虚構の神と否定のための神について
まず、これは貴方の求めるような素敵な物語ではない。
これは単に、私が気づいた有神論者と無神論者の両者が抱える皮肉のような矛盾点を何かに残したいという衝動から書き始めたものだ。
他の方の素敵な物語ではないので、どうぞブラウザーバッグしてほしい。
もし、5分ほど時間をくれてやると思った方は私の考えを知って反論を試みてくれれば嬉しい。
ところで、貴方は「神」を信じるだろうか。
「神頼み」という言葉があるが、貴方が「頼み」をする相手は誰か。あなた自身か?それとも挑む相手か?
もし、神を認めているという方がいれば、どのように観測したのか教えてほしい。
もし、神を否定しているという方がいれば、どのように否定したのか教えてほしい。
おそらく私の話はそのような状況に対する強烈な皮肉になるのではないか。そんな期待を込める。
私は人が神を認識するための方法を「観測」と定期する。人は観測により神を認識し、その有無を判断するのである。
これから、観測とは何なのか、神はどう認識できるのかを説明していく。
【1. 有神論者と無神論者】
「神」という概念を思いついた時、その人は有神論者になる。
「神」という概念を否定したとき、その人は無神論者になる。
【2. 観測と知識欲】
観測とは、神や神性を体験しようとする行為である。
人が神の有無を証明するとき、最終的には神を知る必要がある。
観測とは神を知ろうとする行為の全てである。
第三者が定義できるものではなく、それはある種の知識欲の発露である。
観測に先入観があってはならない。
純粋たる知識欲が神の有無を観測させるのである。
繰り返すが、観測とは知識欲である。
そして知識欲とは衝動である。意図した観測は衝動ではなくなり、知識欲ではなくなる。
【3. 観測のジレンマと神の現れ方】
無神論者が神を否定するためには、神を認識しなければならない。
なぜなら、無に対する証明はできず、また、否定する為に神を求めている時点でその者には神が現れているからである。
だが無神論者が観測を試みる神は、その者の主観では神ではないのだ。
無神論者は神を望まないので「それ」を神と自覚しない。だから神を観測できない。
しかし神を否定するために無神論者は神を発露させる。だから無神論者にしか神は観測できないが、無神論者は神の存在を否定するために神を観測しなければならず、また神の認知を否定するしかないのだ。
だが、有神論者にとって神は規定された事実である。だから観測するだけでよく、わざわざ規定する必要も当然否定する必要もない。
しかし、神は観測できない。
観測とは先に述べた通り、純粋たる知識欲である。しかし神を認知するためには神を観測しなければならない。だが依然として神は規定されない。その人の妄想の域をでない。
なぜなら、神の観測を試みる時点でその観測は成り立たないからである。観測とは純粋たる知識欲である。神を求める先入観が神の存在を否定するのである。
規定された形を求め発露させても、それは「妄想」でしか無い。
【4.人類と神の関係】
人類は神を局地的にではなく、多極的に出現させた。この事実は紛うことなき神の出現である。
人間の純粋たる知識欲は未知の理由を神に求めた。
その昔、未知や感情のような規定されない概念はすべて神であった。
しかし、純粋たる観測をやめた時点で神は消えたのだ。神は神によって説明できるものとなった。それは人間によって創られた妄想でしか無いことを、信仰心が証明したのだ。
【5. 結論】
正しい観測とは何なのか。
それは存在しない。
神は否定する者の前に存在し、神を認める者の前には存在しないのだ。
純粋たる知識欲とは何か。
それは発想の瞬間の爆発的エネルギーだ。
神が現れたと思った時、純粋たる知識欲は満たされ、神が知識欲を汚すのだ。
もし、読者がいれば奇跡だろう。
私のしょうもない語りに付き合ってくださり感謝申し上げます。