産まれた場所 2
ルーは必死に羽ばたいていました。でも、ちっとも体が浮き上がりません。
クークとララはもう海の上をすいすい飛び回っています。ポッツもちょっとずつですが、高く浮けるようになってきました。
ルーは彼らを横目に、もっと必死に羽ばたきました。羽根の付け根がひりひり痛みましたが、頑張って動かし続けます。
「ルー。調子はどうだね?」先生が近づいてきて、訊ねました。
「ええと」
「訊きたいことはあるかい? 分からないことは?」
「先生、飛ぶには風を抱きしめるようにすればいいんですよね?」
「まあ、確かにそう言ったが……。君はそうしているのかね?」
「はい。そのつもりなんですけど」
ルーは実際にやって見せました。その様子を先生がじっと見つめます。
「君はちゃんとやってるのかね? ふざけてるわけじゃないね?」
「ちゃんとやってます」ルーは答えました。
「ふうむ。なら、なぜ君は飛べないんだろう?」
先生はすこし考え込むと、ふと首をかしげました。
「ちょっと待てよ……。なんだか君の羽根は短い気がするぞ」
それから不思議そうに、ちょんちょんとルーの羽根をくちばしで突っつきました。
「どうしてだろう? もしかして、その長い足に栄養が取られちゃったのかな? だから、君は羽根が短いのかな?」
「……わかりません」ルーは俯いて言いました。
先生は素っ気なく頷くと、クーク達の様子を見に飛び立って行きました。
今ではポッツも海の上にいました。近くでクークとララも楽しげに旋回しています。笑い声が聞こえてきます。そんな友人達を見ると、ルーの胸はシクシクと痛みました。でも、そんな痛みには気付かないふりをして、また一人で羽ばたきの練習に戻ります。
もしかしたら、先生の言う通りなのかもしれない、とルーは思いました。僕は羽根が短いから、飛べないのかもしれない。そして、羽根が短いのは、足が長いせいなのかもしれない。でも、だとしたら、僕はどうすればいいんだろう? 僕に何ができるんだろう?
名案がひらめいたのは、練習が終わって、みんなで帰る時間になったときでした。
そうだ! 足を縮ませればいい! そうすれば、代わりに羽根が大きくなるはずだ!
ルーは自分のアイデアに興奮しました。羽根が大きくなればきっと、自分もみんなと同じように飛ぶことができるはずです。
早速、その日の帰り道から、やってみることにしました。膝をできるだけ曲げて、姿勢を低くします。歩くのが遅くなりますが仕方ありません。クーク達には自分を置いて、先に帰ってもらうことにしました。
小さく小さくなって、ルーは歩きます。
巣に着くと、期待しながら羽根を広げてみましたが、どうやら、長さは元のまま。何の効果もないようでした。でも、ルーは諦めるつもりはありませんでした。
なんの! まだ一回だけ。これをずっと続ければいいだけだ。
歩くのが遅くなったので、海岸に行くときはみんなより早く巣を出なければなりません。逆に、帰りは先に行ってもらって、みんなよりも遅く巣に帰ることになります。
縮こまって縮こまって、ルーは歩きました。それでも、空を飛べるようにはなりません。
◇◇◇
「ただいま」ルーは自分にうんざりしながら巣に帰ってきました。飛行訓練からもうひと月が過ぎていましたが、今日もずっと地面の上で羽ばたいていたのです。
「あら、お帰りなさい」お母さんが言います。
声の調子でルーにはすぐに分かりました。ああ、またお父さんと僕のことで言い争ってたな、と。このところ毎晩そうでした。
「今日はどうだったんだ?」お父さんが言いました。
「えーと……」答えづらい質問にルーは口ごもります。
「どうだったんだ?」いらいらしながらお父さんは言います。
お母さんが、おろおろと心配そうにこちらを見ました。
ああ、僕が飛べないからだ、とルーは思いました。僕が飛べないから、二人はこんなに怒ったり、悲しんだりしているんだ。僕が飛べていたら、こんな風にはならないんだ。
ルーはお父さんとお母さんが言い争うのは嫌でした。だから、深く息を吸い込むと、意を決して言いました。
「飛べたよ」
「え?」二人はびっくりして顔を見合わせました。
「本当なの?」お母さんが言います。
「本当なんだな?」お父さんも合わせて言います。
ルーは頷きました。それはルーが生まれて初めて吐いた嘘でした。その嘘にお父さんとお母さんが顔を輝かせるのが見えます。
「ああ、よかった!」お母さんは嬉しさのあまりか、ルーを羽根でぎゅっと抱きしめました。「あなたがこのまま飛べなかったらどうしようかと、ずっと心配してたのよ」
「そうなんだ……」ルーは言います。
「やったな、ルー!」お父さんがくちばしでルーの頭を撫でました。「これで俺も外で肩身の狭い思いをしなくて済むよ」
「うん。いままでごめんね」ルーは言います。
その日の晩、巣ではお祝いでした。お母さんとお父さんが喜んでいるのを見ていると、ルーは胸の痛みが強くなっていくのを感じました。
どうしてそうなのかは分かりません。でも、その痛みについて、自分がふたりに話すことはないのだろうな、ということだけは分かりました。
そうして、お祝いがすんで夜になると、両親は久しぶりに言い争うことなく、眠りにつきました。隣からはすやすやという寝息が二つ聞こえてきます。
ルーは起きたままでした。波の音がうるさくて、星の明かりがめざわりで、とても眠るどころではありません。
耳をふさいで、目をぎゅっとつむり、それから足を縮こませて、じっと待ちます。けれども、眠りはちっともやってきません。
「そうか。これが嘘を吐くってことなんだ」ルーが夜に向かって呟いたその言葉を、聞いている者はいませんでした。
◇◇◇
「行ってらっしゃい」
いつもよりもずっと早い時間に巣を出たルーを、お母さんとお父さんは笑顔で見送ってくれました。
みんなが訓練を始める前に、自分だけ海岸で練習をすることにしたと、二人には伝えていました。
「ああ、それがいい。早くみんなに追いつかないといけないからな」お父さんは満足そうに言いました。
でも、練習をすると言ったのは嘘でした。ルーは早くも二つ目の嘘をついていたのです。
ルーは巣にいたくありませんでした。砂浜にも行きたくありませんでした。だから、なるべく早くに巣を出て、ずっと遠回りをして砂浜に行くことに決めたのです。
お父さんとお母さんから見えない位置まで来ると、ルーはいつもの道を外れて、波音がするのとは別の方へ、潮風が吹くのとは逆の方へと、歩いていきました。時折、上空を飛ぶカモメの姿を見ると、慌てて隠れます。こんなところにいるのが見つかっては大変です。ヒナがここで何をしている? と訊かれても、上手く答えることはできないからです。
ルーは少しずつ斜面をのぼって海を離れ、いままで来たこともない場所をさまよいました。一体、どこにむかっているのでしょう? 分かりません。どっちへいけばいいのでしょう? それも分かりません。ルーはなんのあてもなく、ただ前へ前へと進んでいきました。そうしてしばらく歩き続けた末に、突然、広くひらけた場所に出ました。辺り一面に短くて柔らかそうな草が生えています。
「へえ、知らなかった。ゴツゴツ海岸の近くにこんな場所があったんだ」ルーは驚きました。
そこはまるで、緑色をしたもう一つの海のようです。風が吹くと太陽の光が反射して、きらきらと波が起こります。
試しにルーはそっと草に足を乗せてみました。くしゃっと音がして草が足の裏を包み込みます。思った通りの柔らかさです。
次にごろんと横になってみました。そのふかふかとして柔らかいこと! ルーは思わず笑ってしまいました。笑うのなんて久しぶりです。途端に心が晴れやかになりました。
「これはいいところを見つけたぞ」立ち上がって、ルーは言いました。
草が奏でる音が楽しくて、ルーはその場所を、ぐるぐるぐるぐる歩き回りました。足を縮こませることなんて、すっかり忘れて、軽くなっていく気持ちのままに、歩調をどんどん速めていきます。背の高い草がパシパシと羽根に当たり、空気がくちばしの周りを流れてゆきます。
もっと速く! もっと速く!
草の当たる間隔がなくなって、パパパパパっという素早い音に変わります。空気もどんどん強くなって、くちばしに沿ってピューピューと流れていきます。
そして、心を囲う檻が消えて、気持ちがどこまでも自由になって、こんなにも速く進めるのは、飛んでいるからに違いない、とルーは思いました。
そう、きっとそうだ! 僕はやっと空を飛べたんだ!
でも、そんなはずがありません。足は地面についたままです。羽ばたいているわけでもなく、風を抱きしめているわけでも、風に乗っているわけでもありません。
じゃあ、これは何だろう? どうして、こんなに心地いいんだろう?
ルーは風を切って進んでいました。翼はたたんだまま、足で交互に地面を蹴って、前へ前へとぐんぐん体を運んでいきます。
やがて、ルーは気付きました。そうか。飛んでいるんじゃない。僕はいま走っているんだ! 興奮と喜びが同時にやってきました。やり方を教わる必要なんてなかったのです! 最初から自分の力で走ることができたのです!
ルーは走り続けました。心の赴くまま、原っぱを縦横無尽に駆け回りました。そして、力の全てを使い果たすと、草の上に倒れこみました。心臓がどくどくと脈打ち、息が苦しくて、どんなに空気を吸い込んでも足りません。その苦しさに耐えながらルーは思いました。
なんて素晴らしいんだろう! どうしてこんなに素晴らしいものを今まで知らなかったんだろう! どうして誰も教えてくれなかったんだろう!
息が落ち着いてくると、ルーはくるりと仰向けになって、空を見上げました。どこかなつかしい、透きとおるような青い空。このまま目を閉じれば、気持ちよく眠りにつけそうです。
そうしようかな。ルーは一瞬そう思いました。
そのとき、青い空の中にすっと白い点が流れ込んできました。カモメです。ルーは、はっと我に返りました。
いけない! 砂浜に行かなくちゃ!
慌てて立ち上がると、原っぱを抜け出して、ルーは海岸にむかいました。
最初はおぼえたばかりの走り方で草の上を駆けていきましたが、斜面に差し掛かると速度を落とし、砂浜に着く頃には無意識にいつもの癖が出て、ルーはまた足を縮こませて歩くようになっていました。
◇◇◇
その日を境に、朝と夕方、この原っぱにやって来るのがルーの日課になりました。
朝はお母さんとお父さんに砂浜で練習すると嘘を付いて、早くに巣を出ます。訓練が終わると、クーク達には残って練習すると嘘を付いて先に行ってもらってから、ひそかにこの原っぱにやってきます。
空は今でも飛べないままでした。でも、もう悲しくはありません。飛ぶよりも素晴らしいことを知っているからです。巣でも砂浜でも、ずっと走ることについて考えていれば、飛べない辛さなんて、へっちゃらでした。
どうやったらもっと速く走れるだろう? どうやったらもっと長く走れるだろう? いい考えが思いつくたびに、ルーは原っぱに行って試しました。日を追うごとに、走りが上達していくのが分かります。それは、飛ぶことで全く上達しなかったルーにとっては、とても嬉しいことでした。
でも、こんな風に走っていることを、ルーは自分だけの秘密にしました。教えてしまえば、何を言われるかが分かっていたからです。
飛べないのに、走る練習をしているだなんて!
そんなことをしている暇があるなら、もっと飛ぶ練習をしたらどうなんだ!
カモメは走れなくてもいいんだ!
飛べないカモメはカモメじゃない!
無駄なことはさっさとやめなさい!
きっと、こんなところでしょう。
だからルーはこの素晴らしい発見を、自分の心だけに留めながら、日々を過ごしていくことにしたのです。




