1.白雪姫
少女の成長は健全で、不安定なのは周り環境、大人たちだ。
少女がとても優秀な子でいるのは、親に褒められたいからだ。
いや、責められたくないからだ。
新井 愛美、五才。
幼稚園の年長組さんのころには、もう既に愛美は、自分の苗字も名前も漢字で書くことができていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ママ。私、いい子にするから」
幼稚園の先生はたくさん褒めてくれた。すごいねえ、マナミちゃん。もうそんなにむずかしい字が書けるのね。エライわあ。
しかし愛美はというと、先生の目も見ないまま、ありがとう。とだけ返事をして、ウンウンと頷き、必死に赤い色エンピツで漢字の練習をし続けるばかり。
「私、もっとかしこくなれるから、がんばるから。だからママ、ゆるして、おねがい」
いくら漢字が書けても、裕実が愛美を褒めることは一度もなかった。
大丈夫よ、あなたは何も悪くないの。だから謝らないでちょうだい。
まるで自分自身に説くようにして、泣きながらそう唱え続け、愛美の髪の毛を引き上げた。
愛美は痛みに耐えることに集中して、母親から虐げられているということから目を背けなんとかして涙を堪えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい」
どうしてあなたが謝るの。私の子なのに!
突き飛ばされた愛美は、ダンゴムシのように膝を抱え頭を埋める。
裕実は、まるで自分が虐められているのではないかというほどに泣きじゃくりながら、押入れに片付けないままに放置してあった掃除機を掴み丸くなった我が子の背中を何度も殴った。
ヒロミ! ばか、やめろ!
裕実の腕を掴み制したのは、ちょうど帰宅した、スーツ姿の悠だった。
「パパ、おかえりなさい」
丸まったまま、首だけをそちらに向けて愛美は弱く笑った。
ああ、大丈夫かマナミ。
悠のその言葉に裕実はさらに喚いて、膝から崩れ落ちた。
愛美は促されたままに、ソファにちょんと座って、アニメを観ながら悠の指示を大人しく待った。
うなだれる裕実を抱えて、寝室へと連れて行く間も悠は彼女に優しく声をかけていた。
待つ間、愛美はずっと寝室から聞こえてくる感嘆の叫びに耳を傾けながら、裕実のことを考えていた。
愛美は彼女をどうしてか憎んでなどいなかった。
それは実の母親だからという理由だけではない。むしろそれよりも、愛美の中には、辛そうに顔を歪める裕実を不憫に思う気持ちが大きくあった。
まるで何かにおびえているように見えるママがかわいそう。
漏れていた声が静まると、ジャケットとネクタイを脱いだ、ワイシャツ姿の悠が寝室から出てきた。
呼びかける声に愛美が振り返ると、悠はすでに優しい顔をしていた。
ごめんなマナミ、お腹空いたろう。ご飯にしようか。すぐ作るから、もうちょっと待っててくれな。
「うん、大丈夫だよ」
悠に負けないくらいの笑顔でそう返した愛美は、お手伝いをしようとソファから立ち上がった。
一緒に夕食をとり風呂に入ったあと、肩甲骨あたりまで伸びた愛美の黒い髪を、悠はドライヤーで丁寧に乾かした。
以前に何度か愛美は、髪を短くしたい。と訴えてみたことがあった。
裕実からの攻撃と、悠の労力を考えてそう言った。
しかし悠は、女の子は長い方がいいじゃないか。それに、今切っちゃったら、大きくなってから長くしたいって思ったときに大変だろう。と愛美をなだめた。
寝るときも、愛美は悠と一緒だった。
そして、今日みたいに裕実が泣いて暴れた日の夜は必ず、部屋の電気を消す前に「白雪姫」の絵本を愛美に読み聞かせた。
それを読み終えると、悠は物語の続きを話すように愛美に語りかけた。
マナミはね、ママにとって白雪姫なんだ。マナミのことが可愛くて可愛くてしょうがないんだよ。でもね、マナミがママよりあんまり可愛いもんだから、悔しくなっちゃったんだろうね。だから嫌ってなんかいない。ママはマナミのことが大好きなんだよ。
何度も白雪姫を読み、何度もその話を聞いていた愛美は、それを全て信じていたわけではないにしても、いくらは気持ちは楽になっていた。
だから私はママをあんなにかわいそうだと思ってたんだ。と、妙に納得もできていた。