さまよう時間 3
出会った鳥達から多くを教わり、また運にも助けられながら、ルーの旅は無事に続きました。そして、ついに、彼にとって、とても大事なことを教えてくれる鳥と出会うときが来ました。
その日、ルーはまた水を探していました。雨の降らない日がずっと続いていたせいで、どれだけ探しても、水たまりを見つけることができないでいたのです。
「水、水、水」きょろきょろしながら、ひとりごとを呟きます。喉は皮同士がくっ付きそうなほど、カラカラに渇いていました。
そのとき、ぼんやりとかすみ始めたルーの視界に、鮮やかな青色のかたまりが飛び込んできました。
水だ! 矢も盾もなくルーは突進しました。しかし、あともう少しでくちばしが触れる、というときに、水は空中に浮き上がり、ルーの届かない場所に逃げてしまいました。
「何をするんだ! 危ないじゃないか」水がいいます。
ルーは頭を振って、気を持ち直しました。良く見ると、それは水ではありません。コルリという名の小鳥でした。宝石のように真っ青な背中と、雪のように白いお腹。目とくちばしは、両者をとめ合わせる黒いボタンと釘のよう。
「水じゃなかった……」ルーががっかりして言うと、コルリは心配そうに首をかしげました。
「なんだ、水が飲みたいのかい? それなら、このまま真っ直ぐ進むといいよ。すこししたら、川にぶつかるはずだから」
「川? 川ってなに?」
「見たことがないのか? 君がいま一番欲しいものが集まってできたものさ」
コルリはそう言うと、ルーのくちばしから逃げるように、飛んでいきました。
ルーは彼の言葉を信じて、喉の渇きを必死におしとどめて、進みました。すると、コルリの言うとおり、水が流れる音が聞こえてきます。小川のせせらぎです。たまらず、ルーは走り出し、川際にすべり込むと、水面にくちばしを突っ込みました。水滴が跳ねて顔にかかっても、かまっていられません。目をつむって夢中で水を飲みました。
そうして、ようやくひと心地がついたとき、ふと誰かに見られているような視線を感じて、顔を上げました。見ると、川のむこう岸に一羽の鳥が立っています。全身が茶色かったので、メスのマガモのように思えましたが、首がひょろりと長く、体に生えている毛は、ハリネズミのようにつんつんと逆立っています。どうやら、ルーの知らない鳥のようです。
けれど、ルーには、相手がなんの鳥かということより、もっと大事な問題がありました。走っているところを見られてしまったのです。それは、ずっと隠し通してきた自分だけの秘密だったのに――。
ルーはばつの悪い思いで顔をふせると、弁解するように言いました。
「僕、急いでたんだ。ほら、すごく喉が渇いていたから」
「そうみたいね」相手は言います。体は大人のカモメより一回り大きいくらいでしたが、声からその鳥が幼いことが分かって、ルーはまた顔を上げました。もしかすると、自分と同じくらいの歳かもしれません。
「君は誰?」ルーは訊ねました。
「ギッギャよ」相手は答えます。聞きなれない響きです。カモメやルーの知る他の鳥達なら、自分のヒナにこんな名前をつけたりはしないでしょう。
「あなたの名前は?」首をひねるルーに向かって、相手が訊き返してきます。
「僕はルー」
「ふうん。そう」
ルーは川のむこうに立つ相手の様子を、注意深くうかがいました。どうやら、ルーが走ってきたことをあまり気にとめていないようです。それとも、彼女も水を飲むのに気を取られていて、見られずにすんだのでしょうか? そうかもしれません。
ルーはほっとして、心が軽くなり、その拍子に思っていたことが、するりと口から出てしまいました。
「ギッギャって変な名前だね」
言った途端、しまったとルーは思いましたが、一度、口から出た言葉は取り返せません。ギッギャが、きっとこちらを睨みました。
「なによ。ごあいさつね。ルーって名前の方が変じゃないの」
「えっ? そうかなあ」
「そうよ。変よ。とってもへんてこりんな名前だわ」
これには、ルーもいかりを覚えました。確かに、先に変だと言ったのはルーの方です。でも、悪気があって言ったわけではありません。それを、こんな風にいじわるに言い返してくるなんて!
ルーの中にあった、謝ろうとする気持ちは、どこかへ消えてしまいました。
「僕の名前は、へんてこりんなんかじゃない!」
「ルー、ルー、ルー、ルー」ギッギャは何度も呪文のように唱えました。「うん。やっぱり変だわ。こんな名前、他に聞いたことないもの」
ルーも負けじと相手の名前を唱えて、やり返しました。
「ギッギャ、ギッギャ、ギッギャ、ギッギャ。絶対にそっちの名前の方が変だよ」
「なんですって!」
「なにさ!」
「ルールールールー」
「ギッギャギッギャギッギャギッギャ」
二羽はお互いの名前を途切れることなく、言い合いました。意地でも相手より先にやめるつもりはありません。それでも、休むことなく声を出していれば、いつかは息が続かなくなります。ルーは我慢に我慢を重ねて、もうこれ以上は無理だというところで、ついに大きく息つぎをしました。
そのとき、ギッギャの声も止まりました。偶然にも、全く同じ時に、彼女も息つぎをしたのです。言い争う声が消えて、辺りがしんと静まって、川のせせらぎが戻ってきます。
ルーは相手を見ました。ワニのように大きくくちばしを開けて、息を吸い込むギッギャの顔は、とても間抜けに見えました。おまけに突然訪れた静寂が、その可笑しさに拍車をかけています。
けれども、なにより一番面白かったのは、今、必死になって息を吸っている自分も、相手と同じくらい間抜けな顔をしているんだ、と直感したことでした。
ルーは思わず、笑い出しました。そこにもう一つの笑い声が重なります。ギッギャのものです。彼女もまた、ルーと同じように笑っていました。
体の大きさが違っても、姿形が違っても、名前の響きが違っても、二羽の笑う声は不思議なほど似通っていました。
そうして、言い争っていたよりも長い時間笑い続けたあとに、ルーは相手に言いました。
「ごめんね。君の名前を変だなんて言って。初めて聞いた響きだったから、びっくりしただけなんだ」
「私の方こそ、ちょっとむきになってたかも。謝るわ」
そうして仲直りをすると、ルーは相手に呼びかけました。「ギッギャ」最初は奇妙に思えた名前も、何度も口にしたせいで、もうすっかり言い慣れています。「君は何の鳥なの?」
「ダチョウよ。まだヒナだけど。あなたは?」
「カモメ。僕もヒナ」ルーは答えると、周囲を見渡しました。「他のダチョウ達は? 群と一緒じゃないの?」
「私はひとりよ」ギッギャは言います。
相手が自分と同じ境遇であることにルーは驚きました。どうしてまだヒナなのに、群を離れたのでしょう? ルーの思いを読み取ったように、ギッギャは言います。
「私が群を出たのはね、やりたいことがあったからよ」
「やりたいこと?」
「そう。私は空が飛びたいの」ルーが訊ねると、ギッギャは胸を張ってそう答え、細い川を挟んだ反対側で、羽根を広げてみせました。体の大きさのわりに、彼女の羽根は短いように思われました。それに、どこか、見憶えがある気さえします。
そう、ギッギャの羽根は、ルー自身の羽根とよく似ていました。
ルーは言葉を失い、ただ呆然と彼女を見つめます。どこか誇らしげですらある、彼女の姿を。
飛べないことについてなら、自分は専門家だとさえルーは自負しています。そのルーの目から見て、彼女の望みを預けるには、その翼は小さすぎるように思われました。でも、そのことを伝えるべきでしょうか? いいえ、ギッギャの明るく希望に満ちた表情を前にしては、とても言い出せません。だから代わりにルーは訊ねました。
「どうして、君は空を飛びたいの?」
ルーの言葉が届くと、ギッギャは不思議そうに首を傾けます。
「どうして、どうしてって訊くの?」
「えっ?」
「だって、飛びたいから飛びたいのよ。理由なんて他にないじゃない」
彼女のあまりに真っ直ぐな言葉は、ルーの心の奥底まで響きました。
そう、理由なんて他にないのです。走りたいから、走るのです。
ルーがギッギャの言葉をかみしめていると、ギッギャが言います。
「ルー、あなたは? あなたもひとりなの?」
「うん」とルーは答えました。「僕もひとりなんだ」
「私みたいに群を出たのよね? どうして?」
「僕は――」ルーは一度、言い淀みました。カモメの自分がこんなことを言ったら、笑われるかもしれない、そう思うと、ほんの短い言葉を口にするのが怖いのです。でも、ギッギャになら言えるかもしれない、そう勇気を振り絞って、ルーは言いました。
「僕は走りたいんだ」
ギッギャは笑いました。けれど、それはルーが恐れていたようなものではなく、とても明るい笑い方でした。
「じゃあ、私達、似たもの同士なのね」
「うん。そうみたいだ」ルーは力強く頷きました。胸があつくなって、不思議と力が湧いてくるようです。
「ギッギャはこれからどこへ行くつもり?」
「決めてないわ。空が飛べる場所ならどこへでも」ギッギャは遥かな地平線に視線をむけて、言います。
そのとき、ルーはぴったりの答えを閃きました。
「それなら、ゴツゴツ海岸に行くといい!」
「ゴツゴツ海岸?」
「うん。僕の故郷で、みんな親切だし、海もあるし、空も飛べる」
ルーは自分の故郷のことをギッギャに話してきかせました。彼女の目が輝いていくのが分かります。そこは、まさしくギッギャの求めに合った場所だったようです。
ルーはさらに自分が海岸を出てから、これまで見てきたものをギッギャに教えました。それらを目印にすれば、ゴツゴツ海岸までたどり着けるでしょう。
「ありがとう、ルー。私、行ってみる!」
ギッギャが喜びと共に言います。そこで、ルーは慌てて付け加えました。
「あ、でも、僕に会ったことは誰にも言わないで」
「どうして?」
「うん……それは」誰にも何も言わずに抜け出してきたとは恥ずかしくって言えません。ギッギャにも嘘を付いて誤魔化そうか、と迷いましたが、そうしたくはありませんでした。
「ごめん、わけは言いたくないんだ」
「そう? なら聞かないわ」ギッギャはさっぱりと言います。「でも代わりに訊かせて、ルー。あなたはどこに行くところだったの?」
「実は、僕もあてがないんだ……。自分が行くべき場所がわからなくて」
「あなたは走りたい、そう言ってたわよね?」ギッギャは嬉しさを隠しきれていない顔で言います。
「うん」ルーが答えると、
「なら、あなたが行くべき場所は一つしかないわ。私の故郷、カラカラ草原よ」
耳にしたことのない土地の名です。「どんなところ?」とルーが問うと、ギッギャは悪戯っぽい目くばせをしてきました。
「私を信じる?」
ルーが頷くと、ギッギャは微笑みました。
「じゃあ、あなたの楽しみを奪いたくないから、教えないでおくわ。行けば、絶対にそこが最高の場所だって分かるから」
ルーが教えたように、ギッギャも草原までの道のりを教えてくれ、最後に付け加えました。
「草原に着いたら、ギッギャの紹介で来たって言うといいわ。かならず誰かが力になってくれるはずよ」
「分かった。ありがとう」ルーが心からの礼を述べると、ギッギャもそれに応じました。
「私の方こそ、ありがとう、カモメのルー。あなたと出会えてよかった」
そんなことを言われて、なんだか、ルーはくすぐったい思いがしました。ギッギャはうんと伸びをすると、川を渡って、ルーの隣にきました。
「じゃあ、私は行くわね。目指すところが決まったら、立ち止まってなんていられないもの」
それから、彼女はルーに向かって、羽根を差し出しました。「またどこかで」
「うん。またどこかで」ルーは自分の羽根を彼女のものと触れ合わせて言います。
ギッギャはくすりと笑うと、そのままルーがやってきた旅路を逆向きに、歩いていきました。振り返ることなく、ずんずん前に進んで行きます。
「僕みたいなことを思う鳥も、世の中にはいるんだなあ」
その後ろ姿を見送りながら、ルーは呟きました。そして、自分も進むべき先へと体をむけて、川を渡りました。日が暮れるまで、まだ時間はあります。よし、ギッギャに教えてもらった最初の目印まで行こう。そう決めて、彼は歩いていきました。