番外編 宰相ハワード・ダルトンの呪い
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人間とは、予想外の出来事に遭遇するとその場に立ち尽くすことしかできないものだった。
私にそんな瞬間は訪れることはないと思っていたのに。
そんな、頭の悪い反応なんてするはずがないと。
あの方の訃報を耳にした時は冗談だと思った。
しかし、すぐに考え直す。
私に何も知らされていないのはおかしい……いいや、あの方は最近変だった。
何かの策略をもってそんなことをする人だろうか。
自身の死を偽装して不穏分子をあぶり出すようなことは──第一王子も亡くなり、後継者も発表した今では必要ないはず。そう、私たちの子供が後継者になったのに。
でも、あの方は本当に亡くなっていた。
眠れていないようだったしやや疲れているようだったが、宮医は病気ではないと言っていた。まだあの方は四十歳にもなっていなかったのに。
昨夜のお披露目パーティーでも普通に会話をしたではないか。
そして、あなたは私に笑いかけたではないか。めったに見せないあの笑顔で。
きっと、生前のレックス・ファルコナーに向けていたあの、笑顔で。
眠っているだけに見える、何も命令を発しない女王の手首にはイエロートパーズのブレスレットがあった。
体の横で拳を握りしめる。
あの方の着けておられた装飾品はすべて記憶している。これは、私が城に来てから一度も見たことがないものだ。
きっと、あの男からの贈り物だ。あの方の趣味とは少し外れている。
どうして──あなたは──。いつまで経っても私を見てはくださらないのですか。
あなたがレックス・ファルコナーの後を追おうとするのを止めたからですか。
私は、あなたのために大切でもない国のために働いたのに。
国なんて、私にとってはどうでも良かった。あなたが国と国民が大切だと言うから宰相として働いただけ。あなたの側にいられれば私はすべてどうでも良かった。
肌を重ねても、私たちの子供が立派な国王になるだろうと分かった今でも、どうしてその目に私を映し、心から一瞬でもあの男を追い出して私を居座らせてくださらないのですか。
「ダルトン宰相」
「……これは、王女殿下」
宰相室の窓辺にぼんやり突っ立っている私に声をかけてきたのは、音もなく入室してきた王女だった。
公然の秘密だが、彼女はアステール公爵と女王の子供である。
実は、見た目でいえば子供の中でも王女が最もあの方に似ている。
私の息子である第二王子も王女も金髪金目だが、第二王子の輪郭は私によく似ていた。私のメガネと髪の長さと目の色のおかげで気づかれにくいが、よくよく観察して察する者も多い。
「王女殿下、何か御用ですか」
あの方の国葬が終わって五日。
私はどうやって生きていたか分からない。上の空で何かを食べ、何かの書類を処理した記憶はある。息子である第二王子に叱責されたのも覚えている。
私が愛して人生を捧げたあの方はもうこの世にいないのだ。
もしかしたら訃報なんて嘘で生きておられるのではないか。この扉を開けたらいつも通りあの方がいらっしゃるのではないか。
そう期待して執務室に行っても、いるのはあの方ではなく、厳しく教育した息子だ。息子はあの方の死を嘆いている暇はないとでもいうように、堂々と指示を飛ばしてくる。
いくら目の前の王女があの方と似ていても、見間違えることはない。声が決定的に違う。
あの方の声はこんなに可憐ではない。もっと低く重々しく首を垂れたくなるほど威圧感のある声だ。私が出会った頃は、あんな声を出す方ではなかった。
「宰相は飛び降りそうね」
あの方が亡くなったというのに、第二王子も王女も平気そうだ。王女など、私を見てクスクスと笑っている。
第二王子はこの王女のことをお花畑だと内心激しくバカにしているが、私はバカにするほど接点がなかった。なにより、あの憎いアステール公爵の娘でもある。
そんな接点のない王女が何の用があって宰相室までやって来たのだろうか。
王女は王子たちと比べて厳しい教育は受けていない。
王女としての振る舞いはできており、降嫁するのだからと令嬢たちとのつながりをお茶会で作っていたくらいだ。
「この高さでは飛び降りても死ねませんよ」
「そう? お母様の後を追いかけそうだわ。この高さなら当たり所が悪ければ首を折って死ねるわよ」
あの方のいない世界に何の意味もない。
あの方が護衛騎士に抱えられてダルトン伯爵邸に逃げ込んできた瞬間を私は見ていた。そして、実の兄を殺して死のうとしたところを止めた。
絶望と怯えと復讐の混じった黄金の目はとても美しかった。
そしてあの方が王都に戻った後、ダルトン伯爵家の中で私だけが城に呼ばれた。
「私のために、あなたは宰相になりなさい。賢いあなたならできるでしょう。上り詰めるのです、ここまで。私も最大限助力します」
もうその時のあの方は震えても怯えてもいなかった。
座った状態のあの方に命令された時、私はなぜあの方を死なせなかったのか分かった。
あの方は王にならなければならない人だった。
そこからずっと私はあの方に囚われている。
最初は必死だった。宰相になってからは側にいられるだけで幸せだった。そして、あの方が二度目に私の前で弱い姿を見せた時、思わず手を伸ばしてしまった。
意識を目の前の王女に戻す。
「宰相がそんな腑抜けた状態なら、私がお兄様を押しのけて女王になろうかしら」
目の前の王女は笑いながら信じられない言葉を放つ。
一拍置いてから私は返事をした。
「それは難しいかと」
「そう? アステール公爵家と婚約者の家の後ろ盾があればできるわよ?」
後継者教育も受けていない王女が何を言っているのか。
しかし、王女は冗談を言っている様には見えない。
「お兄様を殺して、私が赤い玉座に座ろうかしら。それはそれで面白いかもね」
何という不謹慎なことを。
あの方が第一王子をわざわざ殺したのは息子に殺させないためだ。次の王が兄を殺したあの方のように「赤い玉座に座った」などと非難されないためだ。
「何をおっしゃりたいのですか。後継者教育も受けていない王女殿下には誰もついてきません」
「私のお父様なら私のために後ろ盾になってくれるわよ。婚約者の家もね」
婚約者である侯爵令息に恋をして、頭の中が花で埋まったのだろうか。
このような王女が、あの方の娘だなんて。
王女は薄く笑いながら私を眺めていたが、私の失望を見てとったのかさらに口角を上げる。あの方の笑い方そっくりで吐き気を催しそうになる。
「なぁんてね、無理なのはちゃんと分かってるわよ。私はそこまでおバカじゃないわ。でもね、ダルトン宰相。あなたがそんなに腑抜けて今にも死にそうな顔なのは困るわ。お兄様は叱責すればいいと思ってるみたいだけど。私の今後の平和な生活のために宰相にはたくさん働いてもらわないと。だから、死ぬことなんて許さないわよ」
王女はその場で淡いピンク色のドレスを見せびらかすように優雅に一回転した。
あの方は赤や黒といったはっきりした色のドレスをよく身につけていた。この王女は淡い色のドレスをよく纏っている。
「どう? 婚約者が贈ってくれたの。愛されるってとってもいいわね。婚約者のことは全くタイプじゃなかったんだけど、ずっと愛を伝えてくれたのは彼だけなのよ。不思議よね、そうすると尊敬が芽生えてくるんだもの」
それは愛されず、見てももらえなかった私への当てつけだろうか。
側にいたら欲が出る。自分がこんなに欲深いみっともない人間だなんて知らなかったほどに。
「王女殿下は陛下のことを避けていらっしゃったでしょう」
「だって、側にいたらすぐ比較されるじゃない。私、すぐ分かったわ。小さい頃はお母様のような女王になりたかった。でも、私の能力じゃ無理なんだって。貴族のおじ様たちに女だと舐められながらお母様のようにはできないもの。お母様の後に女王になったってお母様のようにできないなら苦しむだけよ」
王女は意外なほど現状をよく理解していた。
あの方は性別で舐められていた部分は計り知れない。
だから私は貴族たちを黙らせたのだ。あの方を「これだから女は」と事あるごとにバカにする貴族たちの不祥事を秘密裏に集めたり、時には汚い手も使ったりした。
そう、この王女は要領はいいのだが、女王のように冷徹な判断は決してできない。そう家庭教師が言っていたことを思い出す。アステール公爵そっくりだ、頭が良く手の抜きどころがとてもうまい。公爵は笑顔で冷徹な判断を下すのでそこだけ似ていない。
「お母様は私にこんな風になってほしかったんでしょ? 恋に恋をしているような愚かな王女に。というか、お母様がこんな風に生きたかったんでしょう?」
「……陛下は、あなたにそんなことは一度も強要していません」
「そうね、お母様はそういう人よ。でも、心の中ではそう思っていた。それを私の本当のお父様は実行した。私も茨の道は嫌だから乗っかった、利害の一致。それだけよ。私はこれから愛されて安寧に生きていくの、お母様が望んだように。そして、お母様とは全く違う生き方で」
息子にはどもった演技をさせ、第一王子や第一王子派の貴族たちの目につかないようにさせていた。
この王女も似たようなものだ。自分の力量を瞬時に理解し、最適な怠惰な道を選んだのだ。
「私がここに来たのはね、宰相。あなたを呪ってあげるためよ」
顔をしかめてしまったのが自分でも分かった。
すでに私はあの方に呪われているようなものだ。
愛している人の最も側にいるはずなのに、あの方との息子が王位に就くのに、それでも愛されない。毎日毎分それを突き付けられる。
あの方は私を愛する振りをすることなど一度もなかった。愛人になったその瞬間さえも。
目の前の愛されるだけの王女は皮肉な存在だった。
あの方が望んでいた姿はこれだったのだろうか。私は、愛していた、あの方のことを。
自分の人生も命すらも惜しくないほどに。あの方のためなら手を汚くも染めた。何でもできた。
「あなた、死のうとするお母様を引き留めたのでしょう? 宰相がお母様を引き留めなければ私は生まれていなかった。婚約者に会うことも、お父様に甘やかされることも、格好いいお母様を見てこれが私の母なのかと感動することも、そして決してあのようになれないと絶望することもなかった。だからすべての感謝を込めて、今度は私があなたを引き留めてあげる」
あの方とは真逆の道を歩む王女は、本当に自分の道を自分で決めたのだろうか。
アステール公爵にそれさえも制御されているのではないか。あの憎たらしい飄々とした身分も金も何もかも持つ男。何も欲していないようで、何度いいところを持っていかれたか。
「もしもあなたが後を追うのなら、私は幼い頃に諦めた王位を取りに行くわ。後継者教育も受けていない私が王位に就いたら、さぞ貴族たちが調子に乗るでしょうねぇ。あなたの大嫌いなアステール公爵はもっと力をつけるでしょうし、やっとどもりの演技を辞めたお兄様は、他国の女王のハーレムにでも放られるんじゃなくって?」
可憐な声で紡がれるのは可憐な内容ではない。
やはり、この王女はアステール公爵とあの方の娘だ。ほんの少しだけ懐かしくなる。
「国は乱れるでしょうねぇ。せっかく、お母様とあなたが頑張ったことが私の代で滅茶苦茶になるかもしれないわねぇ。でも、仕方ないわね。だって、あなたが死にたいって言うんだから。最愛の人を亡くして死にたがるお母様を引き留めて生かしておいて、自分は最愛の人を亡くしたらさっさと死のうとするのだから」
奥歯を噛みしめる。
違う、あの時はあのようにしなければいけなかった。
貴族としても男としてもあれが正解だった。王族をあれ以上失う訳にはいかない、そしてあの方は王となる器の方だった。そして何よりも美しかった。あの瞬間に死んではいけなかった。
私はあの時の選択を後悔していない。
だが、何かが引っかかる。
私はなぜ、あの時初めて会った瞬間のあの方にあれほど惹かれたのだろう。
目の美しさ、入り混じる感情の美しさ、そしてあの方の生き方を愛したのだと思っていた。
あの方を抱えて伯爵邸までやって来た護衛騎士をあの後から見ていない。褒賞をもらってどこかへ引っ込んだのか? 城に来てから調べたが該当する人物はいなかった。
そして、ここ最近あの方の後ろに控えていた騎士は──誰だ?
私の記憶力はいい。それなのに、あの騎士の名前も容姿も思い出せない。
あれは誰だ? あの方を助けた騎士はどこへ? そして、あの方が亡くなってからあの騎士を見ていない。
その事実になぜか手が震え出す。
私の選択は、本当に私自身がしたものだったのか? あの瞬間、そうせねばならないと感じた。あの突き動かされる衝動こそが愛だったはず。
「死ぬことは決して許さなくってよ、宰相。最愛の人を失っても頑張ったお母様と同じ年数は生きなさい」
目の前にいるのは、確かにあの方の血を受け継いだ王女だった。
愚かで愛に溺れた王女ではなかった。
そんな王女に、私は再び呪われた。
私のやったことは私に返ってきた。




