端緒
最高につまらない。私の愛する平穏な日々は波風たたずにすぎていく。あの日私の胸中に起きた荒波は徐々にその周波数を緩めていく。一度カメラを手に取って仕舞えばその四角い画角に夢中になってしまう。今では彼女や飛鷹さんに抱いていたヤキモキした感情は打ち寄せては引く程度のものになってしまった。それでも彼女のことを考えない日は一日たりともなかった。話を聞いてみると大きく宣言したはいいものの、あれ以降砂絵さんがスタジオにくることはなく、街で見かけるようなこともない。さらにはどこに住んでいるのかさえ知らないのであるからどうしようもない。いつも通りの昼下がり。凍りつくような冷たさと太陽の温もりが混ざり合った澄んだ空気が内灘町を包み込む。もう直ぐ春が来る。カメラを握り続けて心身ともに張り詰めた私は午後の撮影に向けてリフレッシュしようと、今日は一人海辺でおにぎりを食べることにした。いつも通り移動は自転車。頬を撫でる風も少しずつ柔らかくなってきたようだ。鼻を通り抜ける空気に徐々に塩の香りが滲んできた時、視界の中に違和感をとらえた。見覚えがあるような、胸が大きく跳ね上がるような感覚をどこかで感じているのにそれを掴みきれないような歯痒さ。どんなに胸を打つ光景も、角度を変えればなんの変哲もない風景に変わってしまう。ひとまず道端に自転車をとめ、堤防を駆け下り砂浜に向かう。
そこにはいつか見たものとそっくりの砂山が佇んでいた。前回見た時とは打って変わって、日中に見る砂山には今にも潮風と陽光に押しつぶされそうな弱々しさがあった。山の半分はすでに波や風に削り取られ、その輪郭を失いつつある。誰かの落とし物。落とし物は所有者のひととなりを映し出す鏡であり扉となる。きっと子供達が今朝か昨日の放課後にでも作ったんだろう。浜辺に高く突き出たその砂山の様子はまるで砂浜が勃起したみたいだ。そんなくだらないことを考えながら、何気なくその砂山に近づき腰を下ろす。おにぎりのラップを捲りつつ、遥か彼方に朧げに見える島に目を凝らす。人からすればあってもなくてもどちらでもいいような、明確な輪郭も持たない霞んだ存在。こんなに気持ちいい天気と波風の下にいるというのに、気を抜くとすぐに嫌な思考が頭に滲んでくる。腹を満たせば少しはポジティブになれる。そんな身も蓋もない妄想で鬱々とした頭の中を晴らそうとおにぎりに思い切り齧り付く。おにぎりと浜辺にあぐらをかく私。その両脇に両親の姿はもうない。貧乏な家族の唯一の贅沢。それは鮭がたっぷり詰まったおにぎりであった。たっぷりと言っても大匙一杯ほどの鮭であるが、私たち家族三人にはそれで十分だった。鮭のおにぎりは母親の得意料理でもあり、私と両親は顔を見せ合い「美味しい美味しい」と笑い合ったものだ。その記憶はあまりに遠くのもので、思い出すにしても色褪せて霞がかったものになってしまうが、私の感じていた幸せはずっと胸に残り続けている。砂浜に来ても遊び道具はないので水をかけ合うか、砂山を作るかしかなかった。それでも苦しい生活の中、今では思い出すことも困難な程暗い暮らしの中、そのひと時だけは一筋の光のように私の記憶の中で光を放つものだった。まさか砂山で記憶を掬い出すようなことになるとは。カメラだけが記憶を目覚めさ湧き上がらせる存在だと思っていたので、新鮮な感動を覚える。
次第に島からピントがずれていき、ぼやける視界の中で何を見ているのかもわからない状態でいると、おにぎりを持つ私の指を溢れた少量の鮭が滑り落ちていくのを感じた。まずい、私にとって鮭は高級品であり大好物の品物だ。一欠片も余らせずに食べ尽くさねばならない。広い浜辺でそんなちっぽけな独り言を胸の中で呟きつつ、躍起になって一粒の鮭を探す。血眼になって探した末、ズボンの皺の奥深くにそれを見つけた。安堵してそれをつまみ上げようとすると、胡座をかいたその足越しに何やら文字が書かれているのを発見した。私がジタバタしているうちに若干消えかかってしまったそれは、枝で書かれているのかまだかろうじて判読できる状態だった。
「しんくん、ハート、まま、、、」
拙い筆運びでありながら力強いそれは、おそらく小さな子供が書いたものだろう。この可愛らしい文字を見ただけで母子二人で一生懸命に砂山を作る情景が脳裏に浮かぶ。なんだか胸が締め付けられる思いでおにぎりに口を運んでいると、体全体に電撃が走ったよいうにその動きが止まる。無意識に感じた違和感、点と点が繋がるような衝撃。
『ほら心くん挨拶は?』
『心介です。お願いします。』
まさかな。こんな運命的な巡り合わせ起きるはずがないだろう。いくらこの町が小さいと言っても、他にも一人や二人は同じようなしんくんがいるはずだ。ゆうしん、しんたろう。いくらでもしんくん候補はいる。それでも興奮を抑えられず、希望的観測をやめられないでいるのは久しぶりに砂絵さんの息遣いを五感を使って感じることができたからであろう。さざなみ程度であった私の感情も、少しずつ着実に波打ち際に運命を運んでいたのだ。今まで寂しくなるほどに何事もなかった分、ほんの少しでも彼女と出会える可能性が浮かび上がってくるとどうしても興奮を抑えられない。きっと砂絵さんは心介くんの遊び場所として砂浜を選んでいるのだ。もしかしたら今日もここに遊びにくるのかもしれない。あの繊細で美しい声、透き通るように輝かしい容姿。もう一度あの姿を見ることができたら。あの人を色んな角度で見てみたい、色んな側面を見せてほしい、記憶だけじゃ心許ないから。砂浜に残された文字一つで浮き足立つ情けなさを潮風に晒し、胸に膨らむばかりの期待感に浸っていると突然一際強い風が吹き、ズボンに付いた鮭ごと私の恍惚を吹き飛ばす。慌てて時計を見ると、針は12:25を指している。まずい、あと五分しか残っていない。慌てて立ち上がり、おにぎりを口に押し込みつつ堤防を駆け上がる。腹の奥から無数に湧き上がる感動を口の中一杯の米粒で封じ込める。今私は生きている。これまでにない程に生を実感している。春の風は私を後押しし、鳥たちは祝福の歌を歌っている。自転車を走らせると風は耳元でヒューヒュー、海はドラマティックに飛沫をあげる。米粒いっぱいの汚い口を開き大声で笑い声を上げる。ここに砂絵さんはいる。ここにくれば砂絵さんに会える。奥底に眠る感性と私をめぐり合わせてくれる場所。必ず再開しよう、集合場所は砂山の麓で。そう胸に誓い、一層ギアを上げてスタジオに戻っていく。




