寄る辺 4
堤啓子は、あの晩仕事を終えた帰宅途中に騒ぎに巻き込まれた。最寄駅で下車し、自宅へと向かう道すがら感染者に襲われたのだ。幸い感染者は1人だけだったし、周りには堤と同じく帰路に着いていた数人の生存者が居たため傷を負う事なく難を逃れる事が出来た(とはいえ、周りの生存者の中には傷を負った者も居た)。
いつもなら娘を保育園まで迎えに行くのは堤の役目だったが、この日は仕事が長引き仕方なく夫に娘の迎えを頼んでおいた。自宅の周辺をあんな半狂乱になった人間が暴れているのだ、家族の状態が心配で走って自宅へと向かった。保土ヶ谷区の、三ッ沢公園の近くにある平凡な戸建住宅。息を切らして帰り着いた堤を出迎えたのは、娘の死体だった。リビングへと入るドアにもたれかかるようにして死んでいる娘の喉からは、大量の血が流れ落ちていた。傍には夫が仕事で使っている鞄が落ちていた。ただ、持ち主の姿が見えない。堤は娘の死体を抱きかかえながら夫を捜した。さして広いわけではない自宅だ、夫が居ない事は数分で分かった。その頃には外の騒ぎが大きくなっており、悲鳴や怒声が絶え間なく聞こえてきていた。夫の身は心配だが、外に出る事は危険だと判断した。何より、娘の傍を離れる気にはなれなかった(後になって堤は、娘は夫に殺されたのだと確信するようになった)。
それからはじっと自宅に篭り、ひたすら待った。救援を、解決を。感染者が夜間に行動する事はすぐに気付いた。ヘリの群れが横浜の街を攻撃した翌日、ようやく自宅を捨てる決心がついた。すでに腕の一部となっていた娘の死体を子供部屋のベッドに横たえ、額にキスをし別れの挨拶をした。自宅を出発し、神奈川区、白楽駅の近くで先の集団と合流し日吉へと行き着いたのだった。
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「インフルエンザじゃないと思う」
堤は横になっている柚木の状態をしばらく観察し、いくつかの問診の後そう言った。歯科医が下した判断にどこまで信憑性があるのか・・・達彦は不安な表情を隠そうともせず堤の顔を見つめた。
「なぜ分かるんです?」
かなり棘のある言い方になってしまった。
「うーん・・・インフルエンザなら高熱を発する期間がもう少し長いわよ。それに加えて何の処方もせず熱が下がり始めてる。それも一晩でね」
達彦の口調にも気を悪くする事なく、堤は淡々と所見を述べた。
「間接も痛まないって言うし・・・疲労でガクリと来ちゃっただけじゃないかな?とにかくゆっくり休ませて、ちゃんと食べる事ね。もちろん、香川君が用意した薬はキチンと飲む。いい?」
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午後14時、食事を取り再び寝入った柚木の傍を離れ、達彦と堤はリビングへと戻ってきた。自分達も朝から何も口にしていない、まずは食事を取ろうという事になったのだ。あまり豪勢な物は用意出来ないが、食料は達彦が提供した。診断の信憑性云々はともかく、堤は達彦と柚木に救いの手を差し出してくれた。彼女の存在が安心を与えてくれたのだ。食事はささやかなお礼だった。
「ところで、何でそんなにインフルエンザに固執するの?まぁ、こんな状況だからね、医者に診てもらうのも簡単じゃないし・・・放っておいても良くなる病気じゃないから心配なのは分かるんだけどさ・・・」
食事も終わり、堤が一息つきながら言った。
「もし・・・もし何か気にする理由があるなら教えてくれる?」
ちらちらと達彦の表情を伺うその様子は、まるで自分にも気にする理由があると言っているような雰囲気だ。
達彦は、自分が考えてきた事、疑問に思っている事を全て話した。新型インフルエンザと既成ワクチン。突然変異。感染。インフルエンザの蔓延と同じく、この騒ぎが全国規模であるという事もこれら疑問を裏付ける証拠なのではないか・・・。
「なるほどね・・・」
達彦の話を黙って聞いていた堤が頷く。
「でも私はワクチンの予防接種を受けたわ。私だけじゃない・・・娘も、夫もね」
自分や柚木、それに森屋の共通項だったワクチンについての事実が崩れた。これはショックだった。
「でも・・・でも・・・」
何か言わなければという焦りが達彦の心を乱す。だがここで反論する事は、すなわち堤へ『あなたもいつ連中の仲間になるか分かりませんよ?』と言うに等しい。達彦はなおも食い下がりたくなる気持ちを無理矢理抑え、口ごもった。
そんな達彦の様子で悟ったのだろう、堤は自嘲気味に口を歪めた。
「いいのよ、分かってる。既成ワクチンを事前に接種した者は危険・・・連中のようになる可能性が高いって事ね。ここに来るまでにいろんな人達に聞いてみたわ。私も新型インフルエンザと既成ワクチンンっていう問題が気にはなってたから」
溜息をひとつ吐く。
「インフルエンザを発症した後何らかの処方を受けて回復した人は居た。でも事前に予防接種を受けてなお人間であるという事を維持している人はゼロ・・・私以外には」
堤は俯き、歯磨きガムの包みを開ける。ガムを口に放り込み、言葉を続けた。
「もし本当にワクチンが原因なら、私は爆弾と同じよ。いまこの瞬間にもあの狂った連中と同じようになってあなた達を襲うかもしれない。だから・・・一緒に居るのはこれでお終い。あの人達とも離れられて良かったのよ」
先ほど何かを言いよどんでいた堤の様子を思い出す。きっとこの事を伝えようとしていたのだろうと達彦は思った。
「そんな・・・諦めたような事を言うものじゃないですよ・・・」
立ち上がり、玄関へと進む堤へ、ほとんど反射的に声を掛けた。達彦の出した提案はこうだ。柚木が完全に回復し移動可能になるまで201号室に滞在する事。そしてもしもその期間堤の身に何も起こらなかったら、今後一緒に行動し浮島キャンプを目指すという事。柚木の様子からして、あと3日くらいは休ませたい。判断するには丁度良い期間だろう。
「私が化けたら、ちゃんと殺してね」
堤はニヤリと笑い、その提案を受けた。