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産まれた場所 3


「もう少し、大きく羽ばたいてみたらどうかな?」


 ある日の訓練中、クークがそばに降り立って言いました。


 ルーはいつものように一人、地面で練習しているところでした。体では羽根を動かしながら、でも、頭の中ではまるっきり別のことーー走ることを考えながら。


「ほら、こうやるんだよ。よく見てて」

 クークは丁寧にお手本をみせてくれました。今では、彼の羽根は最初の頃とは見違えるほどたくましくなっています。

 クークが飛び上がり、また戻ってくると、ルーは俯いて言いました。

「クーク、だめなんだ。僕にはできないんだよ……」

「そんなことない!」

 今度はララが隣に降りてきました。

「ルーは惜しいところまで来てるのよ。あと少しで絶対に飛べるようになるわ」

「自分では、そうとは思えないんだけど」

「私が言うことを信じてよ」

 ララはそう言うと、自分もお手本を見せるのに加わりました。

「クークの飛び方には羽根の先っちょを変に動かす癖があるの。そこは真似しないように気を付けてね」

 さあっと吹いてきた風に乗り、ララはまるで地面から空に落下するように、優雅に飛翔してみせました。


 いつのまに、二人はこんなに上手に飛べるようになったんだろう? ルーは目を見張りました。このところ走ることで頭がいっぱいだったので、友達が飛んでいる姿をちゃんと見ていなかったのです。


「癖があるんなら、もっと早く教えてくれればよかったのに」

 クークが文句をいうと、空からララの笑い声が返ってきました。

「いいじゃない。それがあなたの個性ってやつなのよ」

 ララが降りてきます。その横にはポッツも並んでいました。

「個性ってなに?」ポッツが訊きます。

「個性は個性よ。説明なんてできないわ」

「ふうん。そんなものかな」

 ポッツは少し考えるようにしてから、言いました。「ねえ、ルー。コツがあるんだよ」

「コツ?」

「うん」ポッツは深く頷いてから、何かを言おうと、口をパクパクと動かして、やがて、しょんぼりとして言いました。「ごめんね、僕も、うまく説明できない。でも、コツをつかんだら、あっという間に飛べるようになるのは確かなんだ。こんな簡単なことだったんだって笑っちゃうくらいに」

「コツをつかむ、か……。それ、僕にもできると思う?」

 ルーが言うと、ポッツは強い口調で言いました。「僕にだってできたんだ! ルーにできないはずがないよ!」

 ルーはそれまで、ポッツがこんな風に断言するのを聞いたことがありませんでした。なによりポッツ自身が、自分の声の大きさに驚いているようでした。彼は目をぱちくりさせてから、はにかんだように砂を蹴って言いました。

「思い出してみてよ。これまで僕にできたことで、ルーにできないことが一つでもあった?」


 ルーの胸にポッツの優しさが染み込んできました。ルーは黙ったまま、集まってくれた友人達を見回します。そして、返ってくる真摯な眼差しに、たまらなくなりました。身を入れて練習をしていなかったそれまでの行いが、彼等を裏切っていたように感じられたからです。


「みんな、ごめん。ぼく――、頑張るよ」ルーは言いました。

「なんで謝るんだよ」クークが笑います。「ルーはずっと頑張ってただろ」


 ああ、そうか、とルーは思いました。みんなは自分の嘘を知らないのです。自分が練習中、頭で別のことを考えていたことを知らないのです。

 ついさっきまで、ルーはそれを、とても良いことだと考えていました。でも今では逆に、とても悲しいことに思われてきます。そんな思いを挽回しようと決意を込めて、もう一度、言いました。


「僕、頑張るから」


 ルーはまた練習に戻りました。クーク、ララ、ポッツの三羽もつきっきりで、ルーを手伝ってくれました。太陽が傾き、水平線に触れて真っ赤に燃え上がり、やがて海に飲み込まれ、辺りがすっかり暗くなってしまうまで、ずっとです。


 その間、ルーは走ることをわきにおいて、時間が経っていることにまるで気がつかないくらいに身も心も練習に打ち込みました。他のみんなも同じく、クークもララもポッツも、自分たちの練習は放り出して、ルーがどうしたら良いのか、どこが悪いのか、何度も何度も、実演を交えながら、根気よく教えてくれました。


 その日、どうやら先生はうっかりしていたようで、もうそろそろ帰る時間だよ、と告げに来たのは、いつもよりずっと遅い時間になってからでした。

 夕日はすでに沈み切って、空と海が濃紺から黒へと染まっていきます。空気の色が変わると、潮騒の調べも物悲しい音色へと移り変わります。その時間がきても、ルーはまだ飛べないままでした。でも、胸の中にある気持ちは、いつもと違いました。きらきらと明るく、じんわりとあたたかい何かが、そこにあるのです。


 波打ち際に立ちながら、ルーはじっと水平線をみやりました。

 みんなのおかげで、あと少しでコツが掴めそうな気がしています。ルーの目には、このまま頑張ったら、きっと飛べるようになる、そんな希望が見えていました。

 帰りは、みんなで揃って帰りました。ルーにとっては久しぶりです。話して、ふざけて、笑って、一緒に歩いているだけなのに、なぜだかとても楽しくて、その楽しさが懐かしくて、ルーは足を縮めることなんてすっかり忘れてしまいました。


「ルーはあと二、三日で、飛べるようになると思うわ」ララが言いました。なんだか、自分のことのように嬉しそうです。

「うん。僕もそんな気がする」ルーは言います。これまでは自分が飛べるようになるなんて、想像できませんでした。なんだか、心がふわふわしてきます。飛んだらどうなるのでしょう? 明日が来るのが、楽しみです。


 そうして、みんなで歩いていると、ばさばさと音がして、夜空から誰かが降りてきました。


「こんなところにいたのか、ルー」


 それはお父さんでした。


「どうしたの、こんなところで?」突然、やってきたことに驚いて、ルーは訊ねました。

「帰りが遅いから心配したんだよ」お父さんは視線をルー達の間で一巡りさせると、ほっとため息を吐きました。

「よかった。友達と一緒だったんだな……」

「うん、今日はみんなと一緒に練習してたから」

 ルーの言葉に、お父さんは優しく微笑みました。

「今日も、だろ? 毎日、頑張っていてえらいじゃないか」

「おじさん、こんばんは」クーク達が声を合わせて言うと、お父さんは彼らにむけても微笑み返しました。

「ああ、こんばんは。君達もこんなに遅くまで練習なんて、たいしたものだ」

「べつにそんな」ポッツが照れて俯き、それをからかうように、クークが軽く体をぶつけます。じゃれ合う友人達を見ながら、お父さんは言いました。

「うちのルーはどうだね。上達してるかな?」

「うん!」クークが胸を張って答えました。「大丈夫。あと、ほんの少しで飛べるようになるはずだよ」

「もう少しで飛べる?」お父さんの目が怪訝そうに広がります。「それはどういうことかな?」


 ルーは、はっとしました。いけない! お父さんに嘘を吐いて、まだ飛べないことを秘密にしているのを思い出したのです。 


 でも、気付いたときには、もう遅すぎました。庇うようなララの言葉が耳に飛び込んできます。

「おじさん、心配しないでね。本当にもう少しなのよ」

 ポッツも隣でしきりに頷きながら、言っています。

「うんうん。ルーがコツを掴んだら、僕なんて、きっとすぐに追い抜かれちゃうんだろうなあ」

 お父さんは、ゆっくりと順繰りに三羽を見ました。そして、全てを了解したように頷き、冷たい眼差しをルーに注ぎました。

「そうか――。そういうことか」

 それから、お父さんはみんなにむかって言いました。

「今日はもう遅い。危ないから私が巣の近くまで送っていこう」

「いいの?」クークが訊ねます。

「ああ。ここから一番近いのは誰の巣かな?」




 ◇◇◇




 クーク、ララ、ポッツの巣まで順番に行く間も、楽しそうな話は途切れることがありませんでした。


 何も話せなくなったルーに代わって、お父さんがそこに加わって、全てのことを聞き出してしまいました。ルーがまだ飛べないこと。朝、海岸に早く行って特訓しているわけではないこと。遅くまで残っているわけでもなく、みんなとは別に一人で帰っていること。海岸を出て巣に帰るまでの空白の時間に、なにをやっているか、誰も知らないこと。


 巣へと送り届けたのは、ポッツが最後でした。

 お別れを告げたあと、自分の巣にむかって少し歩いてから、ポッツは振り返りました。


「ねえ、ルー。僕達、ルーが飛べるようになったら一緒に行きたいなって、面白そうな場所をたくさん見つけてたんだ」

「……そうなんだ」お父さんの隣で、俯きながらルーは言います。

「うん」ポッツは頷くと、にこりと笑って、巣へと帰っていきました。「また明日ね」

「うん、また明日」

 その姿を見送ってから、やがて、お父さんが言いました。「行こう。お母さんが待ってる」




 ◇◇◇




 自分たちの巣に帰ると、お父さんはお母さんに全てを話しました。

 ルーはこんなにも悲しい顔をするお母さんを見るのは、初めてでした。


「どうして嘘を吐いたんだ?」お父さんが疲れた声で言います。

「だって……」

「嘘を吐いたって何も変わらないだろう。飛べないなら飛べないと、ちゃんと言えばいいじゃないか」

「でも……」

「おまけに一人で特訓しているっていう嘘まで吐いていた。本当は全然、練習していないんだろう」

「今日は……、今日はちゃんと頑張ったんだ」

「今日だけ頑張ったってダメだ!」お父さんは首を振りました。「ルー、これまで、ずっと何をやってたんだ?」

「なにって……」

「ちゃんと頑張ってたら、とっくに飛べるようになっていたはずだろう?」

「そうかもしれないけど」

「まあ、良いじゃありませんか」お母さんが間に入って、言いました。「だって、お友達はもう少しで飛べるようになるって言ってたんでしょう?」

「確かとは言い切れないさ。このままでは、どんどん差が着いてしまう!」お父さんは怖い目でルーを見ました。「ルー、これからはお父さんが毎日、砂浜まで送っていく」

「別にそんなことする必要ないよ」

「必要はある。お前がどこで道草を食うか分からないからだ。帰りも砂浜まで迎えに行く。残ってお前の練習に付き合ってもいい」

「でも……」


 そんなことになっては、原っぱには行けません。走る練習ができません。ルーは必死に反対しましたが、お父さんは聞いてくれませんでした。


「いいかい、ルー。飛ぶことはカモメにとって、本当に、本当に大事なことなんだ。飛べなければ、カモメとして生きることはできないのだから」静かに、深い声でお父さんは言います。「苦手なら、ひとの何倍も頑張らないといけないんだよ」

 ルーは助けを求めて、お母さんを見ました。

「ルー」お母さんは、じっとルーを見つめ返します。その目にはルーが読み取ることのできない感情が渦巻いていました。「辛くても、逃げてはダメなのよ」


 ルーは俯きました。悔し涙が流れて、ぽとぽとと落ちました。

 明日になったら、飛べるかもしれない。そんな希望はどこかへ行ってしまいました。


 飛ぶことがそんなに大事なことなのでしょうか? そんなに、そんなに大事なことなのでしょうか?

 ルーにとっては走る事のほうが、ずっと大事なのです。

 でも、誰にそれを言えるでしょう? 飛べない言い訳としてしか、聞いてもらえないに決まっています。


「分かったよ」ルーは二人に言いました。

「本当に分かったのか?」お父さんが念を押して来ます。

「うん。本当に分かったよ」ルーはさらに言いました。


 そこに本心はこれっぽっちも入っていませんでした。でも、これまでだって嘘を吐いてきたのです。それがもう一つ増えたところで、一体何が変わるというのでしょう?




 ◇◇◇




 その夜、お父さんとお母さんは遅くまで、話し合っていました。小さな声だったので、内容は聞き取れませんでしたが、ルーはずっと静かに終わるのを待っていました。そして、二人が話し合いを終えて、寝入ったのを聞き届けると、眠っている振りをやめて、何も言わずに巣を抜け出しました。

 通い慣れた道は、夜の暗さでも分かります。いつもの道順で、ルーは原っぱに行きました。こんな時間に来たのは初めてです。


 波音は潮風に乗って、ここまで届いていました。それに応えるように体をゆらして、さやさやと草が歌っています。日中よりもひそやかに、月明かりをきらめかせながら。


 お父さんが毎日見送りにくることになれば、もうここへは来られないでしょう。そうなれば、もう二度と走ることもないかもしれません。


 ルーはこれで最後だと決めて、走り出しました。自分から原っぱへのお別れの挨拶のつもりでした。

 今まで、こんなに悲しい気持ちで走ったことはありません。仕方ないのです。カモメは飛ばないといけないのです。飛べないカモメはカモメではないのです。


 草が体にあたります。風がくちばしをなでていきます。ルーは泣いていました。


 それでも――、


 涙が流れていても、心が張り裂けんばかりでも、ああ、走ることのなんて素晴らしいことでしょう! これを忘れなければいけないなんて。捨てなければいけないなんて。そんなことには耐えられない!


 ルーは走り続けました。今までで一番速く。今までで一番長く。


 ずっと、走り続けることができたなら――、そうだ、このままずっと走り続けることができたなら、僕はそれでいい。それだけでいい。そう思いました。

 けれど、ついには精魂尽き果てて、ルーは倒れました。草がその体を優しく抱きとめ、風がその体を静かに冷まします。


 終わりです。


 ルーは呆然としたまま、横になっていました。流れ出る涙はとめどなく、はらはらと落ちていきます。ルーは自分に言い聞かせました。諦めるんだ。もう走るのはおしまいだ。僕は飛ばなくちゃいけないんだ。ひとの何倍も頑張らなくちゃいけないんだ。逃げちゃダメなんだ――。けれど、どうしてもだめでした。


 走ることを忘れることなんてできません! これだけは、どうしても捨てることが出来ません! 忘れるくらいなら、捨てるくらいなら――、


 ルーはゆっくりと立ち上がりました。そして、ゴツゴツ海岸を見下ろしました。


 そこは自分が生まれ育った場所です。お母さん、お父さん、クーク、ララ、ポッツ、大好きなみんながいる場所です。

 ルーの心は真っ二つに引き裂かれるようでした。でも――、どちらかしか選べないというのなら――。


 ルーは静かに決意すると、ゴツゴツ海岸に背を向けました。そして、夜の中、どこに続いているとも知らない方向へと、ひとり歩き出しました。


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