選んだ生き方 1
茂みの奥にある泉、うっそうと水草で囲われた池、進むために迂回しなければならない湖に、道に寄り添うようにしてある渓流、ギッギャの目印はどれも水に関するものでした。何故、彼女はそんなものばかりを選んだのか、理由は進んでいくうちに明らかになりました。
進んでいくほどに、気温が上がり、空気が乾いていくのが感じられます。それもまた正しい方向へ進んでいることの目印の一つです。
そうして、ギッギャと別れてから、ちょうど一月が過ぎたとき、漸く、ルーはそこに辿り着きました。
赤茶色の土に、丈の短い草がぽつぽつと生えています。風が吹けば、もうもうと砂埃が立って、視界を覆います。
ここがカラカラ草原――。その景観を前にして、ルーの足は自然と止まりました。
海岸で産まれた彼は当然、海を身近に感じながら育ちました。海が途方も無く広く大きいということも、彼は知っています。
でも同時に、彼は知らなかったのです。広いということの、本当の意味を。
行っても、行っても、果てしなく、どこまでもどこまでも、無限に続いているように思わせる、圧倒的な雄大さを彼は知らなかったのです。なぜなら、彼は飛ぶことがなく、海の上を滑空する高い視点で、丸い水平線を眺めたことがなかったからです。及びもつかぬほど遠くからやってきて、自分を乗せてくれる風を体感したことがなかったからです。
そして、今、草原を前にして初めて感じた広大さに、心打たれました。
ルーは自分の足で眼前に広がる草原の、全ての場所に行けることを知っていました。けれど、全ての場所を踏破することは叶わないことも、分かったのです。
ルーはもう一度、ため息をつきました。足がムズムズしてきます。途端に、走りたくて走りたくて、たまらなくなりました。その心に従って、ルーは駆け出します。海岸の浜辺の湿った砂とは違って、ここの土は乾いていました。それに太陽の熱を吸っていましたが、ここまで長い距離を進んできたルーの足の裏は固く厚くなっていたので、耐えることができました。
ああ、なんて素晴らしいんだろう!
走るたびにいつも訪れる、飽くことのないあの思いがルーの心を満たします。
乾いた土を蹴り立てながら、ルーは走り続けました。すると、しばくして、進む方向にたいして横切るように歩いている、一羽の鳥の姿が目に入りました。
おそらく、あれが大人のダチョウなのでしょう。ルーはいままで生きてきて、あんなに大きな鳥を見たことがありません。ヒナのギッギャとは、まるで違う姿をしています。頭と首はハゲタカみたいに桃色にはげて、足は筋肉質なフラミンゴのようです。重そうな羽毛に覆われた体をゆさゆさと揺らしながら、歩いています。
ルーは自分も横向きに曲がると、そのダチョウの隣に並んで、声をかけました。
「こんにちは」
「ん? ああ、こんにちは」ダチョウはちらりとルーを見て、言います。「この辺じゃ見ない鳥だね」
「カモメです。ルーって言います」
「そうかい。私はギョルゴだ。ああー……」ギョルゴと名乗ったダチョウは、申し訳なさそうに言い足しました。「すまないが、急いでいるんだ。私と話したいのなら、このまま歩きながらになるが、構わないかい?」
「ええ、もちろん」ルーは小走りで着いていきながら答えます。
「よかった。今日は、うっかり寝過してしまってね。みんなは私を置いて、先に行ってしまったんだよ」
「みんなって、群の他のダチョウ達ですか?」
「その通り」ギョルゴは頷き、ルーを見下ろしました。「それで、どうしてカモメがこんなところにいるんだ? ここは君達が南に渡る通り道じゃないはずだが」
「僕、一人で来たんです。走るために」
「走るために? カモメがかい?」
「そうです」ルーの言ったことに、ギョルゴは驚いたようでした。目をぱちくりさせている彼にむかって、ルーは言います。
「ギッギャという子にあって、走りたいなら、ここが一番いい場所と聞きました」
「ああ! 君はギッギャに会ったのか!」その名を耳にした途端、ギョルゴは顔をほころばせます。「どうだい、あの子は元気にやってたかい?」
「ええ」
「そいつは良かった。今頃どうしているのかって、みんなで心配していたんだ。知らせてくれてうれしいよ。君がギッギャの友達なら、私達にとっても友達だ! 是非、我が群に招待させてくれ。ほらっ、いたぞ。あそこだ」
ギョルゴが指した先には、彼の仲間のダチョウがたくさん集まっていました。何やら、ぴりぴりと張り詰めた空気を感じます。
「遅いぞ、ギョルゴ。もうすぐ始まるところだ」ルー達が到着すると、近くのダチョウが不機嫌そうに言いました。彼はまだ何かを言いたそうでしたが、ギョルゴはそれを遮るように首をぐいと前にのばしました。
「そんなことより、聞いてくれ。ギッギャに会ったというカモメの子がいるんだ!」
「ギッギャ?」
「ギッギャだって!」
「ギッギャがどうかしたのかい?」
群に細波のように、ギッギャの名前が伝わっていきます。
「本当か、ギョルゴ? あの子はどうしているんだ、無事なのか?」一番近くにいるダチョウも表情を変え、訊ねてきます。
「どうやら、そうらしい。詳しくはこの子から聞いてくれ」
ダチョウ達の目が、一斉にルーを集まりました。
「ええと」ルーがたじろぐと、もっとよく聞こうとばかりに、ダチョウ達は首を下に曲げ、くちばしが触れそうなほど、顔を近づけてきます。
ルーは彼等に、ギッギャと会ったときの様子を伝えました。話し終えると、ルーから直接聞いたダチョウは、自分の近くにいる他のダチョウにそれを伝えます。そのダチョウ達はまた近くにいるダチョウにそれを伝え――、そうして伝言が繰り返されて、群全体にルーの話が伝わっていきました。
「元気にやってるなら、よかったわね」
「まったくな」
「ようし、スタートの前にいいことが聞けたわ」
「みんな、あの子のことは気にかかってたからな」
ルーは口々にギッギャのことを呟くダチョウ達を見ました。群を後にしたというのに、彼女はずいぶんと好かれているようです。カモメ達は、自分のことをどう思っているんだろう、とルーの胸に疑問がよぎったとき、群の真ん中の方から、大きな声が聞こえました。
「ようし、良い知らせも聞けた。そろそろ、始めようか!」
ルーの知らせによって、やわらいでいた空気が、その一言でまた張りつめます。ダチョウ達の集まりが、さっと二つに分かれ、その片方は脇にどき、もう片方が前に出て、横一列に並んでいきます。
「これから、何が始まるの?」ルーは隣にいるギョルゴに訊ねました。
「ああ、そういえば、お前は走るために来たっていってたな。なら、見ておくといい。楽しめるぞ」
ギョルゴは満面の笑みで言います。けれど、ルーにはなんのことか分かりません。
「だから、何が始まるの?」
「レースだよ」ギョルゴは言いながら、ルーをともなって、脇にどいたダチョウの組の方へと向かいました。「これから、走るのが一番速いダチョウを決めるのさ」
「へえ。そんなものがあるんだ……」ルーは驚きました。走る速さを競うなんて。それはつまり、走ることに競うだけの価値があるということです。そんなこと、ルーは夢にも思いませんでした。なんだか、別の世界に来たようです。ルーは自分をここまで導いてくれたギッギャとの出会いに感謝しました。
「さあ、ルー、こっちだ。お前さんは大事なお客さんだからな。とっておきの席に連れていってやる」ギョルゴが言います。
「ねえ、見るのもいいんだけど、僕もそのレースに参加することはできない?」ルーはわくわくしながら、訊ねました。
足の速さを競うレース。それこそ、自分が求めていたものです。もし、そこで一番になったらどうでしょう? お父さんやお母さん、クーク、ララ、ポッツ、カモメのみんなに、胸を張って言えるのではないでしょうか? 僕は飛べないけれど、代わりに走ることができるんだ、と。そうすれば、自分にも居場所ができるのではないでしょうか?
ルーの気持ちに反して、ギョルゴは顔をくもらせました。
「いや、しかし、参加するのはダチョウだけだからなあ」
「だめなの?」
「駄目ってことはない。参加は自由だ。だが、このレースにダチョウ以外の鳥が走ったという前例はないんだよ」
ルーにはそれの何が問題なのか分かりませんでした。
「なら、簡単だよ。僕が最初の鳥になればいいんだ」
ルーの言葉に、ギョルゴは一瞬、とても驚いた顔をしました。「お前、まるでギッギャみたいなことを言うんだなあ」それから、少し悩んでから、首を縦に振りました。「そんなにいうなら、分かった。好きなようにするといい」
ルーは脇にどいた見物ダチョウ達から離れると、いまからレースを始めようと、一列になっているダチョウ達の方へと向かいました。そして、その一番左端に並びます。
「おい、どうしたんだ?」ルーに気付いた隣のダチョウが言います。「見物ならあっちだぜ、カモメさん」
毛並みの色から察すると、彼はヒナと大人の間くらいのダチョウのようでした。
「僕も出るんだよ。このレースに」
「冗談だろ?」
馬鹿にしたように言う彼に、ルーは肩をすくませることで答えました。
「とにかく、よろしく。僕はルー。あなたは?」
「ゲーンだ」
「さあ、もうレースを開始するぞ!」スタートの合図を出すらしいダチョウが出てきて、言いました。
ゲーンはふんと鼻を鳴らしてから、前を向き、小さい声で呟きます。
「やめておいた方が無難だと思うけどな」
あんまり気持ちのいい言葉ではありませんでしたが、ルーはべつに気にしませんでした。自分の走りには自信があったからです。スタートの合図が待ちきれないくらいです。
そして、合図のダチョウが言います。
「さーん、にー、いーち……、スタート!」
その途端、地面がドドドドっとすさまじい音でとどろきました。ダチョウ達の足が地面を蹴る音です。ルーも負けじと力一杯地面を蹴ります。大地が鳴動する激しさに、自分の足が弾き返される気さえします。それでも、ルーは懸命に走りました。
しかし、どうでしょう。他のダチョウ達の姿がみるみるうちに離れていきます。ルーは一羽だけ置いてきぼりです。
どうして? まさか自分だけ進んでいないのでしょうか?
事態にめんくらったルーは脇を見ました。見物のダチョウ達の顔がいくつも見えます。それらは、ルーの慣れ親しんだ速度で、後ろに流れていきます。そう、自分はいつも通りに進んでいるのです。見物しているたくさんのダチョウの中から、心配そうにこちらを見るギョルゴの顔が目に入りました。それも、すぐに後ろへと流れ去っていきます。
ルーはまた前をむきました。一番後ろにいるダチョウですら、もう砂粒のように小さくなっています。
何かがおかしい、とルーは思いました。さあっと心が冷えていくのが分かります。ルーは自分でも説明できない恐怖を感じていました。なぜそんなものを感じるのかは、分かりません。走っている最中に恐怖を感じたことなど、これまで一度もありませんでした。それがどうして、いまになって?
ルーは走りました。少しでもダチョウ達との差を縮めようと、少しでも、速く走ろうと。
もっと速く! もっと速く!
頭は真っ白になって、無我夢中で自分をせきたてます。
速く! 速く! 速く! 速く!
周囲の景色など、もう目に入りません。どこを走っているのかも分かりません。そして、ルーは自分が走っている最中に気を失い、飛べない鳥がもがくように、意識を失ってなお、足をばたつかせている中、ダチョウ達に助け出されたことにも気が付きませんでした。