第49話 小さな亀裂 前編
シリアスな話になります。
「はーい。突然だけれど、これから小テストをしまーす」
学園祭から数日後の数学の時間、桜先生が突然そう言い出した。当然、クラス中からはブーイングの嵐だ。
「はい、ブーイングはお終い! ちなみに、赤点取ったら追試ね」
語尾にハートが付きそうな口調で言う桜先生に、生徒たちは一瞬にして真っ青になっていた。
「小テストかぁ、ちょっと自信ないなぁ……。佳穂は、これくらいなら楽勝でしょ?」
「えっ、あ……うん……」
クラス中が慌てる中、葵は隣に座る佳穂に声を掛けた。佳穂は歯切れの悪い返事をし、浮かない顔でテスト用紙が配られるのを待った。
順にテスト用紙が配られると、桜先生は終了時間を告げてから始まりの合図をした。一斉にテスト用紙を表に返し、全員が無言で書く手を動かした。
もちろん佳穂もその1人であり、初めのうちは順調に進んでいた。しかし、半分を過ぎたところで急に手が止まった。
「(あ、れ……? この問題、どう解くんだったかしら……)」
必死に思い出そうとするが、焦っているせいもあって全く思い出せない。しばらく考え、解ける問題から解こうとしたが、結局同じようにすぐ手が止まってしまう。それを繰り返し、そうこうしているうちに時間は過ぎ、気付けば終わりの合図を告げられた。
「(どうしよう……全然できなかった)」
空欄になってしまった問題を眺めながら、佳穂は顔を青ざめさせた。
「隣と交換して。採点するわよ」
先生の言葉に躊躇いながら葵と交換した。先生が解答を言い、順に採点をしていく。佳穂は採点が進むにつれて隣の葵の顔が曇っていくのが分かった。その反応で、やっぱりいつもと比べて結果が芳しくないのだと、佳穂は悟った。
採点が終了すると、葵は訝しそうにテスト用紙を返してきた。佳穂が採点した葵の点数は88点だ。それに対して、戻ってきた自分の点数は78点だ。その結果に佳穂は顔をしかめた。
「……佳穂、どこか具合悪い? いつも100点なのに……」
「……何でもないわ」
葵が心配そうに聞いてくるが、今の佳穂はそれすら煩わしかった。
結果は決して悪くはない。ただ、葵の言う通りいつもなら満点を取っている。今回は今までなかった空欄があるばかりか、以前ならしないようなケアレスミスが多い。
「(最近、勉強に集中できなかったけれど、ここまで影響しているなんて……)」
苦々しい気持ちで佳穂はテスト用紙を机の引き出しの中にしまった。気持ちがなかなか切り替えられず、結局その後の授業も集中できなかった。そのせいで授業の内容が殆ど頭に入って来なかった。
授業が終了した後も佳穂の沈んだ気持ちは上がらなかった。そんな佳穂の耳に、休み時間になって教室の後ろの方に集まる優梨・葵・咲緒理・紗奈の声が入ってきた。
「優、さっきの小テストどうだった?」
「それがね、変なミスをしちゃって99点! ちょっとショックなの」
優梨が元々数学が得意でいつも高得点を取っていることを佳穂は知っている。それでも、自分の点数が優梨より低いことに苛立った。さらに優梨たちの会話が聞こえてくる。
「でも、さすがだね。優」
「アオちゃんは?」
「私は88点だった!」
「なかなか良い点数じゃない。ひっかけ問題も多かったのに」
「前に優から教わったところが出たからそれが大きいかも」
「そう言ってくれると、教え甲斐があるよ」
少し離れた場所でされる楽しそうな会話が、佳穂にはひどく耳障りだった。無意識のうちに机の上の手を固く握りしめた。
「――佳穂」
後ろから声がして振り返ると、席に座る匡利がこちらを見ていた。佳穂は気持ちを落ち着かせようと一度深呼吸をした。
「なに? 匡利」
「……テスト、何かあったのか?」
「っ、何もないわよ」
顔をしかめ、視線を逸らすように前を向いた。
「……もしも分からないところがあったのなら、教えるぞ」
その言葉に佳穂はカッと頭に血が上った。匡利が親切心から言っていることは分かっている。前ならありがたいはずのその言葉が、何故か無性に腹が立った。佳穂は立ち上がって匡利の前に立つと、少し強めに机に手を置いた。周りの人からは気付かれない程度の音でも、目の前の匡利には十分だった。
「佳穂?」
「……放っておいて。これ以上、私に構わないで……っ!」
小さいながらも強い声でそう言うと、匡利は僅かに目を見開いて佳穂を見た。佳穂は顔を思い切りしかめ、その場を離れた。
「佳穂っ!」
匡利が立ち上がって呼び掛けるが、佳穂は振り返らないまま教室を出て行った。残された匡利はその場に立ち尽くし、佳穂が出て行った教室の入り口を見つめた。
「(あいつはいったい……)」
佳穂に何があったのか考えるが、匡利には皆目見当がつかなかった。匡利は小さくため息を吐き、そのまま席に座り直して次の授業の用意を始めた。その一連の姿を、葵たちと会話しながらも優梨がずっと見ていたことには気付かなかった。
それから佳穂は教室に戻らないまま昼休みに屋上にも現れず、午後の授業が始まる頃になってやっと戻って来た。そのことに優梨たちが触れることは一切なかった。それからの時間、優梨たちは何とも重い空気の中で過ごすことになった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「…………」
何とも言えない重苦しい空気は、翌日の夕飯時になっても続いていた。普通に会話をしているが、ダイニングルームに流れる空気が以前と違うことは全員が感じ取っていた。その理由が、様子がおかしい咲緒理・佳穂・匡利の3人であることは明らかだった。
「【本当に何があったのかなぁ……】」
「【さぁ……さすがに分からないね】」
葵と紗奈が《念話》でそう会話する横で、優梨は3人を順に見た。
「(……サオは少し前からおかしかったけれど、一応少しずつ元に戻ってきている)」
ボーッとしている事が多かった咲緒理は、日が経つにつれてそれも少なくなってきている。会話にも普通に加わるようになってきた。もう少しで元に戻りそうだと優梨は思っている。
「(今一番おかしいのは、匡利と佳穂の2人……)」
佳穂と匡利は不自然に会話をせず、目も合わせようとしなかった。さらに、佳穂が一方的に匡利を避けているように優梨には見えていた。
「(元から佳穂はクールな印象だったけど、それに拍車がかかっているしなぁ……)」
数日前から顔を曇らせて口数が減っていたが、それが昨日からさらに増していた。
また、匡利は一見いつも通りに見えるが、優梨には何となくだが珍しく気持ちが沈んでいるように感じていた。
「(……昨日の数学の後、2人の間に何かあったのは確かだけど……いったい何があったんだろう……?)」
2人のことが気になる優梨は、無意識に顔を少ししかめながら2人を見つめていた。そんな優梨を葵と紗奈が心配そうに見つめていることには、優梨は気付いていなかった。
夕飯の後、優梨は自室のリビングスペースで宿題と予習をしていた。しかし、佳穂と匡利のことが気になってあまり集中していなかった。
「……ん?」
ほぼ無意識に動かしていた手が止まった。宿題の問題の中に、少し分からない箇所があった。
「(あー、この部分いまいち分からなくて後で誰かに聞こうと思っていたところだ……)」
後でじっくり考えようと次の問題に移るが、先の問題に関連するものだったので当然解くことができなかった。
「(うーん……下の図書室に慶人とかいるかな……)」
勉強道具をまとめると、優梨は1階の図書室前に《瞬間移動》した。中に入ると、人影があった。
「(……失敗したかも)」
そこにいたのは匡利だった。匡利も勉強をしに来ているのか、周りにはノートの他に教科書や参考書が広がっている。
「(匡利以外は……いないか)」
中の気配を探るが、他には誰もいない様子だった。一番気まずい相手しかいないことに優梨は頭が痛くなった。
ふと、匡利が顔を上げて優梨がいることに気付いた。
「優、どうした?」
「えっと……ちょっと宿題で分からないところがあって誰かに聞こうかと……」
声を掛けられ無視するわけにいかず、そう答えた。すると、匡利は手にしていたシャーペンを置いた。
「どこだ?」
いつも通りに話しかけられ、優梨は意外に思って目を丸くした。てっきり、匡利は佳穂と何かがあって、すっかり気落ちしているのだろうと考えていた。しかも佳穂がいない今はいつも通りにも見えた。
「(佳穂と何かあったっていうのは、私の勘違い……? そんなことないと思うんだけど……)」
優梨は首を傾げつつ匡利の隣に座り、やっていた宿題の問題集を広げた。
「ここなんだけれど、いまいち分からなくて……そこができないと、後の問題もできなくて」
「そこはな――」
匡利はシャーペンを手にすると、優梨のノートに図を書き込みながら1つずつ丁寧に教えた。色々と不安に思っていたが、いつも通りの匡利に優梨は安心した。同時に、ひょんなことから匡利とこうして一緒に過ごす時間が作れたことに喜びが沸いてきた。
「……優、聞いているか?」
にやけそうになるのを我慢していると上の空に見えたのかそう言われた。
「うん、聞いているよ。それから?」
「それから――」
匡利に説明してもらい、優梨は分からなかったところがすっかり理解できた。その後も優梨はその場に残ることにして、時々匡利に聞きながら宿題と予習を進めていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
佳穂は夕飯の後、自室の机で宿題をしていた。しかし、やり始めてから大分時間が経っているが一向に進まず、ノートは白紙のままだ。
「ハァ……」
何度目か分からないため息を吐き、持っていたシャーペンを置いた。
「(……全然集中できない)」
頭の中をめぐるのは今日の小テストの事と、ここのところずっと佳穂を悩ませている原因だ。天井を見上げ、しばらくそのまま考えていたが埒が明かないと思い、気分を変えることにした。
「(今の時間帯なら、皆自室よね……)」
佳穂は1階のダイニングルームに行くことにした。《瞬間移動》で移動し、厨房でコーヒーを淹れると椅子に座ってまた大きくため息を吐いた。そのままコーヒーからゆらゆらと上がる湯気を見つめながら、物思いに耽った。
「(……早く“あの事”の答えを出さないと……でも……)」
一瞬脳裏に浮かんだのは、学園祭前日に呼び出した教師の顔だ。そして、その時に言われた事が何度も繰り返して頭に流れた。それを振り払おうと佳穂は頭を振り、コーヒーを飲んでテーブルに突っ伏した。
「(……私は、どうしたいのかしら……)」
カチコチとダイニングルームの壁にかかる時計の音がやけに響いた。どれくらいそうしていたのか、いつの間にかコーヒーは冷めて湯気も上がらなくなった。
「……そう簡単に、決められるわけないじゃない」
独り言のつもりでそう呟いた。
「――何が?」
返事があるはずのない独り言にそう返され、佳穂は驚いて顔を上げた。いつの間にかダイニングルームの入り口の所に優梨が立っていた。
「優梨……」
佳穂は苦々しげな声で優梨の名を呼んだ。その反応に優梨は首を傾げた。
「どうかしたの……?」
「……何でもないわ」
佳穂はそう言って冷めきったコーヒーを飲み干した。
「佳穂……」
「……何?」
「あっ、いや……あの、もしも何か悩んでいることがあるんだったら、私で良ければ聞くよ?」
「……何もないわよ。それより、どうして優梨はここに?」
「えっ? あぁ、牛乳でも飲もうかと思って……ただ、部屋のを切らしているからこっちからもらおうと思って……」
「……そう」
ふと視線を下げ、佳穂は優梨の手に勉強道具があることに気が付いた。
「どこかで勉強でもしていたの?」
「えっ? あぁ、これ?」
優梨は一瞬聞かれた事が分からなかったが、すぐに自分の手にある勉強道具のことを思い出した。
「うん、図書室でね。匡利と一緒にしていたの」
「……匡利と?」
優梨の口から匡利の名前が出ると、佳穂は何故かおさまりかけていたイライラした気持ちがまた膨らむのを感じた。それを知る由もない優梨は頬を緩め、言葉を続けた。
「今日の授業で少し分からない所があって……宿題にも出ているから困っていたんだけど、たまたま図書室で匡利に会ったの。それで教えてもらうことができてね――」
優梨たちは普段、恋バナの一環として自分の好きな人との出来事を互いに話していた。佳穂も自分は恋愛に興味がないと言っていても、優梨たちが話す恋バナを聞いていた。そして、内容によっては一緒に一喜一憂していた。だから、優梨としてはいつも通りのつもりで話をしていた。
しかし今の佳穂は笑顔で話す優梨に、無性に腹が立っていた。
「――本当に呑気なモノよね。浮かれちゃって馬鹿みたい……」
気付いたらそう口にしていた。優梨は話すのを止め、驚いたように目を見開いて佳穂を見つめた。
「佳穂……?」
声を掛けられてハッと我に返り、しまったと佳穂は思った。しかしそれも一瞬で、むしろ今まで抑えていた怒りが溢れかえり、色々な思いが頭の中を駆け巡った。
「(あぁ……もう、抑えられない……)」
頭の片隅でそう思った。気付けば一度開いた口は閉じられなくなり、言葉を続けていた。
「いつもそう……勉強を教えてもらったくらいで浮かれて、ヘラヘラして……。それで想いが通じ合うわけでもないのに……」
「……っ、そんなこと、分かっているよ」
「そう? 私にはそう見えないけれど……。分かっているんだったら、そうやって子どもみたいに浮かれるの、止めたらどう?」
「なっ……」
あまりの言い草に優梨は絶句した。佳穂は空のコップに《清浄》を掛けると、食器棚にしまった。立ち尽くす優梨の横を通り過ぎ、入口の所で振り返った。
「匡利にはもっと大人っぽい人がお似合いよ。両想いになりたいんだったら、そこを改めたら?」
「な、にを……」
「……そもそも私は、何も考えずにそうやって恋愛して浮かれていること自体、愚かに感じるけれどね……」
そう言い残し、佳穂は優梨を置いてダイニングルームを出て自分の部屋へと戻っていった。部屋に戻ってから、佳穂はベッドへと倒れこんだ。そして、どこからともなく笑いが込み上げてきた。ひとしきり笑った後、天蓋の天井を見上げた。
「……くっ、はは……もう、戻れないわね……終わりね、何もかも……」
そう自嘲するように言い、佳穂は静かに涙を流していた。
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