自問自答 (3日目 2月26日)
1790文字です。
私は今猛烈にマイクラがやりたい。「毎日投稿なんぞくそくらえだ!」と叫んで、鉄ピッケル片手にダイヤモンドを探しに行きたい。
しかし、毎日投稿をすると言ってから3日目でやめてしまうというのはカッコ悪いの極みである。三日坊主ならぬ二日坊主。ことわざを作った人も真っ青の怠惰っぷりである。そうはなるまい。せめて1ヶ月ぐらい続けたい。
「かっこよくなりたい」ではなく「ダサくなりたくない」という動機はマイナスな感じがしていけないが、これも立派な理由である。その心が私の中にある限り、この毎日投稿は続けられるであろう。
前置きが済んだところで本題である。今回は何について語りたいかというと、「もしかしたら私は文章を書くのが好きではないのかもしれない」ということだ。これは、昨日少し長めの文章を書いて実感したことである。
ここで問題なのは、「苦手」ではなく「好きではない」というところだ。苦手ならばまだやりようがある。コツコツと練習を続けてるうちに自然と上手くなっていくだろう。しかし、好きではないというのは好みの問題であるから、前者より少々厄介なのである。
ではなぜ私が文章を書くのが好みではないと思ったのかというと、それは私のタイピングの速度に起因する。私は幼い頃からパソコンが家にない環境で育ってきたので、タイピングの技術がないのだ。しかし、頭の中ではスラスラと文章が組み立てられていくため、頭の中と、電子上の原稿とでラグが起きる。それが私にはかなり苦痛らしいのだ。
例を挙げて説明しよう。「昔々あるところに、お爺さんとお婆さんが暮らしておりました。ある日、二人はいつものように、お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯へ行きました。」という文章を私が思いついたとする。そしてその文章を、私の両手は必死にタイピングして文字におこす。しかし、前述のとおり私のタイピング技術はまだ未熟なので、私の頭が「川の上の方から大きな大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れてきました」と続きの文を思いついても、まだ「暮らしておりました」らへんをタイピングしているのだ。そうすると、私の頭は次の文を考えることを一回ストップして、タイピングを早く終わらせることに集中しようとする。しかし、初めに思いついた文章をやっとタイピングし終わる頃には、私の頭は思いついた次の文を忘れてしまっているのだ。
この一連の流れが、一回の投稿分の文章を書いていると何度も起こる。一度思いついた文を忘れるという行為はかなりやるせない気持ちになるため、自分の思いついたことを文字に起こせるという快感よりも、そちらの苦痛の方が勝ってしまうというわけなのだ。
小説家になりたいのに、文章を書くのが苦痛とはこれいかに。もしかしたら私は頭の中で物語やエッセイををひたすら構築しているのが好きなだけであって、それをあわよくば世間様に公開して評価してもらおうなどと考えているだけの不届き者なのではないかと思うようになってきてしまった。
Twitterのタイムラインを見ていると、「やりたいと思う気持ちはあるのだが実行に移せない」というような趣旨のツイートに共感が多く寄せられていているのをよく目にする。ああはなるまいと共感している人たちの共感ツイートを見て思っていたが、もしかしたら一番彼らに近い存在なのではないか私は。
そう考えると途端にやるせなくなってくる。
しかし、ここで今日の一番初めの前置きを再度読み返してみる。マイクラがやりたい?毎日投稿など投げ出してしまいたい?けれどもダサくなりたくないからやる?おや。おやおやおや。
なんだ。私はここまでこうして自分の頭で考え、文章をタイピングできているではないか。何を悲観することがあったのか。「やりたいけどやれない」愚民どもとは違う。私は一歩、たった一歩だが彼らより上の立場にいる。たった一歩だが、これを踏み出せる者と踏み出せないもの者では大きな差がある一歩だ。そのことがわかり自信がついただけで、今日の投稿は有意義なものなったのであった。めでたしめでたし。終わり。
なんだか私一人の茶番を書いている気分になったが、それもまたよし。今日はこの辺でお開きとしよう。
では皆さま、また明日お会いしましょう。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
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