第2話 日常 中編
「1限は何だっけ?」
「数学だ」
優梨が聞くと、前を歩いていた匡利が答えた。それを聞いた隣の葵が顔をしかめた。
「えー、少し気が重い」
「葵は数学が苦手だもんね」
葵の憂鬱そうな声に誠史がクスクスと笑いながらそう言う。
「だって、数学ってただでさえ難しいのに、特進だとさらに難しいじゃない」
「でも、テストではいつも80点以上は取っているよね」
「優とか誠史くんが一生懸命教えてくれるから何とかなっているだけだよ」
優梨たちの通う藤永学園は、日本の学校の中でも名門中の名門であり、その名前は海外でも通用するほどだ。良家の子息子女が多く通うほかに、勉学・スポーツ・一芸に秀でた人達がたくさん通っている。また、日本では珍しく通っている生徒半分以上が能力者であり、それ以外の生徒のほとんどがスキル持ちだ。
広大すぎるほどの敷地に充実した施設と設備、カリキュラム、部活動、行事が揃っているため、この学園に憧れる人が数多くいるとかいないとか……。
優梨たちは現在この学園の初等部・中等部・高等部・大学部のうち、高等部に通っている。
さらに、高等部には理系教科に特化した「理系クラス」と文系教科に特化した「文系クラス」、理系・文系に関係なく将来的な留学を希望している生徒が集まる「英語クラス」がある。ただし、これら3つのクラスは「普通クラス」であり、この上に理系・文系クラスの成績上位者だけが入れる「特進クラス」がある。
特進クラスは、中等部の2年生から設けられているクラスだ。高等部になると、普通クラスが理系・文系と分けられるのに対して、特進クラスは理系・文系に関係なく共通で授業が行われ、授業数も多い。特進と言うだけに授業のレベルは非常に高く、その内容も充実かつ難しくなっている。周りの高校からは「東大も夢じゃない」と噂されるほどだ。だから、苦手教科があるとテスト前はとても苦労するのだ。
その特進クラスに、優梨たちは全員中学生のころから所属している。
「――ついでに2限は現文、3限は英語W、4限は理科Ⅰ、5限は社会Ⅱで、6限の体育はLHRに変更だ」
「7限は? 確か古典だよね」
「今日はないだろう」
玲が順に授業予定を説明する。優梨は覚えたばかりの時間割と照らし合わせて確認した。どちらかと言えば苦手な部類に入る古典がないことに、内心ホッとしていた。
家から30分ほど歩くと学校に着いた。各キャンパスに校門が設けられ、高等部の門は優梨たちの家から最も近い位置にある。
門から優梨たちの教室があるA棟まではしばらく歩かなくてはいけないが、時間にはまだ十分余裕があるので雑談を交わしながら歩いていた。すると、少し離れた場所から誰かが駆け寄ってくる足音と声が聞こえてきた。
「加村くーん!」
声がハッキリと聞こえると、優梨の隣にいた葵が顔をしかめて振り返った。次の瞬間には駆け寄ってきた人物は優梨たちの横を通り過ぎ、前を歩いていた誠史に抱きついた。
「おはようございます、加村くん。朝から会えるなんて嬉しいですわ」
「おはよう、白鳥さん」
誠史は笑顔で挨拶をしながら、さりげなく抱きつく彼女の腕を外した。その様子を葵はしかめ面のまま見つめている。
彼女の名前は白鳥エリカ。容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能に加えて白鳥財閥の令嬢である。少々我儘でプライドが高いのが玉に瑕だが、男子からの人気もそれなりに高い。しかし、彼女は1年生のころから誠史一筋であり、周りからのアプローチは何のその。ひたすら誠史に熱いアプローチを繰り返し、優梨たちにとって目の前の光景は日常茶飯事だった。
これに対して面白くないのが葵だ。葵も誠史のことを中学生の頃から好きだった。
「(誠史もアオのことが好きなんだけれど、何で気付かないのかな。お互いに……)」
いわゆる“両片思い”状態の2人に優梨はじれったさを感じつつも、一方でそんな2人の様子を楽しんでいる節があり、あえて互いの気持ちを教えていなかったりもする。
「――いい加減に誠史くんの腕を放しなさいよ!」
「それはこちらのセリフですわ、大野葵! エリカの加村くんから離れなさい!」
「誰がエリカのよッ!」
優梨が少々物思いに耽っている間に痺れを切らした葵が誠史に駆け寄っていた。互いに誠史の腕を組み、激しい言い合いを繰り広げている。誠史はそれを苦笑しながら眺めていた。
「うわぁ……」
「優、俺たちは先に教室に行っているぞ」
「あぁ、うん……。すぐ行けたら行くね」
白熱しているバトルを横目に優梨と咲緒理以外の面々は教室へと向かう。他にも新入生はギョッとしながら遠巻きに通り過ぎ、2・3年生は見慣れたものだと言いたげに素通りしている。
「相変わらず今日もすごいね……」
「そうだね。そろそろ誠史が止めそうだけれど」
優梨がそう言った直後、誠史は「2人とも、もうすぐ予冷だけれど大丈夫?」と言った。すると、葵とエリカは電光石火のごとく同時に腕を放した。
「いけませんわ。私、顧問の先生に用事があるんでしたわ」
「それなら、早く行った方がいいよ。朝のHRまでそんなに時間はないから」
「えぇ、そうですわね……。離れてしまうのは寂しいですけれど行きますわね。加村くん、また教室でお会いしましょう」
「うん」
エリカは手を振りながらその場を駆けて行き、誠史は軽く手を振り返しながら見送った。それを葵は僅かに頬を膨らませて眺めていた。すると、誠史は葵の方を振り返り、手を差し出した。
「アオ、教室に行こう」
ニッコリと微笑みながら言うと、葵は先ほどまでの怒りを忘れ、嬉しそうにその手を取った。葵と誠史はそのまま手を繋いで昇降口へと向かっていった。
「さすが誠史君だね」
「うん。それにしても、どこからどう見ても恋人同士みたいなのに、そうじゃないっていうのが不思議だよね」
「ね……」
クスクスと笑っていると、咲緒理が覗き込むようにして優梨の顔を見つめた。
「なぁに、サオ」
「優はどう? 匡利君と」
「……んー、特に進展なしかな」
葵と同じように、優梨も匡利に恋をしている。そんな優梨を応援しているうちの1人が咲緒理だ。
「仲良いと思うけれどね、優と匡利君」
「一応はねぇ。でも、それ以上を知る勇気はないなぁ」
「難しいね」
いくらでも知る術はあるけれど、それを試す気にはなれなかった。何より今の関係のままでも十分満足しているのも事実であるため、今の優梨にはそれ以上を望むつもりはなかった。
優梨と咲緒理は話しながら教室へと向かった。教室に入ると、何人かが声をかけてきた。
「優、さーちゃん、おはよう!」
「おはよう、紗奈ちゃん」
「おはよう」
声をかけてきた内の1人の松川紗奈は、優梨たちが中学生の頃からの友達だ。紗奈は優梨たちが抱える秘密を知らないが、多くの人間が敬遠しがちの見た目に関係なく声をかけてきた。それ以来、優梨たちにとって仲間以外で一番仲の良い女友達となっていた。
「――なんだ、思ったより早かったな」
紗奈の席の近くで話していると後ろから声がした。振り返ると、雅樹がジュースのパックを片手に立っていた。
「誠史が早めに止めたからね」
「何かあったの?」
外での葵とエリカのやり取りを知らない紗奈が聞く。
「いつも通り。アオとエリカがね」
優梨は肩をすくめてそう言う。
「あっ。もしかして、それで誠史くんとアオちゃん、手を繋いでいたの?」
「正解」
「……飽きないよな、あの2人も」
気だるげにそう言って自分の席に戻る雅樹の背を見つめ、優梨は苦笑した。
しばらく3人でそのまま話をしていると、教室に先生が入ってきた。優梨たちは急いで自分の席につき、先生の方を向いた。
優梨たちの担任は、生徒から人気の高い増谷桜先生だ。可愛らしく気さくで優しい性格で、担当教科の数学はとても分かりやすいと評判だ。比較的若い先生だが、他の先生からも評判が良い。一部の生徒からは親しみを込めて「桜先生」と呼ばれ、優梨たちもそう呼んでいる。
朝のSHRは大まかな連絡事項と1日の予定を伝えられる。
「――最後に、午後のLHRは生徒会以外の委員会についての話し合いがあります。それまでに何に入りたいか考えておいてね」
桜先生はそう言って教室を出て行った。
SHR後の10分間の休憩はあっという間に終わった。すぐに1限目の担当教師が教室に入ってきて、午前の授業が開始した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
時間はあっという間に過ぎ、残りは6限のみとなった。
クラス全体で話し合うため、生徒たちは思い思いの席について、桜先生が黒板に書く委員会名を見つめた。
藤永高等学校の委員会は、生徒会以外に数種類ある。学級委員、風紀委員、保健委員、図書委員、美化委員、放送委員、福祉委員、国際交流委員、進路学習委員、卒業アルバム委員などが主だ。他にもこの学校独自の委員会があるが、特に決めなければいけない委員会はこれらだ。
優梨は葵と一緒に廊下側の席に移動した。近くには朔夜と玲がいる。
周りがガヤガヤと騒がしくなり、皆でどの委員会に入るか話し合いを重ねている。いくつかの委員会はすでに希望者で埋まり、決定しているのは学級委員だ。
「ふぅーん。男子は二之宮君で、女子は小野瀬さんか……予想通りかな」
「そうなの?」
優梨の呟きに葵が聞き返すと、優梨は苦笑して頷いた。近くにいた朔夜と玲も2人の会話が聞こえたのか振り返った。
「優梨も予想していたのか?」
「まぁね。彼女、慶人のファンクラブの幹部でしょう? 生徒会長の慶人と関わろうと思ったら、学級委員しかないからねー」
「その慶人はずいぶんと渋い顔をしているな」
少し離れた場所にいる慶人は眉を潜めて黒板を見つめていた。
「慶人、何気に彼女のこと苦手意識持っているもん。あの子、穏健派を装った過激派だからね」
「詳しいね、優」
「私のファンクラブ会長がこそっと教えてくれたの」
「あぁ、なるほど……」
藤永高等学校の特徴の1つが生徒のファンクラブが数多く存在することだ。優梨たち10人や紗奈のファンクラブもあり、その人気はトップクラスだ。他にも様々な理由でファンクラブに入っていないファンも存在し、実際自分にどれほどのファンがいるのか、優梨たちも分かっていない。
規模が大きいだけに問題が起こることがあるため、優梨たちは自分たちのファンクラブ会長とは小まめに連絡を取り合うようにもしている。
「ところで、アオは委員会に入るの?」
「うーん。ちょっと考え中。朔夜くんは?」
「俺は学園祭実行委員になろうと思っている。でも、あれは夏休み明けに決めることだからな」
「そっか。サオちゃんと雅樹くんはどうするんだろうね。まだ名前書いてないけれど」
黒板をじっと眺めて葵が言った。正確には匡利と慶人と玲の名もないのだが、3人は生徒会に入っているため他の委員会と掛け持ちをできないためだ。
「……本当だね。入らないのかな?」
「雅樹は入るつもりがないんだろうな。去年、保健委員になったら『保健室まで運んでほしい』と仮病を使う女子が続出して、ウンザリとしていたからな」
「……そういえばあまりにも凄いから、異例で2、3カ月くらいで別の人に変更したんだよね。あれは雅樹も保健の先生も可哀想だった」
昨年の凄まじさを思い出し、優梨は思わず顔をしかめた。その横で葵が考え込んでいた。
「じゃあ、サオちゃんも同じような理由かな? 去年、卒業アルバム委員になったら、連日写真を撮ってくれって言う人がいっぱい来るし、アルバムに関係ないプライベート写真を渡されていたんだよね」
「あー、それ覚えている。あれって最終的に慶人がキレたんだっけ?」
「そうそう。その後すぐに別の人に変えられたんだよね」
思い出しながら優梨と葵はしみじみと話す。
基本、ファンクラブには対象者に迷惑をかけないように規則が存在する。それでもファンクラブに入っていようとなかろうと、ルール破りをする人は数多くいる。それ故に優梨たちが被害に遭うことが時々ある。咲緒理と雅樹の昨年の委員会の話はその1つだった。
「優はどうするの? 生徒会に関わる何か?」
「ううん。私は図書委員会に入るつもり。今のところ希望者もいないみたいだし、黒板の前が空いたら名前を書きに行くよ」
「へぇ……でもさ、生徒会ってあの人いるじゃない? えっと、確か書記の……」
「宮岸さんのことかな?」
葵の言っている人物に思い当たり、優梨は苦笑気味に聞いた。
「そう。だってあの人って匡利くんのこと好きじゃない」
「そうなんだけれどね……ほら、去年同じクラスで散々嫌な思いをしたからさ……。せっかく違うクラスになったから、もう近づきたくないっていうか……」
「あー……そうだよね」
1年生の時、優梨は宮岸梨香子という少女と同じクラスになり、匡利を好きな彼女から散々な目に遭わされた。やられたことは物を隠されたり教科書を破られたりと様々だ。その大半は梨香子本人が直接したわけではなく、彼女を慕っている他の生徒にやられたのだが、それでも大分ダメージは受けていた。
現在、彼女は匡利に近づくために生徒会の書記になっている。
「未だに呼び出しとか悪口の手紙が届くけど、その程度だったら無視していればいいから、これ以上関わりたくないんだよねー」
「それもそうだね」
肩をすくめ、それ以上この話は続けなかった。
話し合いを始めてから大分時間が経ち、黒板はどんどん希望者の名前で埋まっていった。優梨は人が少なくなったタイミングで黒板に名前を書きに行った。席に戻ろうと振り返ると、誠史が葵の所にいるのが見えた。
「誠史くん、どうしたの?」
近くまで行くと、2人が話す声が聞こえてきた。
「葵、委員会はもう決まっている?」
「ううん」
「じゃあ、俺と一緒に美化委員会に入らない?」
「美化委員?」
「うん。どうかな?」
葵は僅かに考え、大きく頷いた。誠史はニコリと笑い、優梨と入れ替わりで黒板に名前を書きに行った。
「よかったね、アオ」
「うん」
小さな声で言うと、葵は嬉しそうに顔を綻ばせた。2人が一緒に委員会をやると知ったエリカが「ずるいですわ!」と声を上げたけれど、それすらも気にならないほど喜んでいた。
しばらくして全ての委員会が決まると、最初の集まりの日が知らされた。結局、咲緒理と雅樹はどの委員会にも入らなかった。
その後、今回決めなかった委員会の決める時期を説明され、残りの時間は自習となった。