第二十三話:平穏な食卓と王都の影
革命の喧騒が遠い昔のように感じられる、穏やかな昼下がりだった。
街の中央広場に面して建つ【ラーメン処 聖女の厨房】は、今日も変わらず活気に満ちていた。木の扉が開かれるたびに、鶏ガラと野菜の優しい香りがふわりと外へ流れ出し、道行く人々の足を止めさせる。
「へい、お待ち!濃厚体力味噌ラーメン、ニンニク増しだ!」
熊のように大きな体躯のゴークが、湯気の立つどんぶりを屈強な冒険者の前に威勢よく置く。冒険者は「待ってました!」と顔を輝かせ、レンゲを手に取った。
レジカウンターでは、ミーシャが眼鏡の奥の瞳をきらめかせながら、帳簿にペンを走らせている。店の経営を一手に担う彼女の姿は、かつてのギルド経理係だった頃より、ずっと自信に満ちていた。
そして、厨房。そこは、私の城であり、神殿だった。
「莉奈さん、次の麺、そろそろ茹で上がります!」
「ありがとう!こっちのスープも最高の状態だよ!」
私は、巨大な寸胴鍋から立ち上る湯気の向こうで、助手に声をかける。この一年で、何人かの若者が私の下で働くようになった。彼らはもう、私を「聖女様」とは呼ばない。「親方」か「莉奈さん」と呼んでくれる。その響きが、私には何より心地よかった。
あの日、領主ソラムが追放されてから一年。
私たちの街は、「円卓会議」という新しい仕組みの下で、ゆっくりと、だが確かに復興を遂げていた。ギルドマスターのドルフさんが悪戦苦闘しながらも街の代表として会議をまとめ、氷壁の騎士ケイレブ様が騎士団を再編して街の守りを固めている。誰もが、自分の役割を果たし、この平和な日常を築き上げてきたのだ。
その日常の中心に、このラーメン屋がある。人々はここで腹を満たし、身分の違いなく同じテーブルで笑い合う。私がこの世界で本当に実現したかった、ささやかで温かい光景が、ここにはあった。
「ふぅ……」
昼の営業のピークが過ぎ、私はカウンター席で賄いのラーメンをすすっていた。今日の気分は、復興のきっかけになった、あの素朴な醤油ラーメン。野菜の甘みが体に染み渡る。この優しい味が、今の街の象徴のようにも思えた。
「相変わらず、いい匂いをさせているな」
不意に、低い声がして顔を上げると、そこにはドルフさんとケイレブ様が立っていた。どうやら円卓会議の帰りらしい。
「ドルフさん、ケイレブ様!お疲れ様です。いつもの、でいいですか?」
「ああ、頼む」とドルフさん。
「俺は塩で」とケイレブ様。
二人が席に着き、私が再び厨房に立とうとした、その時だった。
街の外れで時を告げる鐘が、予定外の刻に、高く、厳かに鳴り響いたのだ。それは、通常の時報ではない。王都からの公式な来訪者を告げる、特別な鐘の音だった。
店の空気が、ぴんと張り詰める。
ゴークが店の入り口から外を覗き込み、息をのんだ。
「莉奈さん……こ、これは……」
広場の向こうから、整然とした隊列を組んだ一団が近づいてくるのが見えた。先頭に掲げられているのは、この地方領主のものではなく、王国そのものを示す金獅子の紋章。一糸乱れぬ行進で進む百名以上の騎士たち。その誰もが、ケイレブ様が率いていた精鋭部隊にも劣らない、冷たく鋭い気を放っていた。
やがて、その行列は広場の中央でぴたりと止まった。民衆が遠巻きに見守る中、馬に乗った二人の人物が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
一人は、壮年の男性。豪華だが華美ではない、最高級の生地で仕立てられた礼服を身にまとっている。その切れ長の瞳は、街の建物を、人々を、そして私の店を、まるで品定めするかのように冷ややかに見つめていた。王国宰相代理、グランヴィル侯爵。彼の纏う空気は、この街の温かさとは相容れない、絶対的な支配者のそれだった。
もう一人は、黒い法衣に身を包んだ女性。歳は三十代ほどだろうか。その美しい顔立ちは、まるで信仰心を形にしたかのように厳格で、一切の俗な感情を読み取らせない。腰に提げた銀の聖印は、地方の治癒神殿ではなく、王都の太陽を司る中央神殿の高位聖職者であることを示していた。神聖審問官、セオドーラ。彼女の視線は、他の何物にも向けられていなかった。ただ一点、私の店の看板―――【ラーメン処 聖女の厨房】に、まっすぐに突き刺さっていた。
ドルフさんが、忌々しげに舌打ちする。
「……厄介なのが来たな。王都の狸と、神殿の狐だ」
ケイレブ様は、無言で立ち上がり、いつでも剣を抜けるように、私の前にそっと立った。
グランヴィル侯爵とセオドーラは、店の前で馬を降りると、ゆっくりと店内を見渡した。侯爵の口元に、侮蔑ともとれる微かな笑みが浮かぶ。
「ほう。ここが、反乱軍の拠点となり、領主を追放したという街の心臓か。……なるほど。得体の知れない匂いが充満している」
その言葉に、店にいた冒険者たちの間に殺気が走る。
だが、それを制するように、審問官セオドーラが静かに口を開いた。その声は、冬の湖面のように冷たく、澄んでいた。
「あなたが、古文書に記された奇跡を再現し、『聖女』と呼ばれている者ですかな?」
彼女は、私をまっすぐに見つめて言った。
「王都中央神殿の名において、この街の秩序と、あなたの『奇跡』についての調査を開始します。まずは、この街の統治者たちに、話を聞きましょうか」
侯爵がドルフさんを一瞥し、セオドーラは私を一瞥する。二人の視線は、それぞれの獲物を定めたかのように、冷たく、そして揺るぎなかった。私たちの勝ち取った平穏な食卓に、王都という巨大な影が、はっきりと落ちた瞬間だった。




