合縁奇縁-前編
ここ内灘町での暮らしは可もなく不可もない。夫と息子とわたし。三人での暮らしは大きな波風が立つこともなく穏やかに流れていく。わたしの胸はずっと凪いだまま。飛鷹さんの逞しい抱擁を受けて、気の向くままに日々の合間をすり抜けていく。飛鷹さんとの出会いは波紋と波紋が溶け合うような、ささやかなものだった。わたしが高校生の頃から働き続けている仕立て屋「FUKURO」に新卒の飛鷹さんが初めて来店したあの瞬間を今でも覚えている。ドアのベルがチリンと音をたて、受付で事務作業をしていたわたしは顔を上げる。そこには希望と覇気にあふれた顔つきで堂々と歩み寄ってくる彼の姿があった。新卒社会人として新しくスーツを仕立てたいのだという。その日はわたししか店にいなかったため自然とわたしが一通りの対応をすることになった。正直男性の接客は苦手だ。多分無意識に気持ちが前面に出てしまっていたのだろう、辿々しい手つきのわたしを彼は笑顔で気遣ってくれた。一緒に生地を選んで、デザインを決める。ふと顔を上げるとなぜか目が合ってしまい、お互いに気まずくなって目を逸らす。それでもわたしは、彼に胸を張って社会人生活をスタートしてもらおうと必死にスーツ選びを進めていった。この小さい店から希望が巣立っていく様子を見るのがわたしの幸せだ。そしてついに最終工程、採寸。男性経験が皆無のわたしはやはりここでも手が震えてしまった。どうにか抑えようと両手を凝視しつつ全身に力を込めていると、そこにもう一つの大きな手が重なる。
「大丈夫。僕はあなたを食べやしないよ、怖くない。ゆっくり、自分のペースで進めてくれればいい。そっちの方が僕も安心だ。」
「なっ、食べるなんて。そんなこと微塵も考えてません!」
「あっいや、そういう意味じゃなくて、その、緊張している様子だったから。」
「あっ、そう、そうでしたか。ごめんなさい。」
「ふふっ、面白い人だね、本当に。君何歳?」
「今年でやっと20歳です。」
「おっと、意外と近いじゃんか。もっと若いもんだと勝手に。」
「それはガキっぽいってことですか?田舎者を馬鹿にしないでください。」
「違う違う、!そんなわけじゃ、とても綺麗だなと思って。ごめんって。」
「ははっ、いくら褒めても割引はしませんよ。」
不思議と震えは止んでいた。大きく息を吐き、覚悟を決め、採寸のため彼の体にゆっくりと触れる。ぴったりめのスーツにしてと伝えられていたため、恐る恐るメジャーを体に密着させる。刹那、わたしの早まる鼓動と彼の大らかな鼓動が共鳴し、溶け合っていく。鼓動を擦り合わせるように、肩幅、胸囲、胴囲、袖丈、着丈、ウエスト、ヒップ、股下と順番に測る。それはまるで彼の体をスキャンしているような、彼の身体をなぞるような。彼のシャツ越しに伝わる逞しさ、鍛え上げられた肉体、そして温かな体温はどんどんわたしの顔を赤く染める。全てを測り終えた時には、わたしは得体の知れない疲労を感じていた。スーツの完成まで一ヶ月。その時になったらまたここにきてと業務的な伝達をそそくさと済ませ、会計を進める。この人と一緒だとわたしの胸がもたない、熱膨張で破裂しそうになる。今すぐに一人になって冷静さを取り戻したい。これだから男性は嫌だ、話すたびに心臓がすり減っていく。
「本日はありがとうございました。また一ヶ月後、お待ちしておりま、、、」
「また会いたい。」
突然遮られてビクッとする。顔を上げるとそこにはくっきりとした黒目でまっすぐにわたしを見つめる彼の姿があった。
「一ヶ月なんて長い時間、僕には耐えられない。一週間、いや明日にでも会いたい。正直、君以上に僕の胸をざわつかせる人に出会ったことがないんだ。今日会ったばかりで何を言ってるんだこの馬鹿はと思うかもしれない。けど、僕のわがままを聞いてほしい、頼む。」
なんなんだこの人は。大柄で大雑把な印象を受ける図体をしているのに、なんてまっすぐなんだ。この逞しさに一抹の信頼性を感じている自分にもびっくりする。今までこれ程に強い視線と想いを正面からぶつけられたことはなかったため、不思議と身動きが取れなくなってしまう。わたしはただひたすらに顔を赤らめることしか出来なかった。
「そ、そうだよね。ごめん、僕はなんて無神経な人間なんだ。僕みたいなただの肉塊に好意を寄せるもの好きなんているわけがないんだ。あ、すまない、振り回しちゃってごめ、、、」
「わかりました!」
焦りに任せて支離滅裂な叫びをぶつけてしまった。飛鷹さんはただ茫然とわたしの潤んだ目を見ている。頭の中で焦りや羞恥がカランコロンと音を立てている。その異物感に虫唾が走る。それらがどこから生じたのか、なぜ頭の中を縦横無尽に飛び回っているのか。空っぽの頭では何もわからない。威勢よく言葉が喉元をこじ開け彼をひるませることに成功したが、残念ながら次の言葉は喉の奥でつっかえたまんまだ。わたしは途方もなく口をわなわなさせるほかに何もできずにいた。客観視せずともなんと情けない様であろうか。
「あ、え?なんか、なんだろ、本当にごめんなさい。変に気を遣わせちゃったかな?」
優しさか、底知れぬ呆れか。この熱い感情の輪郭もつかめず悶々するわたしは今どんな目で見られているのか。そんなやるせない思考に雁字搦めにされ、押しつぶされそうになる。このまま負のループに陥り最悪の結果が待ち受けていることは自分でもわかっている。それだけは避けねばならない、それだけは絶対に。心臓の高鳴りは最高潮に達し、その鼓動はやがて体の隅々にまで染み渡る。目を閉じ、体中をゆっくり走りゆく波音に耳を澄ませる。深呼吸。吸って、吐いて、ゆっくり目を開く。




