発生 2
外ではますます騒ぎが大きくなっているようで、悲鳴や怒声、車の衝突する鈍い金属音が達彦の耳に絶え間なく届いていた。達彦は腕時計を見た。午後20時10分だ。初めて悲鳴を聞いたのが19時30分頃だったから、この騒ぎが始まってから40分くらい経過したということになる。腕時計から目を離しながら、達彦はふと気づく。
『そういえば、サイレンの音とか全然聞こえてこないな・・・』
どういう理由かは分からないが、あんな惨状になっているのに何故誰も救急車なり警察なりを呼ぼうとしないのだろう?いまの自分達のように、少し距離を置いて見ている人だっているはずなのに・・・。
『まったく・・・俺もその内の1人だよな。とりあえず通報しないと』
110番をダイアルし、携帯電話を耳に押し当てる。間髪置かずに聞こえてきたのは、現在回線が大変混雑しているというアナウンスで、親切にももう少し時間を置いて掛け直すようにアドバイスまで付いてきた。溜息をつき、携帯の通話終了ボタンを押す。嫌な予感がした。手の平が汗ばんでいるのが自分でもはっきりと分かる。
携帯が役に立たないと分かり、今度はオフィスに据付の固定電話に手を伸ばす。再び110番をダイアルしてみたが、聞こえてきたのは通話中を示すツーツーという音だけだった。
達彦はそっと受話器を元に戻し、ごくりと唾を飲み下した。その音はやけに大きく響いた気がした。
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達彦は喫煙室に戻りドアを開けた。その音に驚いたのか、柚木が一瞬びくりと身体を震わせ顔を上げる。窓から差し込んでくるネオンの明かりに照らされたその表情は暗く沈んでいたが、逃げ込んできた時と比べると落ち着いていたし、目の焦点も定まっているように見える。
「どう、落ち着いた?」
達彦は柚木の隣に移動しながら問いかけた。電話が繋がらないことを話したほうが良いだろうか?いま話しても余計な不安を増やすだけかもしれない。しかし、これからのことを相談しなければならない以上、電話の不通も大事な情報の1つだ。達彦はそう思い、しっかりと柚木の目を見て話しかけた。
「電話が繋がらないんだ、携帯もオフィスの電話もどちらも」
話しながら窓の外を指差す。
「ほら、あんな騒ぎになってるのに救急車も警察も来てないだろ?おかしいと思って電話してみたんだ。そしたら・・・繋がらなかった。どういうことか分からないけど、ちょっと異常だよね、この状況。だから、俺はしばらくここで様子を見ようと思うんだ。慌てて外に出ると危険かもしれない」
達彦は一旦ここで言葉を切り、柚木の表情を確認した。相変わらず沈んだ顔をしているが、話の内容はちゃんと届いているようだ。
「私も・・・私もここを出たくないです・・・」
微かに頷いたあと、小刻みに震える唇で柚木は答えた。
「良かった。もし話せるなら、何が起こったのか分かる範囲ででも話してくれないかな?ここに来るまでに、君が外で何を見たのかを」
達彦は、また柚木の神経を昂ぶらせないよう注意しながら、幾分声のトーンを落としながら問いかけた。問いかけられた柚木は床を見つめたままだ。自分が見た光景と記憶を手繰り寄せようとしているのか、時おり唇が微かに動く。数分後、柚木は顔を上げ、達彦の目を見ながら話し始めた。
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彼女、柚木香織は去年の4月に入社した新人で、営業課に所属していた。営業といっても実際に外回りを行うのは柚木とペアを組む営業マンで(鈴木という男だ。口ばかりのつまらない男で、正直ペアを組むには苦労が多そうだと達彦は思っていた)、柚木は主にアポイントの調整や必要書類の作成を担当する営業補佐として勤務していた。
営業補佐は柚木の他に3人居て、その内の1人、新倉淳子と柚木は同期であり、一緒に食事に行ったり仕事の悩みについて話し合うなど特に親しくしていた。この日の午後18時、服を買いたいという柚木に付き合う形で新倉も一緒に退社した。2人が向かったのは横浜駅に隣接するデパートで、その中には柚木のお気に入りのショップがある。
柚木には去年12月に初めてもらったボーナスで是非手に入れたいと思っていたコートがあったのだが、いまに至るまでなかなか決心がつかずにいた。何せ10万円もするコートだ。小心者であり、買い物は現金でというのが主義である柚木にとっては十分腰が引ける金額だった。今日新倉と一緒に来たのは、彼女の意見や感想を聞いて判断をしようという柚木なりの考えがあったからだ。
散々悩んだ結果、柚木はコートを買った。全身の気力を振り絞るくらいの覚悟で財布から10万円をだしたときには新倉が拍手をしたくらいだ。買い物を終えたあと、食事をして帰ろうという新倉の誘いを受け(新倉いわく、『香織の散財祝い』とのこと)、2人はデパートの入り口へと歩いて行った。
入り口ドアまであと少しというとき、柚木と新倉は何者かにぶつかられ勢いよく床へ倒れこんだ。ちょっと肩がぶつかったというレベルではない、その何者かは明らかに悪意を持ち2人にぶつかってきたのだ。綺麗に磨き上げられた白い床に転がるように倒れ込んだ衝撃で、柚木の着ていた膝丈の白いフレアスカートが太もも辺りまで捲れた。普段なら慌てて乱れを整えるところだが、このときばかりはそれが出来なかった。目の前で起こっていることに呆然と見入ってしまったからだ。
柚木の視線の先、およそ2メートルの距離で、新倉は仰向けに倒れていた。そして、その身体に馬乗りになるように1人の女性が覆いかぶさっている。青いストラップが付いたパスケースを首から下げているその女性は、デパート入り口横に店舗を構える化粧品店の店員だろう。黒のタイトスカートに白いブラウスという装いのその店員は、元は綺麗な顔立ちだったであろうそれを狂気じみた歪みに変え新倉の右手首に噛み付いていた。乱れた髪の間から時おり覗く店員の瞳は、充血を遥かに越え真っ赤だった。新倉は何とか振りほどこうと両腕を上げ、いやいやをする。しかし噛まれた手首から血が流れ落ちるばかりで、店員はなおも強く覆いかぶさろうと新倉の身体から離れない。
一段と高く上がった苦痛の悲鳴を聞き、柚木はやっと放心状態から抜け出した。そして何とか新倉を助け出そうと立ち上がろうとした。そのとき、新倉の動きが一瞬止まった。次の瞬間、新倉は覆いかぶさっている店員の首を掴み、いとも簡単に跳ね除けた。上半身を起こし、柚木に向けたその瞳は、店員と同様真っ赤に染まり、表情は狂気に歪んでいた。
その頃にはデパート内のあちこちで同じような騒ぎが起こっていたのだろう、柚木の周囲は入り口ドアへ殺到する人々で溢れ始めていた。
「淳子ぉ!!」
柚木は新倉へと手を伸ばしたが、外へ向かう人々の流れに呑まれ届かなかった。白い床に点々と残る新倉の血だけが、柚木の目に一瞬だけ見えた。
デパートから出た直後のことはよく覚えていない。混乱した人々の流れに乗ったまま移動したのか、気が付いたときには横浜駅の西口の前にいた。そこもすでに騒ぎが始まっており、地下街へと降りる階段の辺りではかなりの数の人間が倒れていた。直感的に、柚木はこのまま駅構内に入るべきではないと判断した。くるりと踵を返し、駅に向かう流れに逆らうように会社へ、自分がよく知っているあのビルへと戻り始めた。
いつもなら10分もかからない道も、今日はそう早く進めない。駅から離れるほど人々の数は減っていたが、歩道を含め通りには事故車や死体(大量の血を流し、呻きもせず横たわっているのだ。死体じゃなきゃ何?)、荷物やゴミなどが散乱していてまっすぐ走ることが難しい状態だった。そんな中、柚木は可能な限り早く走った。ヒールのせいで爪先や足首が痛むが、その痛みが逆に脚を叱咤した。
『見えた!あと少し、その角を曲がれば・・・』
そのとき、右肩を強く掴まれた。何てこと!追いかけられていた!声にならない悲鳴を上げながら、激しく身体を揺さぶる。振り向く勇気はとてもじゃないが無かった。幸い、右肩を掴んでいた手はすぐに離れたが、コートの一番上のボタンが弾け飛んだ。ビルの入り口はもう目の前だ。まだ追いかけてきているのだろうか?それに、もしドアに鍵が掛かっていたら?
『お願い!!』
柚木はドアの取っ手を掴み、祈りを込めて引いた。
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達彦は新しいカップにコーヒーを注ぎ、柚木へ差し出した。柚木は黙ってそれを受け取り、口を付ける。2人とも無言だった。
『何てこった・・・こりゃ俺が考えていたより悪い状況だ』
これまで達彦は、この騒ぎが一過性の(そしてかなり過激な)暴動もしくはそれに近いものと思っていた。たまたま自分の足元で始まっただけで、警察が介入すれば収拾がつくだろう、と。タクシーに轢かれたあの少女だって、運が悪かっただけだ。
いや、本当はそうじゃないだろう。電話が繋がらなかったときに感じたあの嫌な予感、あれは何か説明の出来ない事態が起こっていると感じたからだったはずだ。そして、柚木の話を聞いたいまなら尚更その確信がある。この騒ぎは間違いなく広範囲で起こっているし、東京都内だってきっと例外じゃない。達彦はいままで無理矢理考えないようにしていた加奈子のことを思った。いつもの加奈子ならとっくに自宅に着いている時間だが、今夜は友達と食事に行くと言っていた。もしそこでこの騒ぎに巻き込まれたら・・・そして・・・。達彦は大きくかぶりを振った。加奈子は大丈夫だ、きっと無事でいる。いまはそう信じる他ない。
『俺が迎えに行く。必ず探し出してやるから・・・』