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選んだ生き方 2


「大丈夫か?」


 かすかに聞こえた声に、ルーは目を覚ましました。ぼんやりと霞む視界にギョルゴの顔が写ります。

「ああ、よかった。やっと起きたな」

 ルーはゆっくりと起き上がりました。

「あれ、どうして――?」

 わけも分からず、きょろきょろと周りを見渡すと、ギョルゴが心配そうに言いました。「憶えていないのか?」

「憶えて――? ああ、そっか」ルーの頭はだんだんとはっきりしてきました。「僕、レースに出たんだよね? あれからどうなったの?」

「お前は走っている途中で気を失ったんだ。カモメにこの辺りの日射は強すぎたんだろう」

「レースは? レースはどうなったの?」

 ギョルゴは申し訳なさそうな表情で言います。「残念だが、お前は失格になった」

「失格? 失格ってなに?」

「ああ、それは――」

「走ることに失格なんてあるの?」

 身を乗り出して訊ねるルーに、ギョルゴは言葉を濁らせます。「まあ、そりゃあ、レースだからな」

 ルーの心に、走っているときに感じた、あの冷たい恐怖が戻ってきました。

「あのさ、変なんだ。レースが始まってすぐ、他のダチョウ達がみんな、すごい速さで離れていったんだ。すごく頑張って走ったのに、全然追いつけなくて。どうしてだろう? 僕、何か変なところでもあるのかな?」

 ギョルゴの首が静かに横に振られます。「いいや、なにもないと思うよ」


 ルーは息が苦しくなりました。これから訊くことが怖くてたまりません。でも、訊かない方がもっと怖かったので、ルーは震える声でそれを言葉にしました。


「僕、走るの遅いの?」


 ギョルゴはゆっくり言葉をためてから、言いました。「あのレースに他の鳥が参加したのは初めてだ。偉大なことだよ。俺はカモメという鳥があんなに走れるとは思わなかった」

「僕が言ってるのはそういうことじゃなくて――」

「ああ、分かってるさ」ギョルゴは優しくルーを遮りました。「そうだな。お前はカモメの足では速いのかもしれない。でも、俺達ダチョウと比べると、遅い」

「……そっか。そうなんだ」ルーはかすれるような声で言うと、立ち上がりました。「そうだったんだ……」雲を踏んでいるみたいに足がふらつきます。

「おい、どこへ行く? 休んでないとだめだ」

 ギョルゴの言葉にルーは笑って答えました。

「平気。ちょっと風に当たってくるだけだから」




 ◇◇◇




 ギョルゴと別れて、ルーはとぼとぼと歩きました。どこに行こうというあてもありません。ここは知らない土地です。いえ、そもそも、自分に行くべき場所なんてあるのでしょうか? 


 ルーは飛べないカモメでした。飛ぶよりも、走りたいと望んだカモメでした。だから、ゴツゴツ海岸をあとにしたのです。走ることを求めて、旅をしました。そして、最後に、ここに辿り着いたのです。ここは走る鳥達が暮らす場所です。ダチョウ達は走る鳥です。ルーはこここそが、自分の居場所だと思ったのです。


 でも、違いました。ここにも自分の居場所はありませんでした。


 ルーは走ることが好きでした。走っている間だけ、全てを忘れることができました。走ることより楽しいことを、走ることより好きなことを見つけることができませんでした。たとえ飛べなくても、走ることなら上手くやれる、そう思っていました。


 それは勘違いでした。勘違いだったと思い知らされました。


 ルーは今のいままで、自分の足が遅いということを知りませんでした。この世に、あんなにも速く走る鳥達がいるなんて、知りませんでした。


 飛べないカモメ、それが故郷でのルーの姿でした。そして、ここでは、走れないカモメなのです。


 ルーは呆然と草原を見渡しました。広い広い草原を。海のように広い草原を。世界はこんなにも広いのに、どうしてそこに、自分の居場所がないのでしょう?


 強い風が体に吹きつけます。羽毛突きぬけて、舞い上げられた砂があたります。後ろから近づく足音に振り返ると、砂の混じった涙のむこうに、ギョルゴが立っていました。


「お前に訊きそびれたことがあってな、追ってきたんだ」

「なに?」

「ひと月後にまたレースがある。お前、どうする? 出場するか?」

「どうして?」ルーは涙を羽根でぬぐって、相手を見ました。「どうしてそんなことをきくの? 僕は走るのが遅いんでしょう?」

「まあ、遅いのは確かだな」ギョルゴは言います。「だが、お前はたった一回レースに出ただけだ。また次がある」

「ひと月後に出たって、どうせ今日と同じだよ」ルーは吐き捨てるように答えました。

「それはそうかもしれないな」ギョルゴは言います。「なら、お前は明日からどうするんだ?」

「分からない」途方にくれている気持ちを必死に抑えつけながら、そう言ったルーを、ギョルゴは黒く深い眼差しで、物問いたげに見ています。

「ルー。走りたくて、ここにきた、確か、そう言ってたよな? それなら、どうしてそんな風に悲しんでいる? お前はレースに出て、走った。願いは叶ったじゃないか」

「僕が思ってたのは、あんなんじゃなかった……。僕はただ――」

「お前が何を望んでいるかは俺には分からんが。あいにく、この草原にはレースがあるだけだ。もし、お前が考えていたものと違うというなら、他の場所をあたるといい」


 ルーはうなだれました。自分はどこに行くべきか。その問いの答えは一つでした。どこにも行くべきではないのです。どこを探したって、ルーがいるべき場所はないのですから。


「ルー、もう一度訊く。お前、明日からどうするんだ?」

 ルーは答えられません。

「レースに出るのか?」

 答えられません。

「それとも――」ギョルゴの声がふっとやわらぎました。「走る練習をしてみるか?」

「えっ?」ルーはギョルゴを見上げました。その顔には、微笑みが浮かんでいます。

「見ろよ」彼が指した方向を見ると、草原の遠くで、走っているダチョウ達の姿がありました。同じ場所を行ったり来たり、右に行って、左に行ってを繰り返しています。「あいつらみたいに、お前もレースにむけて、練習をするのさ」

「そうしたら、僕も速く走れるようになるの? ダチョウと同じくらいに?」ルーは一縷の望みを込めて訊きました。しかし、ギョルゴの返事は素気ないものでした。

「さあな。ダチョウの中にさえ、練習しても遅いままのやつはいる。逆に練習しなくても、とびっきり速く走るやつだっている。だが――」ギョルゴは一度空を仰いで、言葉を切ると、怖いほど真っ直ぐな視線をルーにむけました。「だが――、今の自分より少しでもましになりたいなら、自分を鍛えるのが、一番手っとり早い方法なんだ」

「……だったら、僕は練習したい」ルーはこたえました。それが自分にとって、すがるべきたった一本の糸なのだ、そう肌で感じたのです。「でも、何をすればいいの?」

「大丈夫だ。それは俺が教えてやる」

「ギョルゴが?」驚いて訊ねると、ギョルゴは力強く頷きました。

「ああ、そうとも。俺はこれでも、なかなかの名コーチなんだ。さあ、うちにこいよ。まず、お前がしないといけないことは、体と心の疲れを取ることだ」

 そう言うと、ギョルゴは歩き出しました。ルーは少しだけ迷ってから、その後ろに着いていきました。




 ◇◇◇




 その日から草原でのルーの日々、練習の日々が始まりました。

 馴染みの風景に加わった新しい二羽の姿に、他のダチョウ達は奇異の目をむけます。それもそうでしょう。走るカモメと、それを指導するダチョウの不自然な組み合わせは、みんなの目を引きました。


「ほら、もっと足を上げて!」走るルーにむかって飛ばされる、ギョルゴの声が響きます。


 指示を受けたルーは言われたとおり、足を思い切り、引きあげました。歩幅が広がって、前に進む力が増した気がします。

 どうやって地面を蹴るか、どうやって足を前に運ぶか、どのくらいの歩幅を取るか、筋肉をどう動かすのか。ギョルゴは丁寧に説明し、実際にやってみせてくれました。ルーが理解し、できるようになるまで、根気よく繰り返してくれます。


 それまで、ルーは走ることそのものについて、こんなに深く考えたことはありませんでした。ルーにとって、走ることはそれだけ当たり前のことだったのです。


 休憩の時間も、ダチョウがどのように走るのか、ギョルゴは分かりやすく説明してくれました。その走りにルーが近づいていくには、どうしなければならないのかについても。


 そうして休んでいるふたりに、一羽のダチョウが声をかけてきました。


「ギョルゴ、お前がまたコーチを始めたって聞いたんだが、まさかその子に教えてるのか?」

「ああ、そうさ。ゴツゴツ海岸からはるばるやってきた、カモメのルーだ」

 ギョルゴはルーにそのダチョウを紹介してくれました。

「ルー、こいつはジョグ。俺と同じコーチで、ゲーンってやつを教えてる」

 ジョグは値踏みするようにルーを見てから、愛想良く挨拶をしてきました。「初めまして。ジョグだ。よろしくな」

「ゲーン……、僕、その名前、知ってる。あのレースで隣を走ったんだ」

「ほう、もう知り合いだったわけか。なら、さっきそう言ってくれればよかったのに」ジョグは後ろを振り返りました。一歩退いた位置にあのゲーンが、不機嫌そうな顔で立っています。

「調子はどうだい、ゲーン?」ギョルゴが彼に声をかけると、ぴしゃりと冷たい言葉が返ってきました。

「なんでわざわざ訊くんだ? レースの結果を知ってるだろ?」

「ああ、二位だったよな。絶好調ってわけだ」

「ばかいうなよ」ゲーンはそう言うと、そこにいるギョルゴ、ジョグ、ルーの全員に軽蔑の眼差しをむけました。「一位になれないなら、負けと一緒だ」

「そうか? 立派な成績だと思うがな」ギョルゴはゲーンの視線に気付いていないのか、にこやかに笑って、言います。

 その言葉が気にいらなかったのか、「話にならないな」と首を振ると、ゲーンは黙ってむこうの方へと歩いていってしまいました。


「すまん。レースのあとはいつも機嫌が悪いんだよ」ジョグが苦笑いを浮かべながら、ギョルゴに言います。

「一位はまたゴシュカか?」

「ああ、いつも通りさ。ゲーンはまたしても、ゴールの手前で追い抜かされた。ゴシュカがいる限り、あいつが勝てる日はこないだろうな」ジョグはため息を吐いて、肩を落とします。

「そうか? ゴシュカもゲーンも資質に違いはないと思うがなあ」

「そんなことは俺だって分かってるさ。だが、何度やっても勝てないもんだから、あいつも段々くさってきてるんだ。自分じゃ気付いていないが、走りにもそれが表れている。どうしたもんかな。ギョルゴ、あんた、何かいい方法を知らないか?」

「俺はお前に助言する立場じゃないさ」ギョルゴは立ち上がると、ルーにもそうするようにと促しました。「さあ、休憩は終わりだ。練習に戻ろう」


 ルーはジョグがまた値踏みするような目で、自分を見ているのを感じました。立ち上がってギョルゴの隣に立つと、ジョグが言います。


「その子、次のレースにも出るのか?」

「ルーだ。この子の名前はルー。さっき教えただろう」ギョルゴはそう言ってから、ルーを横目で見ました。どうするんだ? そう問いかけてきているのが分かります。

「僕は――」一度、ためらってから、ルーは答えました。「うん。出るよ」


 何かを言おうとして、やっぱり言わずにおこうと考えたみたいに、ジョグはくちばしを開いて、また閉じました。そして口をへの字に曲げてから、「幸運を祈る」とだけ、言い直しました。


「お互いにな」ギョルゴはジョグに別れを告げて歩き出すと、これから始める練習の説明を始めました。


 ルーはそれを聞きながら、頭の片隅で、ジョグが言おうとして言わなかったことについて、考えていました。彼が言いかけたことが何なのか、自分には分かる気がしたのです。


 カモメである自分がレースに出ることに意味はあるのか――。


 でも、ルーはそのことを無理やり頭から追い払うと、ギョルゴの説明へと注意を戻しました。練習して、少しでも速くなる、今の自分にはこれしかないのです。

 



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