凶報 3
「よかったのか?」
回収部隊と阿部達を乗せたヘリの姿ははすでに見えなくなっている。緒方はヘリの去った方向を見つめたまま、達彦へ視線を向ける事なく言った。緒方の隣に立つ達彦も、寄り添って並ぶ柚木と堤も、皆一様に空を見上げたままだ。
「はい…とは言いづらいですね、正直」
達彦は緒方へと苦笑を向ける。何故だろうか、緒方や堤、柚木の前で見栄を張りたくなかった。少なくとも今は。
乗り込める人数に限りがあると知った時、それまで感じていた高揚が急速に引いた。加奈子の足取りを追えるかもという期待は、まるで水中に沈んでいく物体を見ているように朧げになり、どれだけ腕を伸ばして水の中を掻き回そうが掴めない。そんな消失感。代わりに浮き上がってきたのは苛立ち…もっと悪く言えば怒りだった。そして、これが達彦自身一番信じられない事だが、怒りの対象は自衛隊員でも、こんな理不尽な状況を作りだした感染者でもなく、仲間だった。『この人達さえ居なければ』…怒りは一瞬のものだったはずだ。直後には冷静になれた。日没を控えた今、小さい子供を連れてキャンプ外を移動する危険は避けなければならず、先にキャンプへ向かえる手段が目の前にあるのなら彼らを優先すべきだ。その判断は間違っていなかったはず。ただし…と達彦は思う。ただし、こう判断をしたのは後ろめたさを誤魔化す為だ。あの判断は、一晩とはいえ危機的状況を共に生き延びた仲間を邪魔者と考えてしまった自分への罰だった。
「意外だな。お前の事だから、あれで良かったと言い切るかと思ったけどな」
緒方が後頭部を軽く掻きながら言った。視線はもう空から逸れ、今は達彦の表情を伺うようにじっと見つめていた。その視線に晒されていると、何もかも話してしまいたくなる。だが、達彦が口を開く前に、緒方が言葉を続けた。
「ま、しょうがねぇわな。全員乗れないなら、あの場ではあぁするしかなかっただろう。結果的には最良の判断だったんじゃないか?それよりも…だ」
73式装甲車に近寄り、緒方がその後部ハッチを開いた。この人はどこまで分かっているのか…ことごとく口を開くタイミングを外されてしまった達彦は、所在無さげに立ちつくす。回収部隊が置いて行った物資を兵員室に積み込む緒方の背中が、『話さなくていい』と伝えているように感じる。もちろん、達彦の勝手な思い込みかもしれず、今話さなければ後になればなるほど惨めになるのも分かっている。やや考えて、達彦は地面から缶詰の入った段ボール箱を持ち上げた。1つ、また1つと積み込んでいく達彦を横目で見やり、緒方もまた何も言わなかった。
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「私達が自力で品川埠頭キャンプに向かうのは分かったけど、とりあえず今夜はどうするの?今から寝る場所を探すのも難しそうじゃない?」
積み終えた物資の箱をぽんと叩き、堤が振り返る。ガソリンが入っていると思しきドラム缶は、『ディーゼルエンジンの73式には荷物になるだけ』という緒方の一言で放置が決まった。
「今夜は車中で一泊が最善だと思う。ひとまず、このトラックターミナルからは離れましょう。すぐそばにターミナルの管理ビルもあるし、中からこの装甲車と俺達が見られていたら日没と同時に囲まれてしまう。この近くに中央海浜公園があるから、そこに停車して休もう。そこなら拓けていて奴等が身を隠す建物も無い、移動中の姿を見られる危険は少ないはずだ。どうでしょう緒方さん」
「そうだな…そうするか。いや、一つ聞きたい。お前の恋人、家はこの近くか?」
ある程度予想していた質問だった。むしろ、達彦自身最初に考えた選択肢だ。でも駄目だ。あの場所は危険過ぎる。
「日没前に移動は可能です。でも止めた方が良い。加奈子の自宅は団地です、マンションが密集してる。感染者の要塞みたいな所ですよ。安全なはずがない」
「分かった。でも、良いのか?それで?」
まただ。また緒方は探るような視線を達彦に向けている。
「それは…」
行けるのなら行きたい。そんな事は当然だ。あの混乱の中で加奈子が帰宅出来たとは思えないが、万が一という可能性もある。帰宅した後、何処かへ避難したとしても何かしらの痕跡が残っているかもしれない。例えば置き手紙とか…。見に行きたい…考えれば考えるほど、欲求が高まっていく。
「でも…」
でも。そうだ、でもだ。自分は1人じゃない。行動を共にする仲間が居るのだ。自分の目的の為に仲間を危険な場所へ連れて行くわけにはいかない。加奈子探しと、安全な場所探しを両立していたキャンプへの移動とは違う。これは完全に我欲だ。
なら1人で行くか?そう考えかけて、思い留まる。柚木との約束はどうなる?『もう二度と置いて行くなんて言わない』そう約束したのではなかったか?最後まで付き合ってもらうんだろう?
達彦は一瞬だけ柚木の顔を見た。柚木はただ黙って達彦を見つめ返している。勤め先のビルに逃げ込んで来たあの夜に見た、弱々しい表情ではなく、思いを秘めた表情。付いて行く…浮島で吐き出した決意をそのまま表に出した表情。それが、余計に達彦の判断を惑わせる。達彦は大きく息を吐いた。そして、緒方と堤と、柚木を見つめながら言った。
「俺は、加奈子の自宅を調べたい…あいつは居ないかもしれない、いや、もしかしたら見たくないものを見つけてしまうかもしれない…それでも、加奈子の自宅を調べたい。だから…一緒に来てもらえないかな?柚木さん。緒方さんと堤さんも。お願いします」
「最初っからそう言えば良いんだよ。俺達はお前の保護対象じゃねぇんだから。覚えとけよ?俺達は対等だ。対等に助け合うし、対等に意見も言う。今日の昼に、このグループはしばらく俺とお前で引っ張るって話をしたろ?あれを変に勘違いさせたのなら悪かった。単に頼りにしてるって話だけだったんだが、深読みさせちまったかな」
達彦がかぶりを振る。
「お前、何で居残り組に俺達を選んだ?まぁ子供連れは残せないって真っ当な理由もあるだろうが、それ以外にもあるんじゃないか?俺達3人に思う所がさ。もし俺が考えてる通りなら、大変光栄な事だと思うがね。嬉しい事だよ」
緒方が達彦の肩を叩く。
「よし。お前はその自宅を調べたいと思ってる。分かった、協力しよう。ただし、意見も言わせてもらうからな」
そう言って周囲を見渡した。達彦もそれに倣う。ヘリを見送った頃に比べ薄暗い。少し話し過ぎた。自分の我が儘で時間を無駄にしてしまった…そう思いかけ、止めた。苦笑しか出ない。
「まず、今日はもう無理だ。今夜はさっきお前が言った通り車中で過ごそう。自宅を調べに向かうのは明日だ。午前中には動くぞ。もちろん、どんな危険も顧みずってわけにはいかない。マンション周辺で様子を見て、明らかに危険なら引き返す。いいか?俺達4人が互いにフォローしきれない状況ならこの作戦は無しだ」
「分かりました。それでお願いします。柚木さんも、堤さんも、それで頼みます」
達彦が頭を下げる。柚木はそっと達彦に歩み寄り手を握ると、顔を上げた達彦へ微笑みかけた。その隣では堤が例の仕草。そんな2人を見て、達彦はやっと緒方の言った事がすとんと収まった気がした。
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中央海浜公園を真っ直ぐ分断するように走る道路、その路肩に装甲車を停めた。続いてエンジンも停止する。ガンポートから見える路上には片手で数えられる程度のタクシーとトラック。それだけだった。もし車両内に感染者を発見したらすみやかに排除する。その予定だったが、どうやら杞憂だったようだ。達彦は手にしていたSIG-P220をベルトに差し込むと、装甲車から飛び降りた。そのまま車体後部に向かい、ハッチを開ける。柚木も降車し、達彦の隣に立っている。
「おい、香川」
緒方の声に応え、頭上を仰ぐ。緒方は車両上面に立ち2人を見下ろしていた。何が面白いのかにやりと口元を歪めている。この人は本当にいろんな顔をする。そしてこのテの顔を見せる時は大抵良くない事を考えている(もしくは言う)時だった。
「今夜は特別だぞ。後部兵員室の使用を許可する。エンジンも切って車内も冷えてくるし、よぉっく暖め合えよな。ただし、13tの73式を揺らすほど気張るなよ?あくまで慎ましく、静かにだ。お前のお手並み拝見だな」
そら来た。達彦は内心溜め息を吐く。今までなら加奈子の事を知っていてデリカシーに欠ける発言だと受け取っただろうが、もう違う。自分達だから交わせるジョークの1つなのだ。緒方はその言動から感じるほど不躾な人間ではない。
「奴等がこの装甲車を揺らし始めたら、その隙を活用させてもらいますよ」
そう言って柚木をちらりと見やる。まさか本気とは思われていないと思うが、それでも心配になった。柚木が少なからず自分に好意を持っている事は知っているし、自分はそれに応えられないと言ってきた。自分と柚木の感情のやり取りを緒方がどこまで知っているのか分からないが、勘ぐっているのは確かだろう。柚木本人を前に、これはあまり良くないジョークだったかもしれない。
「そろそろ奴等が現れる時間ですよ。もう中に入りましょう。明日は忙しくなるかもしれないんだから、ゆっくり休まないと」
「おっと、そうだな。気をつけて過ごせよ?話声くらいなら平気かもしれんが、控えるに越した事は無い。慎重にな。あと、T字ポートは絶対に開けるなよ?外の様子が気になっても絶対に開けるな。頼むぞ」
頷く達彦と柚木に、緒方が軽く敬礼の仕草を見せる。
「お互いの無事を祈る。じゃあな、お休み」
緒方が車内に戻ったのを確認し、達彦と柚木も兵員室へと入った。ハッチが閉まりきる間際、遠くから微かに感染者が上げたと思しき咆哮が聞こえてきた。今夜もまた、彼等の時間がやってきた。