得ておりました。街全体の士気が、あの一杯によって支えられていたのは事実です」
ムツィオは、事実を慎重に言葉を選びながら述べた。
「では、問います」セオドーラの視線が、剃刀のように鋭くなる。「あなたは、そこに神聖力……すなわち、我らが信じる神の御業の介在を、その目で確認しましたか?」
「そ、それは……」ムツィオは言葉に詰まった。「光が差すとか、傷が癒えるといった、明確な神聖現象は……確認できておりません。しかし、人々の魂が救われたのは、確かでございます」
「魂の救済、ですか」
セオドーラはそれ以上、ムツィオを追及しなかった。だが、彼女の心の中では、疑念がさらに深まっていた。神の力によらない救済など、ありえるのか、と。
そして、昼時。彼女はついに、全ての中心地である『ラーメン処 聖女の厨房』の前に立った。
扉が開くたびに漏れ出してくる、食欲を刺激する未知の香り。店の中から聞こえてくる、人々の楽しげな声と、食器のぶつかる音。セオドーラの生きてきた、静寂と祈りの世界とは、あまりにもかけ離れた光景だった。
彼女は、意を決して店の中へ一歩だけ足を踏み入れた。
その瞬間、店の喧騒がわずかに静まり、全員の視線が彼女に注がれる。だが、彼女は誰とも目を合わせず、ただその場の空気を全身で受け止めるように、静かに佇んでいた。
彼女の目に映ったのは、聖女などではなかった。
厨房で湯気にまみれ、額に汗して麺を湯切りし、助手に的確な指示を飛ばす、一人の若き料理人。
その料理人が作り出す一杯を、屈強な冒険者も、裕福な商人も、幼い子供も、皆が同じテーブルで、同じように美味しそうにすすっている。そこには身分の差も、立場の違いもない。ただ、「美味しい」という感情で結ばれた、温かい共同体が形成されていた。
(……これが、奇跡の正体?)
セオドーラの心に、大きな波紋が広がる。
これは神聖ではない。あまりに俗世的だ。騒々しく、汗と油の匂いがする。
しかし、ここにいる人々の顔は、神殿で祈りを捧げる信徒の誰よりも、満ち足りて、幸せそうに見えるのは、なぜだ。
こんなにも人間的な営みが、どうしてこれほどまでに、人の魂を純粋に救えるというのか。
理解できない。
自分の信仰では、目の前の光景を、説明できない。
セオドーラは、数分間、ただ黙ってその光景を観察した後、何も言わずに踵を返し、店を去っていった。
厨房の中からその姿を見ていた私は、ゴクリと唾をのんだ。彼女の無表情の奥にある、嵐のような葛藤を、肌で感じ取っていたからだ。
去りゆく審問官の背中に、私は確信した。
彼女は、この理解できない現象を、彼女自身の信仰の物差しで測れるように、分解し、解体しようとするだろう、と。
私の料理から、俗世的な要素……すなわち、食材、炎、知恵、その全てを奪い去った後に、何が残るのか。
彼女の試練は、きっとそこから始まる。




