凶報 4
月が雲の切れ目から束の間顔を覗かせ、その頼りない光が路上に蠢く感染者達の輪郭を浮かび上がらせた。彼等はふらふらと、酔っ払いのようなおぼつかない足取りで装甲車の傍を通り過ぎて行く。時折呻き声は聞こえてくるが、それ以外は静かなものだ。今夜は悲鳴も咆哮も無い。
緒方はそれまで覗き込んでいた操縦手窓から顔を離し、溜め息と共にシートへ身体を預けた。それから思い出したようにポンチョを手に取り、無造作に丸め窓を塞ぐ。覗き穴程度の大きさしかない窓にはそれだけで充分だった。申し訳程度に差し込んでいた月灯りも遮断され、車内は闇に包まれた。
「この匂いにはいつまで経っても慣れないわ、せめて煙草でも吸えれば気も紛れるんだけど」
ようやく暗闇に目が慣れてきた頃、堤が囁くように言った。感染者の出現に合わせて、周囲にはあの匂いが充満していた。血と、糞尿と、腐肉の匂いだ。それらは装甲鋼板をすり抜けるように車内に入り込み、空間を満たしていく。
「夜が明けたら存分に吸ってくれ、きっと旨いぞ。今はほんの些細な光でも外に洩らすわけにはいかないんだ。煙草の匂いでバレる可能性もある」
「そうかしら。あいつら自体があんなに臭いのに?」
そう言って堤がもぞもぞと動く。上着のポケットから何かを取り出したようだ。続いて、紙を擦るような微かな音。
「何だ?それは」
「歯磨きガムよ。替わりにはなるでしょ。あなたもどう?」
差し出されたガムを受け取り、緒方も口に含む。しばしの沈黙。その沈黙を破ったのは堤だった。
「何で香川君にあんな話を?」
「別に。大した理由は無い。あいつが『俺が皆を守らなきゃ』みたいな顔してたからな、気にくわなかっただけだ」
「それだけ?」
今度の沈黙は先ほどよりも長かった。心の内にある思い、それを口にする為に必要な言葉を抜き出し、枝葉を切り落とす。それが出来る程度の長い沈黙。その間も堤は急かすでも促すでもなく黙ってガムを噛み続けた。やがて緒方が口を開いた。
「俺は、見捨てちまったからな…カミさんと息子を。それも、最初の晩にだ」
緒方がこちらに視線を向ける気配がした。堤は緒方の腕に手を添える。続けて、と。
「東部方面隊、東部方面混成団、混成団本部第31普通科連隊…横須賀にある武山駐屯地が、俺の居場所だった。あの晩、最初の感染者の群れが駐屯地に押し寄せた時に、俺は自宅に連絡を入れた。カミさんは何が起こっているのかまるで分かっていないようだったが、これだけは強く訴えてたよ。帰って来てほしいって。私と息子の傍にいてほしいってな。あの瞬間に、俺は自宅へ戻るべきだったのかもしれない。旦那として、父親として、助けに向かうべきだったのかもしれない。だが、そうしなかった。自分の役目を放棄するわけにはいかなかった。国の為、国民の為、部下の為…なまじ自衛官である事に誇りがあったからな、思い込むのは簡単だったよ。俺はカミさんに後で必ず迎えに行くとだけ言って電話を切った。それが最後だ。最初の夜が明け、惨状を目の当たりにした時、2人の生存は絶望的だと思った。どう表現しても良いが、とにかく諦めてしまったんだ。そこでまた俺は機会を逃した。一度諦めたらもう戻れなかったよ…1日また1日と時間が経つにつれて、諦めは確信に変わった。もしかしたら、なんて微塵も思わない。俺は任務に逃げる事しか出来なくなってた。自衛官である事だけが救いだった。ところが…」
くっくっと、緒方は喉を鳴らし小さく笑う。
「肝心の自衛隊は組織崩壊…事態は改善するどころか悪化の一途。キャンプの設営、運営を行った一部隊員を除いて大半は死亡したか武装したまま離反。略奪集団に成り下がった奴等も出てくる始末だ。笑っちまう。どんだけ大義を掲げてようが、自衛官も所詮人間だった。そう…所詮人間。気付くのが遅すぎた…俺は自衛官である前に旦那で父親だったんだ。こんな簡単な事にも気付けなかった。あいつは俺に助けを求めていたのに」
声を殺したままひとしきり笑うと、緒方は押し黙ってしまった。もしかしたら泣いているのではないかと堤は思ったが、どうやらそうではないようだ。気持ちを静めようとしているのか、ゆっくりと深く呼吸する音が聞こえてくる。
「あいつには…香川には最後までたどり着いてもらいたい。どんな結果であれ、見たものを受け入れてからじゃなきゃ、あいつはきっと先には進めない。その為なら、いくらでも協力してやるさ。仲間だからな」
仲間だから…噛み締めるようにその言葉を口にした緒方を見て、堤はそれだけで充分だと考える事にした。達彦の手助けをする事で、自分で自分を許したい…もちろんそういう気持ちも無いとは言えないだろうが、それは結果だ。緒方の望むようにすれば良いと思う。こればかりは緒方本人でなければ解決出来ない問題だろうから。もっとも、堤としては自衛官としての緒方が居たからこそ浮島からこっち皆が生き残ってこられたと思っているのだけれど。
「そうね、仲間だもんね」
そういう事なら、自分も話さなければならないだろう。堤はそっと姿勢を正した。一瞬、浮島で向けられた怪訝そうな視線の数々を思い浮かべる。当然だ、こんな話を聞いて気味悪がらないわけが無いではないか。だがもう避けられない。避けてはいけない。緒方にはきちんと伝えるべきだ。
「じゃあ次は私の番ね。大して面白い話じゃないけど、聞いてもらえる?」
堤は一回だけ深呼吸をし、話し始めた。
・
「そろそろ良いぞ。もう食える」
翌朝、昨日別れ際に見せたものと同様の笑顔で後部ハッチを開けて達彦と柚木を叩き起こした緒方は、小型ストーブで湯を沸かし朝食の準備をした。先ほどから緒方と達彦は沸騰した湯の中で缶詰を温めていたのだ。湯の中では大小2つづつ、計4つの濃緑色に塗られた缶詰が揺れている。『カンメシ』と呼ばれている自衛隊の糧食らしいが、外見からはあまり旨そうな内容を想像出来ない。
堤と柚木は朝食の前に身体を拭きたいと、今は後部兵員室に籠っている。
「白飯としいたけ飯、どっちが良い?気合い入れる為にも、しっかり食っとけよ」
正直どちらでも構わないのだが、せっかくだと達彦はしいたけ飯を受け取った。副食として緒方が寄越したのは牛肉の野菜煮だそうだ。旨いらしい。
「聞いたぞ、予防接種の事。堤から」
全く予想していなかった言葉が投げかけられた為、思わず缶詰を取り落としそうになった。顔を上げ緒方を見る。緒方は缶切りで缶詰の蓋を開けようとしているところだった。その様子はひどくのんびりとしていて、緊張感などは感じない。達彦は次の言葉を待った。
「今すぐ堤を排除しよう、とか言い出すかと思ったか?馬鹿言え。むしろ逆だよ逆。浮島まで堤を無事連れて来たお前と、浮島襲撃であいつを守った俺自身を褒めてやりたいくらいだ。こっから先、何が何でも堤を守る必要があるぞ、俺達は」
予防接種を受けたにも関わらず、例の感染者達のように変化しなかった堤。日吉のアパートで本人からその話を聞いた時は、何故かという問題よりも、『今後変化する可能性があるのか』を考える方が重要だった。多くの人間が集まるキャンプを目指していた自分達にとっては、何よりまずクリアにしなければならない問題だったし、事実堤本人も自身を『爆弾』だと言った。あれから浮島の壊滅と、同行者の増加などでこの件について考える時間が無かったが、堤が緒方に話したのであれば、一度じっくりと今後の事を確認すべきかもしれない。
「俺は専門家じゃないから、詳しい事は分からない。分からないが、これだけは言える。堤にはこの事態を解決に導ける可能性がある。そのテの研究機関が生きてるかどうか期待は出来ないが、品川埠頭キャンプに入れば何か情報が聞けるかもしれん。ここまではゆうべのうちに堤と話した事だ。今頃73式の中でも、同じ話を柚木にもしてるだろう」
「それで…堤さんは納得したんですか?」
「あぁ、自分に出来る事があればと言ってた」
娘の死、守り通せなかった罪悪感。それらを経ての結論である事も聞いていた。だがこれは自分の口から言うべき事ではないような気がして、緒方は口をつぐむ。
「それなら、まずは堤さんをキャンプに連れて行きましょう。今日中には到着出来るだろうし」
こうなったら、加奈子の自宅を調べる事は諦めるしかない。残念ではあるが、この災害全体に関わる問題となれば話は別だ。達彦は自分でも驚くくらい冷静に口にしていた。昨日のような、心を乱されるような感覚は顕われなかった。
「それなんだけどな。これも堤と話したんだが、予定通りお前の恋人の家は調べに向かうぞ。堤は73式で柚木とお留守番だけどな。だからマンションへの侵入は俺とお前2人でやる。どうする?やるか?俺と堤がしてやれるのは提案までだ。決めるのはお前だよ。一応言っておくが、やるんならとことん付き合うぞ俺は」
そう言って緒方は白飯を頬張る。ずいぶん軽く言ってくれてる気もするが、一瞬前まで達彦に向けられていた視線は昨日のそれと同じだった。『本音を言え』…そう言っていた。
確かに、一度キャンプへ堤を送り届けた後あらためて加奈子の自宅へ向かう方法が一番堅実だ。だが、浮島でもそうだったように、収容した人間を再度外に出してくれるだろうか?それも装甲車に乗った状態でだ。正直、期待出来そうにない。だったら…。
「はい、やります。調べさせてください」
遠慮な無しだ。とことん付き合うって言うなら、それこそとことん付き合ってもらおう。
「よし、じゃあ食え。言ったろ?気合いだ気合い。堤と柚木の飯が済み次第、すぐに出発するぞ」