長い夜 3
壁にブーツの底をしっかりと着け、ロープ伝いに慎重に降りる。ロープの粗いざらざらとした表明が手の平に若干の痛みを残すが、それほど難しくはない。距離も6mほどだし、これなら他のメンバーも降りてこられるだろう。屋根まで残り1mという距離まで降りたところで、達彦はロープを手放し、飛んだ。ブーツ底が細かい砂埃を巻き込み乾いた、じゃりっという音を立てコンクリートを打つ。達彦は窓を見上げ、不安そうに見下ろしている柚木へロープを引き上げるよう手振りで指示した。
腕時計を見る。午前3時。日が昇るまではあと4時間ほどかかる。誰にとっても長い夜になりそうだ…。
煙草の吸い殻や空き缶、古い雑誌が点々と転がる中を音を立てないようゆっくりと進み、屋根の端に到着した。そこには折りたたみ式の避難梯子が据え付けられている。長い間使われた形跡がないその梯子へと手を伸ばし、達彦は地上へと降りる準備を始めた。
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『ゲート』の決壊が起こる少し前、堤はキャンプ入口から50mほどの距離にいた。その場所では自衛隊の施設作業車や道路障害作業車(名前なんて堤にはどうでもよかった、ひとくくりで車だ)等が停車していて、警備中の隊員に混じり多くの生存者が眠ったり食事をしていた。これまで大勢の人間に話を聞いてきた。だがやはりここでも自分と同じ、予防接種を受け生き延びている者は見つからない。それどころか、質問の真意を図りかね怪訝な表情を浮かべる者がほとんどだった。
もういい、達彦と柚木の元に戻ろう…そう思い、建物に向かい歩き始める。同時に、今夜は2人にさせてあげようかとも思う。今朝からの様子を見る限り、昨夜あの2人の間に何かあったのは間違いない。36歳とはいえ年の功、加えて女はある種そういう匂いには敏感なのだ。堤は歩みを止め、微笑む。決めた、もう少し辺りを散歩して行こう。
人の集まる場所を避け、倉庫の裏手へと歩いているとき、突然金属の擦れる音が堤の耳に届いてきた。『ゲート』が開くのは人の出入りがあるときだけだ、こんな時間にそれはあり得ない。つまり…。その予感を裏付けるように、甲高い悲鳴が響き渡った。
全身から血の気が引くのが分かる。エレベーターが下降するときに感じるような、胃がすぼまる鈍い違和感。堤は姿勢を落とし、手近な草むらの中へ身を隠した。間もなくけたたましい銃声が鳴り始めた。堤は顔を上げ銃声が聞こえてくる方向を見る。有名人がこのキャンプを訪問しているのかと思えるような人だかりと、カメラのフラッシュのように点滅する光。
『ここにいたら駄目だ…早く2人のところに戻ろう』
頭ではそう思うのだが、身体が言うことを聞かない。しばらくの間その場から動くことが出来ず、堤は震えながらうずくまったままだった。
『恵…あなた…』
ぎゅっと目を閉じ、震える唇を強く噛む。脚が動いた。堤は建物の裏、プラットフォームへと走り始めた。
「早く!早く逃げて!何やってるの!」
眠りを中断され意識も朦朧といった様子の生存者達が、いまだ動かずに座りこんでいるのを見て、堤は走りながらたまらずに声を張り上げる。堤の声と、聞こえてくる悲鳴と銃声に脳を叩き起こされた人々は、パニックになり散らばるように駆け出して行く。その混乱の中を堤は走り続けた。脳裏に死んだ娘の姿が蘇る…娘すら守れなかったのだ、ここで誰かを抱きこんで逃げようとはとても考えられなかった。
建物に辿り着き、プラットフォームへ回り込む。そこにはすでに誰も残っていなかった。焚火に照らされた広場には、彼等の残した荷物や毛布等が散らばっているだけだ。達彦のバックパックも残っていた。置いていかれたという失望感より、2人が素早くこの場を離れたことに安堵を覚える。達彦ならちゃんと柚木を守れるだろう。
『私を捜すなんて馬鹿なこと考えるんじゃないわよ…?』
バックパックを漁り、目当ての物を掴み出す。身を守る道具がこれだけなんて何とも頼りない、拾ったあの小銃を持ちこまなかったのが悔やまれた。堤は包丁を握りしめ立ち上がり、再び建物の入口側へ走り始めた。
建物脇から飛び出したところで、自衛隊員2人と鉢合わせた。驚きのあまり堤は包丁を突き付けようと身構え、隊員達は小銃を構えいまにも撃ちそうな素振りを見せる。つかの間向かい合った3人だったが、堤がその緊張を破った。隊員達の肩越しに、100mほど向こうから小規模の感染者集団が走ってくるのが見えたからだ。いくつもの焚火により薄くオレンジ色に染まった景色の中、歯を剥き出し一心不乱に迫ってくる。
「ちょっと!!」
指差しながら上げた堤の声に隊員が背後を振り返り、すぐさま走り始めた。
堤も加わり、隊員に前後を挟まれた1列で建物前を走る。感染者集団、その先頭はもうすぐそこまで近づいている。入口ドアの前に差しかかったとき、堤の後ろを走っていた隊員が悲鳴を上げた。
「止めてくれ!助けてくれ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!止めろぉ!」
発狂寸前のような甲高い叫びに、思わず振り返る。6人ほどの感染者により地面へと引き倒された隊員が手足を振り回し抵抗していた。隊員の制服がみるみる血に染まっていく。握っていた小銃が1度だけ火を吹き、入口ドアのガラスを破った。
少しでもおこぼれに預かろうというのか、次から次へと後続の感染者達が隊員の身体に群がる。隊員の姿は、あっという間に見えなくなった。何人かの感染者は建物の中に入って行ったようだ。
「振り向くな!!もっと早く走れ!!」
その声に、我に返った堤が再び前を向く。先を走る隊員が小銃で前方を差し示していた。
「装甲車が停まってるだろ!?分かるか!?あそこまで行く!死ぬ気で走れ!!」
示された方向には、なるほど確かにそれらしき車輌が見える。
「ついて来い!邪魔な連中は、俺が処理する!!」
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プラットフォームから逃げる際に使った道とは反対側の建物の横、道もない深く茂ったやぶの中を、達彦は移動してきた。建物からは100mほど離れただろうか。いまやキャンプ内のいたる所に感染者がいるが、建物と倉庫の周辺はとくに数が多いようだ。寝ぐらとなり得る建造物に惹かれる習性があるのだろうか…そんなことを考えながら、木々の隙間から様子を伺う。ときどき思い出したように銃声が鳴る以外何の音もしない。
『連中はまだ入って来てるのか?ここからは見えないが…行ってみるしかないか』
引き続きやぶの中を移動しようと動き出したところで、背後から物音が聞こえた。枯れ葉や枝を踏みしめる音が、絶え間なく聞こえてくる。達彦は息を潜め、音の出所を探ろうと薄暗闇に目を凝らした。無警戒に音を立てる歩き方から、感染者に間違いないだろう。
『いた…やっぱり…』
こちらに向かい歩いてくる人影、1人だ。血と糞尿の臭いも微かに鼻を突く。ふらふらと、だが確実に達彦との距離が近づいていく。まだこちらの姿は見られていないだろうが、放っておくのは危険すぎる。達彦は小銃を構え、人影の頭部に狙いを定めた。銃声が他の感染者をおびき寄せはしないかという不安がちらりと脳裏をよぎったが、思い切って引き金を引く。ダンっという音とともに、銃床が肩を打つ。人影の頭部が不自然に揺らぎ、身体がくずおれた。頭部から何かが飛び出したように見えたが、暗くてよく分からなかった。そのことに達彦は心底ほっとした。
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少なくとも銃声が感染者達の注意を引くことはなかったようだ。達彦はしばらくの間辺りを伺っていたが、こちらに向かって来る感染者はいなかった。目の前に広がるキャンプ敷地内では、仕留めた獲物を無心で貪る感染者達で賑わっている。銃声を上げても大丈夫なら、進行の障害になる感染者だけを狙い撃ちながら進むことが出来るはずだ。手に持った小銃を簡単にチェックし、達彦は深いやぶの中を再び進み始めた。
息を殺し、音を立てないよう細心の注意をはらう。こうしていると、友人達とサバイバルゲームに興じていた時間を思い出す。仕事に追われるようになったここ数年は参加する機会がめっきり減ったが、あれは楽しかった。玩具の銃を握りしめ、フィールドを駆け回る…加奈子はそんな自分達を呆れながらも楽しそうに眺めていたものだ。
もうあのときの友人達が揃うことはない…あの楽しかった時間は二度と戻らない。
『しっかりしろよ…いまは余計な事を考えるな。手を上げて、「ヒット!」じゃ済まないんだぞ』
そうだ、しくじれば死ぬ。噛みちぎられ引き裂かれ、ただの肉塊として餌になる。やり直しは効かない。だが何より最悪なのは連中の仲間入りをするはめになることだ。想像も出来ない…自我を失い、本能のままに暴れ狂う自分の姿なんて…。
自衛隊の所有する各種車輌がまとめて停車してある場所まで進んできた。このままずっとやぶの中にいても仕方がない。何とか目の前の車輌群に身を潜められないだろうか。達彦は次に移動すべきポイントを定めようと視線を走らせる。
そのとき、車輌群の内の1台が突然エンジン音を上げた。重いキャタピラを軋ませ、ゆっくりと動き始める。自衛隊の生き残りがいた…このまま1人で闇雲に動き回るより協力を仰いだ方が良さそうだ。達彦はやぶから飛び出し車輌へと走り寄った。エンジン音が相当な注意を引いたのだろう、周囲をうろついていた感染者達が一斉に動き始める。
『…っ!とにかく上に…上に登らないと!』
車輌と併走しながら、取っ手になりそうな物を必死で探す。すぐ後ろには感染者達が迫っていた。焦りと恐怖の中、達彦の右手が車輌上部の僅かな窪みを掴む。これを外したらもうチャンスはない…達彦は力を込め一気に身体を持ち上げる。上半身が車輌上面に乗りあげたとき、右足首を掴まれた。引きずり落とされそうになる衝撃を左手1本で耐え、小銃を構える。
「くそっ!離せよこの野郎!」
狙いも定まらないまま、足首を掴んで離さない感染者へと弾丸を浴びせた。弾丸が肉を穿つ鈍い音が数回聞こえ、足首の拘束が解ける。その隙に今度こそ達彦は車輌上面へ登りつめた。
膝をつきへたり込みながら呼吸を調えていたそのとき、すぐ目の前にあるガンポートのハッチが開き1人の女が顔を出した。髪をなびかせ、飛び出さんばかりの目で達彦を凝視している。
「香川君…あんた!!馬っ鹿じゃないの!?」