発生 3
キャンディ1袋、シリアルバー3本、チョコレート4箱。2人が食料として見つけたのはこれだけだった。人のデスクを勝手に漁るのは多少なりとも罪悪感を感じたが、いまは言わば非常事態で、どんな物であれ口にする食料が必要だ。彼らには大目に見てもらうしかない(明日の朝、いつも通り出勤する社員がいるとは思えないが)。
ひと通り探し終えたはずだが、薄暗い室内での探索だったので見落とした食料がまだあるかもしれない。達彦は再び各デスクを回り始めた。加奈子を探しに行くとはいえ、このビルから出ても安全だと思えるタイミングが来るまではここで待つしかない。その為には少しでも多く食料は見つけたい。
柚木が蛍光灯を点けたらどうかと提案したが、達彦は窓の外に視線を向けながらそれをやわらかく却下した。外をうろついている例の暴徒達が、一気に明るくなったこの窓を見たらどう思うだろう?ここに隠れ潜んでいる自分達を襲いに来るだろうか?確証はないが、試すつもりもない。
そのとき、デスクの下にある物が達彦の目に留まった。女性用のサンダルだった。せめて勤務中は楽な格好でと、女性社員が持ち込んでいた物だろう。
「柚木さん」
呼びかけられた柚木は動きを止め、上半身をデスクに屈めた姿勢のまま振り向いた。
「サンダル見つけたよ。ヒールのある靴じゃ動きづらいだろうし、履き替えたら?まぁ・・・柚木さんの好みじゃないかもだけどね」
努めて明るく、軽口を言うように達彦は笑いかけた。その笑みに、柚木もまた微笑んで返す。まだ本当に笑える心境ではないだろうが、ここに逃げ込んできて以来始めての笑顔だ。いまは、これで十分だ。
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結局あれ以降食料は見つからなかった。2人は再び喫煙室に戻り、いま達彦は窓から外の様子を見ていた。柚木は自分のコートにくるまり、眠っている。
窓から見える光景は、達彦の心を締め付けた。柚木がこれを見なくて良かった。いずれ嫌でも目にするのかもしれないが、出来れば少しでもその瞬間を先延ばしにしたい。
眼下の通りには、事故を起こした結果炎上した数台の車と、うろうろと動き回る数十人の暴徒達がいた。そしてその暴徒達の数を遥かに上回る死体・・・。暴徒達の中には、死体の腕なり足なりを持ち、いまは生命という重みを失ったその身体をずるずると引きずっている者もいる。暴徒の1人、スーツを着た小太りの中年男性の姿が達彦の目に留まった。男はかつて女子高生だった死体(血まみれの身体にかろうじて残ったぼろぼろのセーラー服の名残が、そう判断する唯一の証拠)を引きずっている。15メートルほど歩いたのち、男は膝をついて路上に座り込んだ。そして死体の太ももに齧りつき、食べ始めた。
中年男が女子高生を食べる・・・柳沢辺りなら喜んで飛びつきそうなジョークだが、これは違う。本当に食べている。肉に歯を立て、毟るように引きちぎり、食べているのだ。
達彦は喉の奥からこみ上げてくる吐き気に耐えるため、視線を外した。窓に背を向け、ゆっくりと、深く息を吸う。
『あれじゃゾンビだろ・・・映画そっくりじゃないか』
とっさに思い付いた物がゾンビという安直さに、達彦は苦笑した。だが他に良い例えが思い浮かばない。歩く死体とか?馬鹿言え、どっちにしてもまともじゃないぞ。苦笑が治まりそうにない。すぐ横で寝入っている柚木を起こしてしまうかもしれないが、止められなかった。
しばらくすると、達彦の頬を涙が伝った。達彦は泣いていた。冷たい外気に晒されたままの死体を、暴徒と化した人々を、柳沢を、同僚を、新倉を、友人を、両親と弟を、加奈子と加奈子の家族を思って泣いた。
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誰かが肩を揺すっている。名前を呼んでいる。加奈子の声じゃない・・・彼女は・・・いま。
「香川さん!香川さん!!」
達彦はゆっくりと目を開けた。途端にまぶしいくらいの光が飛び込んでくる。達彦はその刺激に目を細めながら腕時計を見た。午前8時を少し回ったところだった。太陽はすでに昇り、その光は喫煙室に、そしてその向こうのオフィスに明るく差し込んでいる。
もう一度自分を呼ぶ声が聞こえ、達彦は柚木へと顔を向けた。柚木は窓から外を見ていた。
その瞬間、達彦の脳裏に昨夜の光景が蘇る。とうとう見てしまった。きっとひどいショックを受けたであろう柚木へと掛ける言葉を探すが、上手く頭が働かない。
「香川さん!見てください!」
しかし、窓際でそう言って振り返った柚木には取り乱したような雰囲気はなく、むしろ彼女の声には何か喜ばしいことを発見したような響きがある。達彦は好奇心に急かされるように立ち上がり、柚木の隣へと移動した。
2人の眼下にある通りは、昨夜と同様、事故車と死体で溢れていた。それは変わらない(女子高生の残骸も、ちゃんと同じ場所にあった)。しかし、あれほどいた暴徒達の姿が見えなくなっていた。変わりにいま通りを歩いているのは、自分達と同じ普通の人間、あの騒ぎに巻き込まれずに夜を明かした者達だった。見える範囲では人数は多くはないが、まだまともな人間はいるのだ。彼らは探し物をするようにきょろきょろと頭を動かしながら歩いている。
まともな人間を見たこと、そして暴徒の姿がないことに歓喜に近い感情を覚えた。外に出て彼らと話したいという思いが達彦の落ち着きをなくさせた。
「なぁ、いま外に出ても大丈夫だと思う?外の・・・彼らだけど、安全かな?柚木さんはどう思う?」
達彦は柚木に問いかけた。睡眠を取ったことが良かったのか、柚木の表情はしっかりしており、きちんと考えることが出来るくらい回復したようだ。
「大丈夫・・・だと思います。多分」
視線を窓の外に向けたまま、柚木は答えた。
「降りて、話を聞いてみましょう」
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10分後、2人は喫煙室から直接出ることが出来る外側非常階段を使い外に出た。4階分を降りるのは空腹の身には少々辛いが、昨夜柚木がこのビルに逃げ込んだ際、肩を掴んで追ってきた暴徒がもしかしたらビル内に入り込んでいるかもしれない。そう考えた結果、非常階段を使おうという結論になったのだ。
久しぶりに嗅ぐ外気は、ゴムやプラスチックが燃える嫌な臭いと、血の生臭い臭いに満ちていた。1階まで降りきり、鉄製の扉に手をかけながら達彦は柚木を振り返る。
「これから通りに出るけど、ひどいことになってるのは確実だ。大丈夫?」
死体を食べる場面を目の前で見ることはなくても、その跡は確実に残っている。達彦ですら、なるべくなら見たくはない光景だ。柚木には死体という言葉を使わずに伝えたつもりだった。
「は・・・はい・・・」
柚木の呼吸が荒い。白い息とともに短く答える。
「通りに出たら周りをよく見て、少しでも危険だと思ったらすぐにオフィスへ戻る。いいね?離れないようにお互い気を付けよう」
念を押し、達彦は思い切って扉を開けた。