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産まれた場所 1

 おだやかに晴れた日のことです。青海原に弧を描く岩だらけの海岸で、かすかな音が鳴りました。


 コツンコツンーー。コツンコツンーー。耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな音です。


 辺りには、寄せては返す波の響き、砂がこすれる涼やかな調べ、風に乗るカモメ達の歌う声。


 そこに混じる机を指で優しく打つような音。


 その音はだんだん力強くなっていきます。聞こえる間隔もしだいに短くなって、注意深く音をたどっていけば、それがあるカモメの夫婦の巣から聞こえてくるのが分かります。音の源はお母さんが体の下で温めている卵の中です。


 コツンコツン――。コツンコツン――。音はますます大きくなって、殻にひびが入っていきます。やがて、クシャッという音とともに小さな穴があきました。細いくちばしの先っぽが、ちょっぴりとのぞき見えます。

 それからたっぷりと時間をかけて、穴は広がり、ひびはこじ開けられ、ようやくヒナがかえります。その体は海を泳いできたみたいに濡れていて、綿毛が体にくっ付いています。


「まあ! なんて可愛いんでしょう」お母さんカモメが言いました。


 幼いヒナは卵から這い出すと、まるで空をつつこうとするように、殻の欠片が付いたくちばしを、くいっくいっと突きあげました。


「本当だね。ほら、ごらん」お父さんカモメが言います。


 空は広く澄み渡って、雲一つありません。代わりに群青色の中では、カモメ達が無数の白い点となって踊っています。


 お母さんカモメとお父さんカモメは幸せで胸が一杯でした。その幸せを翼に込めれば、どんな鳥よりも高く、太陽さえも飛び越えて、はばたいていける気がするほどでした。


「この子の名前。ルーはどうかしら?」お母さんカモメが言います。彼女が口にしたのは、空を意味するカモメの古い言葉です。お父さんカモメは嬉しそうに頷きました。

「ああ、私もまったく同じ名前を思い浮かべていたところだ」

「決まりね」


 お母さんカモメが産まれたばかりのヒナに自分のくちばしを伸ばし、優しく撫でると、愛を込めて、我が子の名を呼びました。

「ルー、産まれてきてくれて、ありがとう」


 ヒナはそれに応えるように口を開けると、餌をねだる鳴き声をあげます。

 二羽は互いに顔を見合わせると、微笑みを交わしました。お父さんが翼を広げ、ひらりと空へ舞い上がり、一直線に海を目指します。カモメの仲間達とすれ違うたびに、喜びと共に彼は言いました。


「聞いてくれ! 子供が産まれたんだ! 私達の子供が産まれたんだ!」

「どんな名前? どんな名前?」カモメ達は口々に訊ねます。

「ルーだ! 私達の子はルーという! 憶えていてくれ!」


 お父さんカモメは海で魚を獲ると、そのままお母さんとヒナがいる巣へと取って返します。お父さんが与えた餌をヒナはもりもりと食べて、もっと、もっと、とせがみました。今度は、お母さんが入れちがいに飛び立ち、次の餌を獲りに行きます。目も回るような忙しい日々が始まりました。


 それでも二羽のカモメ達は、自分達が世界中で一番幸せな鳥であることを知っていました。そして、同じだけの幸せを、いえ、それ以上の幸せをこの子に与えたいと願ったのでした。




 ◇◇◇




 ゴツゴツ海岸。それが、ルーの産まれた場所の名前です。


 小さく単調だけれど、とても平和なところです。


 うんと伸びをして見渡せば、この海岸の全てをみてとることができます。塩水で洗われる岩礁に、青く寄せて白く砕ける波、打ち捨てられた海藻と、砂浜に埋もれた星の数ほどの貝殻、それに吹きぬけゆく風と丸い太陽――。面白いものは何もないといっても良いかもしれません。


 実際、やってきた鳥達の多くはそう言って飛び去り、二度と戻ってきませんでした。

 けれど、カモメ達は何もないこの場所が好きでした。あまりにも気に入ったので、しばらく渡り鳥であることをお休みして、ここに住むことにしたほどです。


 ルーもまたこの海岸で一羽のヒナとして成長していきました。今では、巣を離れて、ひとりで歩くこともできるようになりました。一見すると、ただの普通のカモメのヒナです。けれど,彼には、少し変わったところがありました。


 他のヒナ達がみんな揃ってするように、大人達の真似をして、未熟な翼を羽ばたかせることがありませんでした。毎日、餌を運んでくる親鳥達を目で追って、その先にある海を食べ物のありかとして、物欲し気な眼差しで見つめることもありません。それになにより、彼の体には、他のヒナ達とは異なる一つの特徴がありました。


 彼は、他のヒナ達と比べて、ちょっとだけ足が長かったのです。


 ルー自身はそのことをちっとも気にしてはいませんでした。友人と一緒に歩くとき、すこし歩くのを遅くしていたくらいです。


 今日も彼は四羽の友人達と一緒に歩いています。砂浜へと向かうみんなの歩調がいつもより浮足立っているのは、これから特別な出来事が待っているからです。


「さあ、いよいよだぞ!」はりきり者のクークが鼻息を荒くしながら言います。「いよいよ、今日から飛行訓練だ!」

「うーん」緊張しいのポッツは浮かない顔です。「ぼく、ちゃんと飛べるかなあ?」

「大丈夫よ」物知りなララが言います。「わたしたちカモメはね、産まれたときから飛び方を知っているの。本能っていうのよ」

「本能ってなに?」ポッツがこわごわと訊ねると、ララが答えました。

「本能は本能よ。説明なんてできないわ」

「うーん」ポッツはまだ心配そうにしています。「ルーはどう? 心配じゃない?」

「そうだなあ」

 みんなの隣でルーはひとり、別のことを考えていました。


 彼等は今、ヒナ達に飛び方を教えてくれる先生の元へ向かっているところでした。けれど、ルーは飛ぶことにあまり興味を持ってはいませんでした。彼には、それよりも知りたいことがありました。走り方です。ルーは卵から産まれ、物心ついたときから、走ってみたいと思い続けてきたのです。でも、お父さんやお母さんからは、やり方を教えてもらえませんでした。カモメはそんなことしないのよ。そう言われておしまいでした。


 けれど、もしかしたら、先生からは教えてもらうことができるかもしれません。

 うん、きっと、そうだ。ルーは思いました。先生に頼んでみよう。それがいい!

 自分の思いつきに、一人でワクワクしていると、むこうの方から声がしました。


「おーい、ルー! ぼんやりしてると置いてくぞー!」クークです。見れば、みんな知らないうちにずっと先を歩いています。

「あっ! 待ってー!」


 ルーは慌てて早歩きをして、みんなを追っかけました。なんといっても彼の長い足です。すぐに追いついて、みんなと一緒に海岸へむかいました。




 ◇◇◇




 波がパシャパシャと打ち付ける砂浜に、先生と四羽のヒナ達が揃います。


「さあ、みんな集まったかね。いない子はいないかな?」先生が言います。

「いませーん」四羽は声を揃えて、答えます。

「よしよし。じゃあ、始めよう。飛び方の訓練だ。なに、ちっとも難しくないんだよ。まずは羽根を広げてごらん」


 先生はお手本を見せてくれます。青空の下、彼の白と銀色の混ざった翼がまるで神聖な二本の角のように、すうっと伸びていきます。

 今度はヒナ達の番です。みんなも真似して、羽根を広げます。雛達の羽根は暗いまだら模様で、こちらはまるで雨雲のようです。


 おやっ? そこでルーは首をかしげました。周りの子達と自分の羽根を見比べると、自分の羽根だけが少し、ほんの少しだけ、小さい気がしたのです。


「どうしたんだね? ルー」その様子に気付いた先生が言います。「よそみをしてはいけないよ」

「あ、はい」ルーはもう一度だけみんなを見回してから、前をむきました。きっと気のせいだ。そう思うことにしました。

「さて、どこまでいったかな?」

「羽根を広げるところまでです」クークがこたえます。

「ああ、そうだ。そうだった。よし、みんなできたかね? ならあとは簡単、羽ばたくだけだ。ほらこんな風に」


 華麗に翼を動かして、先生は空へと飛び立ちました。そのまま海の上まで滑るように飛んでいくと、くるくると円を描いてから、子供達の前に降り立ちます。


「ざっとこんな感じさ。みんなもやってごらん」


 四羽はいわれた通りに羽ばたいてみました。でも、先生みたいに上手くいきません。足は地面についたまま、飛び立つことはできません。


「羽根で空気を感じるんだ。飛び立つときは風を抱きしめるように。飛んでからは風に乗るように」


 先生は必死に羽ばたいている子供達の周りを歩きながら、声をかけていきます。

 すると、クークの足が地面を離れました。


「すごい! すごい! 僕、飛んでる!」 クークが叫びます。彼の翼はパタパタと頼りなげな音を立てながら、体を持ち上げています。ほんのちょっぴりですが、確かに空を飛んでいます。先生はとても嬉しそうに言いました。


「偉いぞ! その調子。さあ、みんなもクークのあとに続くんだ!」


 それからしばらくして、ララも飛びました。


「わかった。こうやるのね!」ララは要領を飲み込んだようで、先に飛んでいたクークをさっと追い抜かして、もっと高くに飛び上がりました。


 それからクークとララは互いに競い合って、上達し、飛べる高さを伸ばしていきました。

 ポッツとルーは二羽を見上げては、次こそは自分もと頑張ります。けれど、結局、その日はどちらも飛ぶことはできぬまま、陽が暮れてしまいました。


「これまで一番遅かった子でも、一週間もすれば飛べるようになった。だから、心配しなくてもいいんだよ。飛べないカモメなんていないんだから」


 みんなが帰る時間になって、先生はポッツとルーに言いました。

 ポッツとルーは頷くと、むっつりと押し黙ったまま、先生が次にクークとララを褒めるのを聞いていました。




 ◇◇◇





 帰り道、四羽は二組に別れて歩いていました。前で明るく話しているのは、クークとララです。その後ろを、しょんぼり俯いて、ポッツとルーが付いていきます。


「はあ」ポッツが大きな溜息を吐きました。「僕が今日飛べなかったって言ったら、お母さんとお父さん、ガッカリするだろうなあ」

「そうだね」ルーは答えました。

「クークとララはできたのに、どうして僕にはできないんだって言うはずだよ」ポッツは言います。「そんなのこっちがききたいのにさ」

 ルーは友達を励ますように言いました。「でも、明日は飛べるかもしれないよ」

 ルーの言葉にポッツの気分は少し明るくなったようでした。「うん、きっと、そうだ!」

 ルーはポッツに笑いかけると、前を行く二羽に訊ねました。「ねぇねぇ、飛ぶってどんな感じなの?」

 クークとララは嬉しそうに振り返ると、声を揃えて言いました。「それはね」「それはね」


 二人は自分達が飛んだときのことをできる限り分かりやすく、ポッツとルーに教えてくれました。そうして、四羽はまた一緒になって、いつものように楽しくおしゃべりしながら帰っていきました。




 ◇◇◇




 ルーが巣に戻ると、お母さんとお父さんが待っていました。


「おかえり。飛行訓練はどうだった?」お母さんが言います。

「うん。僕、飛べなかった」

「あら、そうなの」

「飛べた子はいたのかい?」お父さんがききます。

「いたよ。クークとララ」

「ふん」ルーの答えに、お父さんは少し不機嫌になりました。「その子達に早く追い付くんだぞ。いいな?」

「わかった。明日、頑張ってみる」


 お父さんはまだ何かを言いたそうでしたが、お母さんの声が間に割り込んできました。「さあさ、ご飯にしましょう。お父さんとお母さんがとってきた魚がありますよ――」


 その晩、両親が寝静まった後、ルーは一人で起きていました。

 波の音を聞きながら、夜空の星を見上げていると、ふとあることに気が付きます。


「そういえば、走り方を教えてもらうのを忘れてた」

「ルー、あなた何か言った?」お母さんが眠たげな声で言います。

「ううん。なんでもない」ルーは答えて、目を閉じました。


 飛行訓練はそれからずっと続きました。


 次の日もルーとポッツは飛べませんでした。


 その次の日も、ルーとポッツは飛べませんでした。


 その次の日も、ルーとポッツは飛べませんでした。


 その次の日も、ルーとポッツは飛べませんでした。


 そして、その次の日、ポッツは飛びました。


 ルーだけが飛べませんでした。


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