微かな望み 1
「何これ!きったないわね!」
201号室に入った堤の第一声は、荒れた室内への感想だった。異臭を放つ未洗浄の食器類は達彦も見て知っていたが、それ以外、室内をじっくり見るのは初めてだ(あの晩は解熱剤を探すのに必死だった)。日の光に照らされた室内は、なるほど確かに荒れていた。
「まったく・・・主婦を馬鹿にしてるわね」
コンビニ弁当やペットボトルの空容器が詰まった袋と一緒にブラジャーやショーツ、Tシャツといった衣類をまとめて腕にかかえ、堤は室内を片付け始める。
「私が独身の頃でも、ここまで汚れた事は無かったわ・・・」
「堤さん、そろそろ日が暮れる。部屋の中も気になるでしょうけど、物音はまずい」
達彦は窓の外に目を向け言った。時間的にもう間もなく感染者達が行動を起こすはずだ。自分達の存在を気付かれるのは絶対に避けたい。
達彦の言葉と、加えて座る場所を確保したという結果に多少は落ち着いたのか、堤は片付けの手を止めた。
「例の浮島にあるって言う避難場所について、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
「あの集団が向かってたキャンプには、すでに400人くらいの人達が集まってるそうよ。これが多いか少ないかは微妙なところね・・・」
埃が目立つソファに腰を下ろし、堤が答える。
「あと、浮島以外にもキャンプがあるそうよ。場所はちょっと覚えてないけど、大体が海に面した人工島に建設されてるって話だわ。まぁ、感染者と距離を取るには良い環境よね」
「なるほど・・・」
持ってきた地図を開きながら達彦は頷いた。海に面した場所なら、東京湾を擁する東京都にも複数のキャンプがあると思って良いだろう。加奈子がその内のどこかに辿り着いている可能性もある。達彦はほんの少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
「高速湾岸線や横羽線を辿れば、確かにキャンプ間の移動もかなり安全に出来そうですね」
予想でしかないが、先ほどの集団はおそらく武蔵小杉辺りまで綱島街道を進み、あとは多摩川沿いに浮島を目指すつもりだったのだろう。ずいぶん遠回りな気がするが、出来るだけ多くの生存者を回収して進むつもりだったのなら、住宅密集地を通過する方が良いと考えたのかもしれない。
それにしても堤が言った通り、距離があり過ぎる。確かに1日ではとても無理だろう。達彦は再び窓の外に目を向けた。外はすでに暗くなっており、感染者が活動を始める時間をとうに過ぎている事は容易に分かった。彼等はいまどうしているのだろうか・・・。
「とにかく、柚木さんが回復したら浮島に向かいましょう。彼等の後を追うんです」
このまま加奈子が最後に居たと思われる六本木に向かうつもりだったが、キャンプの話を聞いて予定を変更した。浮島で都内にあるキャンプについて情報を聞きたい。それに、浮島が安全だと判断できたら、柚木と堤はそこで保護してもらおう。そう考えた。
柚木との約束を果たす事が出来そうだという安堵感と共に、離れ離れになってしまう寂しさが急に達彦を襲った。
『そりゃ寂しいさ、浮島から先は1人で行くんだからな・・・』
短い時間だったが、それでもこんな状況を一緒に過ごしてきた。その仲間と離れる。寂しいのは当たり前だと達彦は思おうとした。そうだ、当然だろ・・・。
夜間は特に問題が起こらない限り部屋の行き来は避けようと決め、達彦は202号室へと戻った。部屋に戻り、横になってもまだ達彦の心には先ほど感じた寂しさが消える事なく残っていた。
「加奈子・・・絶対に見つけてやるからな・・・」
自分自身に言い聞かせるように呟き、達彦は眠りに落ちた。
・
それからの3日間で、柚木は順調に回復した。熱も完全に治まり、歩行にも問題はない。達彦と堤は柚木を看病する間201号室と203号室を調べ食料や水を準備した。懸念されていた堤の状態も問題なし。これで出発できる。
出発を翌日に控えた夜、リビングのソファで横になっていた達彦の元へ、柚木が現れた。達彦は上半身だけを起こし柚木を迎える。鼓動が一瞬だけ早くなるのを感じた。
「ごめんなさい・・・香川さんは急いで出発したかったはずなのに私が・・・」
「気にするなって」
君を安全な場所まで連れて行くのも役目だ、そう言いかけた達彦に柚木がそっと寄り添う。そしてそのまま唇を重ねた。達彦は柚木の肩に手を添え、優しく引き剥がした。
「罪滅ぼしのつもりなら、間違ってる・・・」
柚木は何度もかぶりを振り、今度はしっかりと抱きついてきた。押し付けられた胸のふくらみと、首筋をくすぐるさらりとした髪の感触に我を忘れそうになる。
このまま抱きしめられたらどんなに良いだろう?これが加奈子だったら・・・どんなに・・・。
すうっと熱が引いていく。そして達彦はもう一度、今度はやや力を込めて柚木を引き剥がした。拒絶されたという単純な理由だけではない戸惑いが、柚木の目にはあった。
「私と一緒に居てください。香川さんと一緒じゃないと私は・・・」
「ごめん、それはできないよ・・・悪いけど」
浮島に着いたら、柚木と堤を置いて加奈子を探す目的を再開する。その事はすでに伝えてある。精一杯の謝罪を込め、達彦は言った。
「どうして?だって・・・だってもう無理ですよ!加奈子さんはもう・・・」
あの時見た夢が鮮明に蘇り、胸に痛みが走る。
「それ以上言わないでくれ。分かってる・・・俺だって分かってるよ、それくらい。でも諦めたくないんだ。加奈子の事は諦めたくない」
柚木の目は『どうして?』を繰り返し、達彦を見つめ続けている。達彦は大きく息を吐いた。
「いままで加奈子が、俺の事を諦めずにいてくれたからだよ・・・」