対峙
達彦と柚木には知る由もなかったが、2人がヘリの編隊を見た同日夜、横浜および桜木町の周辺地域に対し上空からの機銃掃射と爆撃が行われた。感染者が夜間に行動することは自衛隊や在日米軍にとってはすでに周知の事実だった。いまだ建物内に隠れているであろう生存者達を傷付けることを極力避けるため、感染者が路上に姿を現す夜間を狙って攻撃を開始したのだ。関東近郊の自衛隊駐屯地から、残存する兵力と装備が総動員された。
しかし、達彦が考えた通り組織が全くの無傷ではなかったのも事実だ。防衛省はもちろん、陸・海・空自それぞれの幕僚幹部との接触も災害発生とほぼ同時に途絶え、本来動員出来る人員も半数近く失ってしまった。各自衛隊は独自の判断において作戦を展開せねばならなくなった。よって先の攻撃はまるで連携を伴わない、小規模な火災を点々と起こすだけの散発的なものに終わってしまったのだ。東京都内各所にも同様の攻撃がなされたが、横浜と同様の結果しか得られなかった。
この点に関しては、加奈子を探す達彦にとっては幸運だったといえる。
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1月の夜、冷え込みはかなり厳しい。外にいる感染者は平気なのだろうか。いっそのこと全員凍死でもしてくれればありがたいのだが。達彦は白い息を吐きながら腕時計を確認する。まだ2時を回ったばかりで、夜明けまではほど遠い。
1時間ほど前、新たなヘリの編隊が頭上を通過して行った。散発的な爆撃音はいまでも聞こえている。達彦はちらりと柚木を見た。柚木は毛布に全身を包み、ソファに背を預けじっと目を閉じ細かく震えていた。眉間には何かに耐えているかのような苦悶の皺ができ、荒い呼吸に合わせぴくぴくと動いている。
「柚木さん?どうした・・・?」
しかし柚木からの返事はない。
「おい、柚木さん。どうしたんだ?」
今度は肩を掴み、揺さぶりながら声をかける。しかし柚木は目を閉じたまま震え続け、答える様子はない。慌てて額に手を当てた。すごい熱だ。
『調子が悪いのならすぐに言えばよかったのに!』
そういえば最初にヘリを見たときから柚木はずっと黙ったままだった。溜まった疲れが出たのだろうと、そのときは勝手に思い込んでいたのだ。これは自分のミスだと思った。
急いで柚木の身体をソファに横たわらせた。毛布と、達彦が自分で使っていた薄い羽毛布団をかぶせる。柚木の身体全体が熱を帯び熱い。
達彦はバックパックを引き寄せ、中から救急セットを取り出した。確か解熱剤が入っていたはずだが、救急セットからは胃腸薬しか出てこなかった。
ーーー『こんなときに例のインフルエンザなんかにかかったら最悪だな』ーーー
森屋の言葉が頭をよぎる。
達彦は室内を静かに移動し、辺りを手当たり次第に探した。だが結局、求める解熱剤は見つからなかった。
『探しに出るしかないか・・・』
玄関ドアと、腕時計を交互に見ながら思う。時刻は午前3時。せめて夜明けまで待つべきだろうが、柚木の状態を見ているとそうも言っていられない気がする。少しでも早く解熱剤を見つけなければならない。
達彦は窓から外の様子を見た。数人の感染者が歩き回り、死体を見つけては齧りついている。目視できる範囲で言えば、感染者の数は多くはない。多くはないが・・・・ドラッグストアまで行くのは自殺行為だ、止めておいた方がいい。もっと近い場所、201号室と203号室に行くことなら可能かもしれない。
バックパックから包丁を取り出し(お守り程度だと思っていたのに、早くも実戦使用だ)、右手にしっかりと握りドアへと近寄る。魚眼レンズから覗く通路は暗く、はっきりとは確認出来ないが、感染者はいない雰囲気だ。
『よし・・・』
意を決し、達彦はチェーンを外し、すでに汗ばみ始めている手をノブにかけた。
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ドアを閉め、背中を預けながらゆっくりと姿勢を落とす。通路の左右に目を走らせながら鍵を掛けた。月明かりしか光源がない通路は、奥まるにつれ漆黒の闇となり、まるで永遠に続いているかのように感じる。
達彦は鍵を掛けながら両隣の住人を思い出そうとした。203号室の住人はすぐに思い出せた。その部屋には小さい子供がいる3人家族が住んでいた。晴れた休日には家族そろって散歩に出かける姿を何度か見かけたことがある。201号室は・・・思い出せない。このアパートに越して来た日に挨拶をして以来、顔を見ていない気がする。確か同い年くらいの女性だったはずだが・・・。
姿を晒さないよう、ほとんど匍匐前進のような体勢で201号室へと近寄る。どちらの部屋から探すかなど、さして重要ではないと思った。
鍵が掛かっていた場合はどうするか?そのときはベランダから行くしかないだろう。あちら側は駐車場になっているため自身の身体を晒す危険があるが、他に手はない。あいにく自分には針金1本で鍵を開けるなんて芸当は持ち合わせていない・・・。不安を感じながらノブを回す。意外にも、ドアは苦労することなく開いた。達彦は素早く室内へと身体を滑り込ませた。
結論から言うと、201号室では解熱剤は見つからなかった。キッチンの流し台に積み上げられた未洗浄の食器が放つ異臭のおかげで感染者の存在を覚悟したが、幸いこちらも問題なく済ませることが出来た。夜が明けたらもう一度見に来るのもいい、何か役立つ物が見つかるかもしれない。達彦はそう考え、201号室をあとにした。
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血の生臭い臭いと、それにアクセントを加えるように漂う糞尿のツンとくる刺激臭。203号室で達彦を出迎えたのは、気も遠くなりそうな臭気だった。とても鼻で息が出来ない。
203号室の鍵も掛かってはいなかった。いや、厳密に言えば鍵は掛かっていたのだが、ドアを開けた状態で鍵を掛けていたため出っ張ったボルトが邪魔をしてドアがきちんと閉まっていなかったのだ。何故かという理由はともかく、簡単に室内へと入ることが出来た。
達彦はいまダイニングから洋室へと入るドアを抜けたところにいる。暗いながらもうっすらと伺える室内には大小2つの死体。母親と子供(まだ4歳ほどだ)の死体だ。不自然な方向へ曲がる腕や足と、胸骨から下腹部にかけてセーターごと引き裂かれたギザギザの裂け目が見える。
母親の死体の手に握られていた物が、月明かりに照らされ光った。達彦は腰をかがめて、その光った物をよく見ようと目を凝らした。それはスプーンだった。ヒーローキャラクターが描かれた、4歳の男児が好みそうなスプーン。
そのとき背後からフローリングの軋む音が聞こえた。同時にいままでより濃密な、毛穴から入って来そうなほど身体に絡みつく悪臭が鼻をつく。弾かれるように立ち上がり振り返った。次の瞬間、達彦は自身の両肩をものすごい力で押さえつけられた。そのまま、背後の壁に背中からぶつかる。
『っ!!しまった!!』
男の感染者だ。夫であり、父親であった男の。
達彦は何とか振りほどこうとあがいた。左手が男の喉元を掴み、これ以上の接近を拒むことに成功したが、右手が動かない。視線を下げると、右手で握っていた包丁が柄の部分まで男の左わき腹に刺さっているのが見えた。
『!!!?』
刺した覚えなどなかった。達彦は強張る右手の指をどうにか包丁の柄から引き剥がすと、男の喉元へと持っていった。そのまま力を込めて押し返そうと試みる。しかし男は達彦の肩に指を食い込ませ、相変わらずの勢いで迫ってくる。
『コイツ・・・包丁が刺さってるってのに・・・』
喉元から手を離す。押し返す達彦の力が弱まったのを見逃さず、男は素早く顔を近づけ噛み付こうとしたが、達彦は上半身を右に動かし何とか避けた。男の口からは、耐え難い臭いがした。
達彦はもう一度包丁の柄を握り、深く刺さったその刃を今度は激しく何度もひねった。大量に流れ出る血に右手が沈むのが分かったが、夢中で刃をひねり続ける。その頃にはほぼ仰向けの状態になっており、男が全身の体重をもって達彦に押しかかろうとしていた。
『音・・・音は駄目だ・・・外に聞こえちまう・・・』
すでに一度、壁にぶつかり音を立てている。外にいる連中がそれを聞き逃したのは単に運がよかっただけだ。2回目の幸運は望めない。
達彦の頭の中で、何かがプツリと切れた。理性なのか、それとも数日前までは家族を持ち、よき父親だったであろうこの目の前の男を不憫に思う気持ちなのかは分からないが・・・。
それからはあっという間だった。血でぬるぬると滑る包丁の柄をしっかりと握り直し、わき腹から一気に引き抜いた。痛みを感じたのか、男が低く唸る。達彦はそのまま包丁を男の首のうしろ、うなじの辺りに思い切りねじ込んだ。ゆっくり、ゆっくりと刃が沈んでいく。そして、とうとう男の喉仏から刃の切っ先が飛び出してきた。そのときには、男はもう死んでいた。