第十六話:聖女奪還
その夜、街の静寂は、一つの鐘の音によって破られた。
真夜中に鳴るはずのない、治癒神殿の鐘。それは、街の勢力図を塗り替える、開戦の合図だった。
鐘の音と同時に、冒険者ギルドの区画から雄叫びが上がった。
「野郎ども、行くぞォォォッ!!」
ドルフさんの檄を合図に、固く閉ざされていたバリケードが内側から破壊され、武装した冒険者たちが津波のように街の中心部へとなだれ込んでいく。
彼らの目的は、領主の館への直接攻撃ではない。陽動だ。
「中央広場を制圧するぞ!」「東の兵舎を叩け!」「武器庫はどこだ!」
あちこちで火の手が上がり、街は意図的に作り出された大混乱に陥った。領主ソラムの主力部隊は、この予期せぬ大規模な反乱を鎮圧するため、街の各所へと散っていく。
領主の目が、街の内側へと釘付けにされた、その瞬間。
本当の刃は、音もなく、その喉元へと迫っていた。
私が囚われている離れの屋敷は、街の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
だが、その静寂は突如として破られる。
ガシャン、と窓ガラスの割れる音。続いて、数人の見張り兵の短い悲鳴。
「な、何事だ!?」
私の部屋を守っていた兵士たちが、緊張した面持ちで扉を固める。
彼らの顔には、領主への忠誠心よりも、街で戦っているであろう仲間を思う、不安の色が浮かんでいた。
やがて、部屋の扉が、外からすさまじい力で蹴破られた。
舞い散る木片の中から現れたのは、森の獣のような鋭い気をまとった、氷壁の騎士ケイレブ様だった。彼の背後には、同じく歴戦の空気を漂わせる精鋭たちが控えている。
「聖女様、お迎えに上がりました」
その声は、静かだったが、何者にも揺るがぬ決意に満ちていた。
「……ケイレブ様!」
私の名と同時に、見張りの兵士たちが慌てて槍を構える。
「き、貴様ら、領主様への反逆と知っての狼藉か!」
一触即発。血の匂いが、部屋に満ちる。
だが、その刃が交わされる寸前、私はケイレブ様と兵士たちの間に割って入った。
「やめてください!」
私は、震える兵士たちの顔をまっすぐに見つめた。数時間前、私の作ったシチューを「うまい」と言って食べてくれた、ただの若者たちの顔だ。
「お願いです。武器を置いてください。あなたたちと、私の仲間が殺し合う必要なんて、どこにもないはずです」
私の言葉に、兵士たちの槍の穂先が、わずかに揺れた。
その心に生まれた、一瞬の迷い。
ケイレブ様は、その隙を見逃さなかった。彼の動きは、疾風のようだった。
兵士たちが瞬きをする間に、彼らの槍は全てケイレブ様の手によって弾き飛ばされ、無力化されていた。実力の差は、あまりにも歴然だった。
「……感謝する、聖女様。あなたの慈悲が、無用な血を避けさせてくれた」
ケイレブ様は、私にそっと手を差し伸べる。
その時だった。
「見事なものだな、氷壁の騎士。だが、ここまでだ」
部屋の奥の闇から、執事ヴァレリウスが姿を現した。その手には、白刃のレイピアが握られている。
「聖女様は、我らが主の『資産』。誰にも渡しはしない」
「道を開けろ」
ケイレブ様の静かな声と、ヴァレリウスの粘つくような殺気が、火花を散らす。
二つの影が交錯したのは、一瞬。
甲高い金属音が一度だけ響き、ヴァレリウスの持つレイピアが、中ほどからぽっきりと折れて宙を舞った。ケイレブ様の剣の切っ先が、ヴァレリウスの喉元すれすれで、ぴたりと止まっていた。
「……終わりだ」
ケイレブ様に手を引かれ、私は屋敷の外に出た。
「聖女様、こちらへ!」
部隊の一人が、街の城壁に繋がるロープを指さす。これが、私たちの脱出経路。
私は、最後に一度だけ、街を振り返った。
あちこちで火の手が上がり、怒号と剣戟の音が響き渡っている。私のために、私の仲間たちが、命を懸けて戦っている。
私が始めた、一杯のラーメンの物語が、この街を戦場に変えてしまった。
(これで、よかったのだろうか)
私の心に、一瞬だけ迷いがよぎる。
だが、ケイレブ様の力強い手が、私の手を強く握った。
「行きましょう、聖女様。我々が、新しい日常を取り戻すのです。―――あなたの、温かいラーメンが待つ、日常を」
その言葉に、私は迷いを振り払うように、強く頷いた。
そうだ。終わらせるために、始めるのだ。
城壁の上から見下ろす街は、まるで巨大な獣が傷つき、喘いでいるかのようだった。
私は、ケイレブ様に導かれるまま、街の混沌を背に、闇の中へとその身を躍らせた。
聖女の奪還は、成功した。
だが、それは、この街の運命を賭けた、本当の戦いの始まりを告げる号砲でもあった。




