第十五話:盤上の王と内側からの湯気
領主ソラムは、苛立ちを隠せずにいた。
執事ヴァレリウスから上がってくる報告は、どれも彼の神経を逆撫でするものばかりだった。
「ギルドは、その区画を完全に封鎖。腕利きの冒険者たちが、まるで軍隊のように守りを固めております。街の物流は半ば麻痺状態に」
「民衆は、仕事を放棄し、広場で聖女様の名を呼び続けております。衛兵との小競り合いも頻発し、もはや統制が…」
「司教ムツィオめが、『聖女様解放のための祈祷会』を毎日開き、民の不満を煽っております。もはや、領主様が悪役という構図が完成してしまいました」
ソラムは、チェスの盤面を睨むように、街の地図を見ていた。
たった一人、料理人の少女を捕らえただけだ。それだけで、完璧に統治していたはずの自分の街が、指の間からこぼれ落ちていく。
彼は、民衆の心というものを、そして胃袋が持つ力を、あまりにも見くびっていた。
「……力でねじ伏せよ」
ソラムは、冷たく命じた。
「首謀者を捕らえ、見せしめにしろ。反逆の芽は、小さいうちに踏み潰すに限る」
「は、しかし、それは街の完全な崩壊を招きかねま―――」
「黙れ」
もはや、彼には引くという選択肢はなかった。一度振り上げた拳は、もう下ろせない。
彼は、自分が囚えた「駒」が、実は相手の「王」だったことに、まだ気づいていなかった。
その頃、私は、与えられた美しい牢獄で、静かな戦いを始めていた。
ただ待っているだけでは、状況は変わらない。ならば、私ができることをするまでだ。
私は、見張りの兵士に、丁寧にお願いをした。
「退屈なので、厨房をお借りしてもよろしいでしょうか?自分の食事くらいは、自分で作りたいのです」
兵士たちは、上官であるヴァレリウスに確認を取り、許可が下りた。レシピを盗まれる心配のない、ありふれた食材しか置かれていない厨房を使うこと。そして、常に監視の目を光らせること、という条件付きで。
私は、厨房に立つと、ジャガイモ、玉ねぎ、そして干し肉の塊を手に取った。
特別な食材は何もない。だが、前世の記憶には、ありふれた食材を最高のご馳走に変える知恵が詰まっていた。
肉と野菜をじっくりと炒めて甘みを引き出し、ハーブと共にコトコトと煮込む。
やがて、質素な厨房には不釣り合いなほど、豊かで、人の心を解きほぐすような優しい香りが満ち始めた。
ただのシチュー。だが、私の手にかかれば、それは兵士たちの疲れた心を癒す、魔法の料理と化す。
「……できた。よかったら、皆さんもいかがですか?体が温まりますよ」
私は、見張りの兵士たちに、出来立てのシチューを椀に入れて差し出した。
兵士たちは、最初こそ戸惑っていたが、抗いがたい香りと、私の屈託のない笑顔に、おずおずとスプーンを手に取った。
一口、食べる。
そして、彼らの厳つい顔が、驚きに、そして、ふっと安らぎの色に変わっていった。
「……うまい」
「母さんが作ってくれたシチューの味を、思い出した……」
彼らは、領主の命令で、街の仲間や家族と睨み合う日々を送っていた。心も体も、疲れ切っていたのだ。
その隙間に、私のシチューが、温かく染み渡っていく。
私は、彼らにとって、もはや「囚人」や「聖女」ではなかった。
美味しい飯を作ってくれる、一人の優しい少女。
彼らが守るべき領主の「正義」と、目の前にある素朴な「幸福」。その天秤が、彼らの心の中で、静かに揺らぎ始めていた。
その夜。
街の外れの丘の上で、一人の影が、息を殺して街の様子を窺っていた。
ギルドから派遣された、隠密行動を得意とするレンジャーだ。
彼は、昼間のうちに森を駆け、禁忌の森から全速力で帰還しつつあるケイレブ様の部隊と、すでに接触を終えていた。
レンジャーは、懐から小さな笛を取り出すと、夜鳥の鳴き声に似せた、短い音を三度、夜空に響かせた。
それは、街中に潜む仲間への合図。
そして、遠く離れたケイレブ様たちへの、最後の確認の合図でもあった。
合図を受け、ギルドの屋上で見張りをしていた冒険者が、松明を高く掲げる。
その光は、街を包囲する丘の一つで待機していた、ケイレブ様の目に届いた。
彼は、静かに鞘から剣を抜き放つ。
月光を浴びて、その刃が鈍く光った。
彼の背後には、森での過酷な旅を経て、獣のように鋭い気を放つ精鋭たちが、同じように武器を構えていた。
彼らの目は、一つの場所だけを見据えている。
領主の館の離れ。鉄格子の嵌まった、あの美しい牢獄を。
「―――今宵、聖女様を奪還する」
ケイレブ様の静かな声が、夜のしじまに溶けていく。
内側では、民衆の怒りが沸点に達し、ギルドの戦士たちがバリケードの内側で牙を研いでいる。
そして外側からは、最強の刃が、今まさに支配者の喉元に突きつけられようとしていた。
街の運命を決める、長い夜が、始まろうとしていた。




