微かな望み 4
堤と柚木の少し後ろを、達彦は歩いていた。時々柚木が心配そうに振り返るが、達彦は敢えて柚木と目を合わせなかった。きっと自分はいま、困り果てた、情けない顔をしているだろうからだ。達彦はただ黙って歩いた。東京都、中でも品川埠頭にキャンプがあるという情報を得られたことは有り難かった。加奈子の自宅からは多少離れてはいるが、両親と合流するため加奈子が向かった可能性は高い。柚木と堤を無事ここまで送り届けたいま、次に自分が目指す場所は品川埠頭だ。だが、どうやってここから出る…?
「お2人さん、寒いだろう。こっちに来て暖まりなさい」
前方から声が聞こえた。達彦は顔を上げ前を歩いている柚木と堤を見る。いつの間にか距離が開いていた。10mほど前方で、毛布にくるまった中年男性が2人に話し掛けているところだった。
「香川君、焚火だってさ」
堤が振り返り達彦に手を振る。男は2人に連れがいたことに驚いた表情をしたが、すぐに引っ込め達彦に不器用な笑顔を向けた。
案内されたのは食料が配給されるという倉庫のすぐ近く、等間隔で植えられた木に囲まれた、かつて駐車場だった場所だった。標準的な体育館ほどの広さのその場所では、いたる所で人々が焚火を起こし暖を取っている。
「さ、座りなさい」
男はそう言うと、車止めのブロックに腰を下ろした。一斗缶の中で勢い良く燃える焚火を囲むように、達彦等も腰を下ろす。
「私達はついさっきここに着いたばかりなんです」
柚木が焚火を見つめながら言った。
「ここにいる皆さんは、いつからこのキャンプに?」
「ここは元々自衛隊が活動拠点として作った場所だと聞いてる。それがいつの間にか俺達みたいな生き残りが集まるキャンプになった。避難者が大挙して壁を叩けば、入れてやらないわけにはいかないだろ?拒めば暴動になっちまうし、そうなりゃ死人も出る。だから嫌々解放したのさ。自衛隊は俺達を快く思ってないし、口じゃ保護するなんて言ってるが銃口は常に俺達に向いてる」
男はニヤニヤした笑いを浮かべ達彦等を見渡す。
「質問の答えがまだだったね。俺は一昨日からだ、一昨日の昼からここにいる。他の連中のことは知らないね」
達彦は男の態度が気に入らなかった。話している間ずっと柚木と堤をじろじろ値踏みするかのように見ていたし、口元には下卑た笑いが張り付いている。
「着いたばかりじゃ何も勝手が分からんだろ?いろいろ教えてやるよ。寝る場所もここを使えば良いさ」
男の視線が下がった。その視線が堤の着ているハイネック、その胸の辺りを捕らえたのを達彦は見逃さなかった。嫌悪感が全身を走るのが分かる。
『ふざけやがって!』
達彦は立ち上がった。これ以上この男に関わるのは耐えられない。柚木も堤も自分の恋人ではないし、まして自分は2人を置いてここを出ていくつもりなのだから、とやかく言う権利はないだろう。しかし、それでも、この男が寄越したあからさまな視線には我慢出来なかった。近寄らせるわけにはいかない。例えお門違いな、お節介な怒りだとしても。
「行こう、2人共。本当に銃口が俺達に向いているか見に行ってみよう」
達彦は男を睨みつけながら柚木と堤を立たせた。この男が言ったことは嘘だ。そのことに達彦は確信を持っていた。
『生存者が弱者として扱われているこのキャンプでは、どう生活すれば良いか教えてやれる俺は頼りになるぞ』
というわけか。そうやって主導権を握りさえすれば、あとは好き勝手に出来る…低能な考えとしか言いようがない。
「気持ちは有り難いが、自分の世話は自分でする。いままでもそうやってきたんでね」
自分達は安全と平穏を求めてここに来たのだ、それなのにたかがこんな下らない男のために裏切られた気持ちになるなんて…。2人を立たせ先に歩かせる間、男もじっと達彦を睨み返していたが、やがて諦めたのか(柚木と堤をモノにすることを、だ。この下卑野郎が)視線を外した。
「好きにすりゃ良いさ」
焚火に木片を放り込みながら、男は忌々しげに呟いた。
「もう少しでひっぱたくとこだったわ!!最低!」
堤は溜息とも唸りともつかない声で悪態を吐き始めた。3人はいま自衛隊が本部を置いているという建物の前にいた。
「えぇ、足元見られましたね」
「見られたのは胸!!」
堤のその切り返しに柚木が笑った。達彦も思わず笑いそうになった。おかげで、3人共怒りの熱が少しだけ引いた。
「こんな状態になった方が…モラルとかそういったものが崩れた状態になった方が都合の良い連中もいるんだ…」
達彦が呟いた。
「お金や宝石ばかり漁ってる連中も多いみたいだしね。家にまで押し入るみたいよ」
堤は呆れたような、悲しそうな表情をしている。
「本当…馬鹿みたいよね…」
そういった連中が起こす小競り合いがどんな結果を生むか…汚され、殺され…。さきほどの男はまだ可愛い方だろう、汚らわしい視線で済んだ自分達はまだ幸運なのだ。
「生き残った人達も、何かが変わってしまったんですね…」
暮れかかった空を見上げ、柚木がぽつりと呟いた。
・
建物周辺はシャワーの順番を待つ生存者達や、本部に出入りする自衛隊員(当たり前だが、こちらに銃口を向けている隊員はいない)で賑わっていた。達彦等3人はその建物をぐるりと回り込み、裏手へ向かった。そこは荷下ろしのためのプラットフォームだった。搬入口のシャッターは閉められており、建物の中には入れないようになっている。その場所にも暖を取る生存者達が大勢いたが、他の場所と違い子供連れが目立つ。そのほとんどが片親だった。
その父親なり母親なりは、希望にすがり付くかのような表情でいまや唯一の家族となってしまった我が子を抱きしめ、焚火の炎を見つめている。誰もが無言だった。達彦等3人は誰からともなくその場所に腰を下ろした。
「娘は今年小学校にあがるはずだったの…」
堤が唐突に口を開いた。
「小学校の前を通るたびに嬉しそうに笑うのよ。この門でママとパパと写真を撮るんだって。お祖父ちゃんにも見せてあげるんだって…」
柚木が堤の手を握り、背中をさする。
「あの笑顔が嘘みたい。いまでもあの子は家にいるわ…寒い中、たった1人で…私は置いてきてしまった」
伏せた顔、その目から涙が落ち、コンクリートの地面にいくつもの染みを作る。
こんなとき、どんな言葉をかければ良いのか…達彦には分からなかった。
『乗り越えられますよ』
とか、
『娘さんはいまでもあなたと一緒にいますよ』
などの気休めでも言えば良いのか…分からない。代わりに達彦が口にしたのは、場所を変えましょうかというどうしようもなく情けない言葉だった。
「いいの…大丈夫。皆誰かを失ってるんだもの、私だけ落ち込むわけにはいかないわ」
そう言って袖口で目頭を拭うと、堤は弱々しく笑った。
また加奈子のことを思い、達彦の胸がちくりと痛んだ。
そのとき、またあの金属が擦れ合う音が響いてきた。時間をあけて、もう1度。新しく到着した生存者だろうか…達彦はそう思って周囲を見渡す。小銃を持った自衛隊員が慌ただしく走り回り、敷地内、コンテナの壁沿いに50mほどの間隔で並び始めた。隊員達も、生存者達も、どこか緊張した雰囲気を漂わせている。ふと気付き、達彦は腕時計を見た。
『日没だ…夜がくる』
また感染者の時間がやってきた。外で見張りをしていた隊員達もキャンプ内に戻ったのだろう、さきほどの音はそのためだ。達彦は改めて周囲を見渡した。暗くなりつつある空をバックにそびえるコンテナの壁…あの壁は外の凄惨な世界から、獰猛な補食者から、きっとこのキャンプを守ってくれる。