再動 3
「よく揺れる車だな…」
軽く舌打ちし、池内が目を覚ました。子供達はあどけない表情で眠り続けているが、それ以外のメンバーは皆いまの揺れで束の間の睡眠を妨害されたようだ。あと24時間はぶっ通しで眠らなければならないぐらい疲労しているのに、ほんの些細な揺れ1つで起きてしまう…。池内の正面に座っている斎藤が、身体をびくりと痙攣させ小銃を構えそうになったのを見てつい可笑しくなった。だが、そんな池内もびっしょりと汗ばんだ手で小銃を握り締めている。全員気が立っているという事か。
「いまどの辺りなの?」
ハンドルに覆いかぶさるくらい前傾した姿勢でCCVを運転する阿部へ、斎藤が問いかけた。
「まだ横羽線だよ。羽田ランプまではあと少しかな…日が暮れるまでに着けるといいけど」
そう言って阿部が腕時計に目を落とす。時刻は午前11時39分を指していた。
「冗談じゃない、間に合ってもらわないと困る。車中で夜を明かすなんてまっぴらだ」
池内が阿部に絡むように声を荒げた。
「下らない事を言わんでくれ。まったく…前は何をやってるんだ、もう少し早く走れないのか?」
「そうは言ってもね…障害物も多いし。緒方君がそういう邪魔な物を押し広げながら進んでくれてるから、俺達はスムーズに走れてるんですよ」
我が子の傍にいてやる事も出来ず、休む間もなく慣れない軍用車輌を運転し続けている阿部は、精神的にも相当参っているように見えた。斎藤は阿部の子供(女の子だ、名前をまだ聞いていない事にふと気付いた。折りを見て聞いてみよう)を抱く腕に僅かに力を込め、2人のやり取りに加わった。このままだとまた雰囲気が悪くなりそうで怖かった。
「…この騒ぎって、どれくらいの規模で起こってるんですかね…関東だけ?日本だけ?それとも世界中かな…?」
斎藤の言葉に、明らかにホッとした様子で阿部が答えた。ハンドルを握る指、そして肩から力が抜けたのが斎藤には見えた。阿部の背中からは、話題を逸らしてくれた感謝の意すら感じられたほどだ。
「日本中で起こってるのは間違いないと思うよ。多分、何かの病気が拡がったんだ」
「例えば?どんな?」
池内が小馬鹿にしたような笑みを浮かべ言った。
あぁ…まただ…。斎藤は内心溜め息を吐いた。
「それは分からないけど…それなら貴方は何が原因だと?」
「これはテロだよ、テロ。どっかの馬鹿が細菌兵器をばら撒いたのさ、人を狂わせちまう細菌兵器をだ。北かもしれんし、他の国かもしれん。とにかく、日本はテロの標的になっちまった。間違いない」
自信たっぷりだと言わんばかりに、池内はメンバーの顔を見渡し頷く。
「もうすぐ海外から救援が来るさ。アメリカはこの国に軍を置いてるし、なおさら助けに来るはずだと思うね。世界中がこんなになってるなんて、そんなわけあるか」
阿部や斎藤が口を開く前に、いままで沈黙を守っていた和久井が割って入って来た。
「原因はインフルエンザよ…新型の。きっとそう」
皆が和久井を見る。
「浮島キャンプに来る前に聞いた事があるわ。原因は新型インフルエンザとワクチンだって。それが人間の身体に変異を起こしたってね。何でも予防接種を受けた後インフルエンザに感染するとアウトなんだそうよ。確かに私は受けてないわ…この子もそう。貴方達もそうなんでしょ?」
そう言って和久井は、冷笑とも取れる微笑みで唇を歪め一同を見た。まるで予防接種を受けなかった自分を責めるような、自虐的な微笑みだった。
「それは…」
言いかけて、池内が唇を噛む。
「そして、私はいま世界中でこの騒ぎが起こってるとも思ってる。仮に予防接種の話が本当だとして、受けた人間はそれこそ世界中に数え切れないほどいるわ。新型インフルエンザは日本だけの問題じゃなかった、それくらい知ってるでしょ?」
「つまり…?」
斎藤が恐る恐る聞く。和久井はそんな斎藤を一瞥し、それからしっかりと視線を池内へと据えた。
「つまり、貴方が期待している救援は有り得ないって事よ。現実をちゃんと見て考えるのね。世界は急速に終わりに向かってる…いえ、もう終わってるのかも…」
・
第一京浜に入りしばらく走ったところで、緒方が装甲車を停めた。日没までには京浜島に到着出来そうだと判断し、しばらく休憩を取る事にしたのだ。CCVも併せて停車し、一同は助かったとばかりにそれぞれ外に飛び出し、狭い車内で凝り固まった筋肉をほぐそうと身体を動かし始める。
その中で、両腕を思い切り上に伸ばしている柚木の姿が達彦の目に留まった。柚木のコートの右ポケット、そこから昨夜渡したSIG・P220のグリップが覗いている。和久井や斎藤のやんわりとした制止に反し、ずっと持っていると言って聞かなかったのだ。緒方は何も言わなかった。それどころか率先して阿部と池内に89式小銃を配った。2人は今もその小銃を手に、ストレッチに勤しんでいる。
昨夜のトラブルを何とか乗り越えられたのは、少なからず武装していたおかげだ。それは確かだろう。潔く自殺する以外にも使い道を見出だした達彦は、銃を持つ事もやぶさかではないと思うようになっていた。
「ほら、切らしたんだろ?」
古ぼけた雑居ビルの隙間にひっそりと残っていた無傷の自動販売機を襲撃した緒方が、戦利品を溢れるほど抱え戻ってきた。緒方の腕の中には様々な銘柄の煙草があった。
「どれでも好きなの取りな」
愛用の銘柄は無かったが、ありがたい。達彦は礼を言いなるべくタールとニコチンの低い煙草を手に取った。もうそろそろ、この悪癖にもお別れを言うべきだ…そう思いながらも、包装フィルムを破る手は止まらない。
「緒方さんは眠らなくて平気ですか?ずっと運転してくれてますけど」
「自衛官を甘く見ちゃいけないぞ」
人指し指を立て、緒方がニヤリと笑う。こういった表情を見せると、緒方は途端に子供のような雰囲気を出す。間違いなく達彦より歳上のはずなのだが。
「それに、俺以上に上手くアレを転がせる奴がいるか?」
「俺には無理ですね。内輪差も把握しづらいこんなデカぶつ、お断りです。おまけにAT車じゃないでしょ」
戦利品の山を73式装甲車の操縦手席に放り込みながら、ニヤニヤ笑いのまま緒方が頷いた。
「なぁ、気を悪くしないで聞いてもらいたいんだが」
急に笑いを収め、少し取り繕ったような、真面目な表情で緒方が達彦を見た。
「このグループはしばらく…取りあえずは京浜島に着くまでは俺とお前で引っ張った方が良い。もし何か問題が起こった場合はお前を頼りにしたいんだよ。俺達は感染者連中を轢き殺した仲でもあるしな。男性陣なら他に阿部と池内もいるが、2人には子供がいる、いざという時に判断を下すのは難しいと思うんだ。戦力としても、ちょっとばかり心許ないな…」
ここまで言い、緒方は盛大に溜め息を吐いた。
「変な勘繰りはするなよ?別に俺とお前でこのグループを悪く仕切ろうって話じゃないんだ。誰だって我が子は可愛いさ、何としても助けたいと思うだろう。これは仕方ない事だ…良いか悪いかじゃなく、仕方ない事。だがな、そのための判断が仲間の危険を招く可能性もある。それだけは避けたい。だから、俺達なんだ。そのお願いさ。協力しちゃくれないかってね」
そして緒方は、意見を聞きたいとでも言いたげな視線を達彦に向けた。
緒方が言う『何らかの問題』とは、昨夜のように感染者達に襲われる事態を指すのだろうか?もちろん生き残った人間同士のトラブルという話もあるだろうが…いずれにせよ日没までには京浜島に到着するよう動いているし、問題は無さそうなのに。もしかしたら緒方は達彦に京浜島に留まって欲しいと言っているのか…?あんな目に遭った後だ、京浜島キャンプに入ってもこのメンバーは固まって過ごすだろう。だからか…?
「緒方さん、貴方がもし俺に京浜島に留まれと言っているならそれは無理です。さっきも話したでしょう?俺には品川埠頭へ行かなきゃならない理由が…」
「違う違う」
緒方がかぶりを振り達彦の言葉を遮った。
「さっきお前が言った事から繋がる話だ、覚えてるか?餓えが激しくなったらその分凶暴性も増すかもしれん、と」
それと『何らかの問題』がどう結び付くのか…まだ日中だ、日中は生存者の時間のはずだ。
その瞬間、達彦は髪の毛を掻きむしる手を止めハッと顔を上げた。
「まさか、連中が出て来ると?日中に?」
「どんな引き篭りでも、食い物が無くなり、限界まで腹が減ればコンビニくらい行くさ」
緒方が真剣な目つきで言った。その目は細められ、微かに恐怖が混じっているように見える。
「お前が言った凶暴性の増加が、こういう形で顕れるとは考えられないか?日中が俺達の時間だなんて、すぐにでも終わるかもしれんぞ」
まだ横浜のオフィスにいた頃に(たかが1週間ほど前の事だが、ずいぶん昔のように感じる)、森屋と話した事を思い出す。あの時自分は、人間と同じように感染者にも身体を休める時間が必要なのだと言った。いわゆる習性の問題だと。
夜行性…連中がほんのちょっとこの習性を変える事は有り得ない事か?いや…。
「もし…もし本当にそうなったら、俺達は終わりです。今後の行動プランも練り直す必要がある。皆にも話した方が良い、死体が見当たらない事にも多分まだ気付いてない」
達彦はじりじりと後ずさりながら、周囲を見渡した。第一京浜沿いに建ち並ぶビルや商店など、見える範囲の窓には全て感染者達が張り付き、達彦達を見下ろしている。赤い目をギラつかせ、食いしばった歯の隙間から血の混じった唾液を垂らすその表情が、以前より凶悪に見えるのは錯覚だろうか…錯覚だと思いたかった。
「待て、まだ確証が無いぞ。全部推測だ。ここで下手に騒げば混乱を招く。せめて京浜島に着くまで待て。キャンプの中に入っちまえば取りあえずは安心だろうし、そこで話そう」
緒方が達彦の腕を取り、引き止めた。
「言ったろ、頼りにしたいと。頼むぜおい。いいな?」
「緒方さん!!!」
その時、阿部の声が上がった。CCVの後部ハッチから顔を出し何度も緒方を呼んでいる。
「無線が鳴ってる!!誰に宛ててる物か分からないけど、助けを求めてるみたいだ!!」