閑話 あの日の約束とその先
それは私が彼女と出会ってから数年が経った頃のことだ。
『私、ここを出て行くことにしたんだ』
『えっ!? な、なんでなの? もしかしてここが……ううん、私が嫌になった、とか?』
その日もいつものように私と彼女は地中と地上に分かれてお互い言葉を交わしていた。しかし、その何気ない会話の中でふと思い立ったかのように、彼女は永遠の別れを告げているとも取れる言葉を発した。
それを聞いた時の驚きは、恐怖は、悲しみは今もはっきりと覚えている。なぜなのかと恐る恐る問うと、彼女は首を振って私の意図を否定した。
『違うの。ここは居心地がいいし、空気も美味しい。ちょっと前に外を見て回ったことがあるんだけど、北の方は空気が汚れててね。ここがいかに私たちにとって暮らしやすい、いい場所かって痛感したんだ』
『ならどうして……?』
『確かに、あそこはとても住めたものじゃなかった。けど、同時に実感したよ。カントリ林がとても狭い場所だってことに、そして外の世界はとんでもなく広いってことにね。遅いか早いかに関わらず私はいつか死んじゃう。だからその前に一部でもいい。この世界のことをより多く知りたいんだ』
『そう、なんだ……』
『でも私がここを去っても永遠にお別れってワケじゃない。君が望むならまた必ず会えるよ』
この会話から数日後、彼女はカントリ林を去った。それは今から50年ほど前からのことだった。以来私はいつか彼女と再会するために、彼女とともに外の世界を歩む時のために、足手まといになどならないように強くなることを自分に誓った。
『……そう、私は確かに誓った。強くなること、彼女を信じて待つことを。でも今は……』
彼女との別れの日からたった1日が1年にも感じられるようになった。あの日の選択は間違っていないはずだ。けれど、その思いとは裏腹に彼女の意思を尊重して送り出したことを何度後悔したか分からない。本当なら今もずっと一緒にいたはずなのに、と。本音を言えば、過去に戻れるならあの日に戻りたい。それが叶ったのなら泣きついてでも止めるだろう。彼女は呆れられながらもきっと私の言葉を無碍に扱ったりはしないはずだから。だが、そんな願いが叶うはずもなく、永遠にも思えるほどの時の経過が彼女との時間を色褪せさせていった。
別れからどれくらいの日数が経ったか数えるのを諦めて、惰性でただただ研鑽を積んでいただけの日々を送っていた私にも遂にその時が訪れた。その日今までに感じたことがないほどの力が体の奥底から湧き上がるのを覚えた私は、居ても立っても居られずに思わず地面を砕いて地上に這い上がっていた。そして羽化し、古い自分を脱ぎ捨ててとうとう彼女と同じ空の下で生活できるようになった。翅を、彼女と同じ空を舞う力を手に入れたその時の喜びといったら、言葉では語り尽くせないほどのもので、その日は疲れることすら忘れて1日中飛び回っていた。
しかし、すぐにある致命的な問題に気づいた。羽化してからというもの、空を飛べるようになったことと同じかあるいはそれ以上の、今までは感じることのなかった感覚が私の体に時折現れるようになった。自分の体にいつのまにか空いていた穴から、なにか大切なものが段々と零れて失われていく、そんな気味の悪い感覚。それが命だと、残りの寿命だと気づいたのは羽化してから数日が経ってからだ。
その日から私は、あと数ヶ月後にやって来るであろう死を回避すべく寿命問題を解決できる方法を模索し始めた。しかし、そんな魔法みたいな手段がそう簡単に見つかるはずもなく、半年が経っても糸口が見つかることはなかった。彼女との再会を諦めなければならないのかと途方に暮れていると、ふと私自身焦りに焦っていたことも相俟って記憶から抜け落ちていたことを思い出した。実は私は彼女からその方法を既に教えてもらっていたのだ。
彼女に再び会う前に寿命が尽きてしまうと気が気でなかったとはいえ我ながら迂闊だった。もっと冷静に考えていればすぐに思い出せたはずだが、彼女のことで頭が一杯だったのだから仕方ない。
「あなたは今、どこでなにをしてるの? いつになったらまた会えるの? ……寂しいよ、早く私に来てよ……」
夜、拠点の中にある建物の、物置きとして扱われているであろう散らかり方をしている一室で、私は届くはずのない言葉を窓の外に向かって紡いでいた。『魔女の工房』から無事に帰還できたその日の夜、ユウリは疲労からか、私が知る限り最も早い時間に床に就いた。けれど私は眠れなかった。あのゴーレムと戦って命の危機を感じ、彼女と会えなくなってしまうと考えて危機感を覚えたからかもしれないし、あるいは理由なんてないのかもしれない。
というか、ユウリは私よりも傷を負っていた。普通あれだけの、腕や腹に穴が空いたりするような負傷をすれば激痛でまともに動けなくなるはずだが、彼にそんな様子はなかった。私と違って少し前まで戦いとは無縁の世界にいたのだ。戦闘やそれによる痛みに慣れているはずはない。もちろん、彼の様子からして痛みを感じていないわけはないのだが、どうもつい最近まで安全な世界にいたとは思えないほど命を賭けた戦いに躊躇がないし、痛覚も鈍いように見える。向こうの世界の人間は皆ああなのか……?
「……ってそう都合よく会いに来てくれるわけないか……」
やはり1人でいるとどうも弱気になってしまう。他に誰かがいれば気を張っていられるのだが、見られることがないと確信できるこの場所ではつい独り言が零れてしまう。
そもそも魔昆虫の寿命はおよそ10年程度。彼女が私と出会った頃何歳だったのかは知らないがあの日から既に50年も経っている。どこかで土に還っているのが普通だろう。けれど私も仲間の魔昆虫たちも彼女の生存を疑ったことはない。なにせ彼女は意思ある魔昆虫の中でも頭ひとつ抜けた、天才と呼べる存在だったのだ。それに《血書契約》というものを教えてくれたのは他でもなく彼女だ。それを利用していれば寿命くらい克服していてもおかしくはない。
そう、彼女に関してはなんの問題もないのだ。今も彼女は外の世界でしか触れられない未知を知るためにこの世界のどこかを旅しているに違いない。
けれど私はそうもいかない。現時点ではまだ私は世界中を1人で旅をしても問題はないと、安全だと言い切れるほど強くはないからだ。それに、お互いの意思を縛るような契約こそ結んでいないが、私はユウリの元を離れることはできない。一度した約束を反故にするわけにはいかないし、なによりこの上ないと思えるほど安全な拠点を確認したのだ。私が侵入できたとはいえ、こういった場所を確保できるチャンスはそう多くなく、利用しない手はない。
少なくとも、お互いが1人でもこの世界を生きて行けるようになるその日までは私はここにいるつもりだ。けれど人間社会に混じって暮らす以上、いつ私の正体が魔昆虫だとバレるか分からないし、一ヶ所に留まるのはリスクが増す。
私は《血書契約》を使った際、人間に擬態した。つまり、もし彼女も同じように人間の姿になっていた場合、人間社会の中にいる可能性が高い。ゆえに多少のリスクは背負ってでも人間社会に紛れ込む必要がある。
「いつか必ず会えるよね? でも、その時の私たちはお互い誰かにつけてもらった名前で呼び合うことになるのかな……? それは昔を思い出せなくなるみたいでなんか寂しいよ……」
彼女は別れ際に「望むならまた必ず会える」と言った。なら私がそれを信じないわけにはいかない。いつか必ず、姿が変わっても私はあなたを見つけてみせる。どれほどの時間がかかっても。




