事件の5日前
腹の虫が鳴る音で、目が覚めた。
猫用に用意された小さなベッドから上半身を起こし、ドアの横に隣同士に吊るされたカレンダーと壁時計を見て、日付と時刻を確認する。
10月5日土曜日 午前7時42分 ミノリが亡くなる5日前
2人の寝息のみが聞こえる静まり返った部屋に、再度、ぎゅるぎゅると自身の腹の音が鳴った。
よく考えると、猫になってからまだ何も口にしていない。
俺は、大きな欠伸をしてから立ち上がり、そのまま半開きになっているドアから、1階にあるリビングへとのそのそと向かった。
この家は、全てのドアが、コットが自由に出入りできるよう、いつも数センチ分開いている。この家族の、猫へ対する思いやりが伺える。
階段に差し掛かった辺りで、香ばしい匂いが微かにした。顎を少し上げ、すんすんと小刻みに息を吸い込み、中に漂う匂いの元を確認し、そちらへと向かう。ダイニングテーブルの横にガラス製の皿が2つ置いてあり、匂いはその食器の片方からしていた。
(猫の嗅覚って凄いな。2階に居たのに、この匂いを感じていたのか…。)
匂いの正体は、ドライタイプのキャットフードと、猫用のスライスされた乾しカニカマだった。物の正体が分かると、口の中で唾液の分泌量が一気に増した。
人間の頃の俺は、キャットフードを食べるという選択肢なんて全く頭に無く、他に食べ物がない状況だったとしても、食べる気なんて絶対に起きなかったのに、猫になった俺の身体は今正直に反応をしていて、何とも皮肉なものだ。
俺は皿の前まで来て立ち止まると、意を決してごくりと唾を飲む。
(キャットフードはやはり抵抗があるが、猫用とはいえカニカマなら…。)
恐る恐る、舌の先でちろりとカニカマを舐める。
(…これはいける!!ただの乾燥したカニカマだ!!)
一度味が分かると、身体も本当の意味で安心したようで、更に空腹の波が押し寄せて来た。
俺はガツガツと、カニカマだけを綺麗に平らげ、その隣の皿に入ってあった水を勢いよく飲んだ。
猫として初めての食事なのに、食べ方飲み方なんて分からないはずなのに、口元はスムーズに動いた。
胃がある程度満たされると、俺はしょりしょりと口の周りを舐め、その場に座った。
そして、ミノリの死の原因をどうやって突き止めるのか、思考を巡らせた。
(昨日も遅くまで考えたが、ミノリは数ヶ月先の未来のことまで話をしている。数日で気が変わった可能性もあるが、やっぱりどうしても自殺を考えているとは思えない。
そして、遺書が引っかかる。遺書があったということは、偶発的な事故とも考えにくい。
となると、考えたくはないが。自殺に見せかけた他殺の線も視野に入れないとな…。
でも、どうやって遺書を用意したんだ?みのりの筆跡で書かれていたことに、間違いはない。
ひとまず、何でも良いから、何か糸口になるような手がかりを見つけないと…。)
俺の胸中は、依然として絶望感に満ち溢れたままだった。
「テスト後初めてのお休みなのに、どうして学校に行かなくちゃいけないのよ…。」
「マナ、それは委員会だからだよ~。」
ペタンペタンと階段を下りて来る足音と、2人の話声が聞こえてきた。
「美化委員の仕事が、まさか土曜日にあるなんて…。ミノリ、知ってた?」
「うん、まぁ。むしろ、そのこと知らなかったのって、マナくらいじゃないかなぁ~。」
「うっ、そんなに有名なことだったの…。」
うな垂れた様子のマナと、その頭をよしよしと撫でているミノリが、リビングに顔を覗かせた。
「にしても、生徒会は大変ねぇ。美化委員の仕事を今日一緒にしてくれるんでしょ?」
「大変かもしれないけど、でも、私は今日マナが一緒だから楽しみだよ~?」
「ミノリ、なんて良い子なの…!!天使、いや、女神様の生まれ変わりなんじゃないかしら。」
「いやいや、マナは大袈裟なんだから~…。」
俺らの学校ではいつも、美化委員が当番制で、放課後に学校の清掃を行っている。
ただ、落ち葉の季節ということもあり、決まった時間だけでは清掃が追い付かないためか、今月と来月の第一土曜日だけは、美化委員全員と生徒会メンバー総出で大掃除が行われることになっている。
マナは美化委員、ミノリは生徒会に所属をしているのだが、この様子だと、マナはそのことを知らずに委員会へと入ったようだ。
「にしても、集合時間が少し遅めの時間で良かったね~。」
「そうね…。それだけが唯一の救いかしら。」
「あ、コットちゃんおはよう~。」
会話をしていたミノリが、俺の存在に気が付いた。マナも続けて俺の方を見る。
「コット、あなた昨日全然ご飯食べていなかったでしょ。今日はちゃんと食べた?」
マナはこちらに近づいて来て、俺の真横で屈み、皿の中を覗いた。
「カニカマしか食べてないじゃないの。」
しかめた顔をすると、ダイニングテーブルの上に置いてあるカゴの中へと手を伸ばし、何かをごそごそと掻き分け取り出した。そのまま俺の隣にしゃがむと、取り出した物の正体が分かった。カニカマの袋だ。
「もう、マナはコットちゃんに本当に甘いんだから~。まだお皿にカリカリが残っているのに、カニカマをまたあげるの~?」
ミノリはやれやれといった表情を見せると、そのままダイニングテーブルの席へとついた。
「だって、今のコットの気分はカニカマみたいなんだから、仕方がないじゃない。餓死でもされたら困るもの。」
マナはぷくっと頬を膨らませながら、乱雑にカニカマを皿の中へと入れる。そして俺をひと撫ですると立ち上がり、ミノリと同じようにテーブルの席へとついた。
(カニカマだけを食べていても、無くなればまた入れて貰えるのか…。俺としては非常に有難い。マナがコットに甘くて助かった。)
俺はもう一切れだけ、今追加されたばかりのカニカマを食べた。入れたばかりでも放置をしていても、味が変わることはないようだ。口元をもう一度舐めると、そのまま2人の部屋へと戻ることにした。
続く)