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発生 1

 2008年1月。正月明けの浮かれた雰囲気から、人々はようやく日々の慌ただしさへと生活のリズムを戻していた。

毎日毎日、事件や事故で人は死ぬが、当事者にでもならない限り誰も何も言わず、その他雑事と共に流れていく。日本経済も家計を揺るがす程の深刻な問題にまで達しない限りは同じく誰も何も言わないのだ。皆それぞれが淡々と、まるで与えられた役割をこなすかのように手馴れた様子で毎日を生きていた。

そして、これまでの生活がそうだったように、誰もが来年も再来年もその先もずっと、きっと変わらない生活(退屈ではあるが幸せな)が続くものだと信じていた。


  ・


 午前6時10分。香川達彦は東急東横線日吉駅の横浜方面行ホームに立っていた。いつも乗っている急行電車が到着するまではまだ少し時間がある。達彦は今朝自宅から持って出てきた新聞を開きながらホームのベンチに腰掛けた。まずいつものように裏から、テレビ欄から目を通す。帰宅後のささやかな楽しみの1つであるテレビだが、残念ながら今夜は面白そうな番組は無いようだ。番組チェックを終え、今度は1面から順に目を通していこうと新聞をくるりと裏返す。と、そこへお目当ての急行電車がホームへと入ってきた。

 電車に乗り、がらがらに近いくらいの車両の中をゆっくりと移動し、達彦は座席に座った。周りをちらりと見ると、自分と同じくスーツを着た男性が2人と、私服姿(といっても、お洒落重視ではなく、工場や倉庫等で作業する者特有の雰囲気が感じられる)の若者や中年達が6人程乗り合わせていた。いつもより乗客の数は少ないようだ。通勤ラッシュにはまだ少し早い時間だが、それでも少ない。

『まぁ・・・無理もないよな、かなり流行ってるみたいだし』

頭の中で呟きながら、手に持った新聞に視線を落とす。1面には、かなり大きな見出しで新型インフルエンザが日本に上陸しているという旨が書かれていた。その見出し通り、新型インフルエンザは広範囲で猛威を振るっており、すでに大勢の人が感染している。事実達彦の勤める会社内でも、ここ何日かの間に欠勤する社員が増えてきていた。なにぶん新型なので、ワクチンが無いというのが問題視されているようだが、国はこれまでの既成ワクチンを接種するよう呼びかけているし、医療機関もそれに応えているため特別大きな混乱は今に至るまで起こっていない。幸いな事に、達彦の身体は健康そのもので、また医学関係にも興味や知識が無い事からこの話題は軽く流す程度にしていた。予防接種だって受けていない。

 車内アナウンスがもう間もなく横浜駅に到着すると告げた事で、達彦の意識は仕事へと切り替わった。今日中にやらなければならない仕事が山のようにあって、果たして何時に帰宅出来るのかまったく分らない。開いたドアから吐き出された乗客の流れの中で、達彦は溜息を1つ洩らし俯き気味に会社へと歩きだした。


  ・


 達彦の勤める会社は、横浜駅から徒歩で5分程の場所にある。全面ガラス張りの、決して大きくはない小綺麗なそのビルの4階にオフィスを構えるその会社が、達彦の生活を守っているのだ。達彦はビルの入口ドアをくぐりながら、ちらりと腕時計を見る。時計はいつも通りの時間に会社に到着した事を示していた。仕事の開始は7時から。一般的には9時から仕事を始める会社が多いのだろうが、この会社は違う。ここは、工場や倉庫に労働力を提供している、いわゆる派遣会社なのだ。派遣するスタッフが早朝から動けば、必然的に達彦等社員も動かなければならず、また休日だろうが祝日だろうが、顧客が動けば同じく必然的に会社も動く。ずいぶん泣きたくなる仕組みだ。入社して3年、疲れも蓄積してきた。 

 オフィスに入り、自分のデスクへ向かう達彦へ、同僚である柳沢が声を掛けてきた。

「おぅ、おはよ。俺もお前も、今日は担当してる現場に詫びを入れに行かにゃならん。派遣予定のスタッフが半分くらい欠勤だとさ。ラインが動かせないって、さっき現場からえらい剣幕で電話が掛かってきたぞ。あれは相当キテる時の声だ」

柳沢は腕を組み、にやにやしながら話している。達彦がスタッフの欠勤理由を聞こうと口を開けたのと同時に、オフィスの奥から達彦を呼ぶ声が聞こえてきた。このオフィスのボス、藤岡支店長だ。柳沢が肩をすくめ、『行ってきな』と顎をしゃくる。

「おい、香川。昨日話した見積書と提案書、それに昨年12月までの売り上げと稼動数のデータ、これ今日中に頼むぞ。今日中に仕上げて持って来てくれ。何時に出来上がる?」

藤岡のデスク前に移動し、挨拶する間も無くそう切り出された達彦は一瞬考える。通常の仕事に加え、大量欠勤で現場に詫びを入れに行かなくてはならないと知らされた今(事実これはかなりのタイムロスだ)、18時までに終わります等とは言えない。

「完成したら支店長のデスクに置いておきます。明日の朝には支店長のお手元にちゃんとありますよ。大丈夫、校正の必要が無いくらい完璧に仕上げますから」

思い切るしかあるまい。達彦は藤岡に向って告げた。

「分かった分かった、自信があるという事で、期待して良いんだな?じゃあ早速仕事にかかれ!ほら、行け行け!」

達彦の返答に一応の満足を得たのか、藤岡はそれ以上何も言わず手を振り達彦を送り出した。

達彦がデスクに戻る間も、相変わらず柳沢はにやにや笑いを続けており、さも良い事を聞かせてもらったと言いたげな視線を寄越していた。あいつは基本的には良い奴だが、時々調子に乗り過ぎるきらいがある。達彦が批判の1つでも言ってやろうと近づいていくと、柳沢は急に真面目な表情をして、

「詫び入れ、お前の分も行ってやるよ。だからお前は任された仕事に専念しろよ」

と言った。予想していたものとはあまりに離れた言葉だったため、達彦が返答に困っていると柳沢が言葉を続けた。

「それに、昇格が懸かってるんだろ?加奈子ちゃんとの将来のためだし、頑張れや」

表情はにやにや笑いに戻っていたが、その言葉には本当の応援の意があった。

「ん・・・ありがとな」

加奈子の名前が急に出てきた事で照れくさくなってしまい、達彦は言葉少なに礼を言った。そして、先程聞きそびれた質問をした。話題変えには多少強引だったかもしれないが・・・。

「ところでさ、そんなに大勢のスタッフが欠勤なんて、理由は何だ?」

柳沢は自分のパソコン画面に顔を向けながら溜息を吐き、答えた。

「インフルエンザだよ、ここんとこ流行ってる新型のさ。まったく冗談じゃないぜ」


  ・


 午後19時30分。達彦は仕事を続けていた。売り上げと稼働数データの集計、見積書は完成しているが、最後の提案書の作成に苦戦している。何しろこの提案書の出来次第で相手のこちらへの興味が決定するのだ。プレゼンを行うのは人間だが、提案書の出来も良いに越した事はない。達彦は過去に自分が受け持った提案書のデータや、相手から得た要望書を何度も読み返しては仕事を進めていった。達彦はこの仕事に賭けていた。今朝柳沢が言ったように、この仕事で結果を出せば昇格も夢ではない。3年目にして廻って来たチャンス、チャレンジする価値は充分ある仕事だ。

 ふと、ビルの外から微かに叫び声のようなものが聞こえてきた。達彦はパソコンの画面から目を離し、今自分の耳に届いた声がもう1度聞こえてこないかと待ってみた。しかし、いくら待っても聞こえてくるのは微かな風の音と、それに乗って届く街の喧噪だけだった。結局、集中力を途切れさせただけだ。達彦は1度大きく伸びをし、デスクの上のカップを見た。もうコーヒーは冷めてしまっている。淹れ直してくるついでに煙草も吸いたいと思い、達彦は席を立った。今このオフィスには達彦1人しか居ない。皆もう帰ってしまっていて、天井の蛍光灯も達彦のデスクの上の物しか点いていない。蛍光灯1つの薄暗い室内の中、達彦はコーヒーメーカーまで移動しながら携帯電話を開く。メールが1通届いていた。コーヒーメーカーにカップをセットしながらそのメールを確認した。送り主は加奈子だった。


≪お疲れ様!今日も残業?・・・心配。あまり無理しちゃダメだよ?私はこれから会社の友達と食事に行きます、帰りは少し遅くなるかも。場所は六本木。帰る時にまた連絡するね、達彦も時間が合えば一緒に帰ろう。お仕事終わったら連絡ちょうだい≫


加奈子が住んでいるのは品川だ、一緒に帰ろうって・・・何処へ?もしかしたら今夜は俺のアパートに泊まるつもりなのかな。まぁ、確かに明日は加奈子は休みだけどな・・・。

『ちゃちゃっと終わらせて合流するか』

会えるかもしれないと思うと素直に嬉しい。達彦は微笑しながら熱いコーヒーが注がれたカップを手に、喫煙室へと移動した。

 煙草に火を点けながら窓から外の様子を見る。例のインフルエンザの流行が原因だろうか出歩く人の数はいつもより少ないが、それでも通りは賑わっていたし、明らかに酔っ払っているであろう数組のグループが奇声を発しながら歩いている。

『あぁ・・・さっきの声はあれか・・・』

達彦は納得し、煙草を吸う間ずっと外の様子を見続けた。煙草を揉み消し、そろそろ仕事に戻ろうかという時、また悲鳴のような声が通りから聞こえてきた。酔っ払い達が少々悪ノリをしているものと決めてかかっていた達彦は、自分がみたものを信じる事が出来なかった。達彦は最初喧嘩だと思った。しかし普通の喧嘩なら相手に噛み付いたりはしないはずだ、ましてや喉元から激しく血を噴出させる程噛み付いたりはしない。噛み付いているのは女性(この寒いのに薄手のニットとジーンズだけだ)で、噛み付かれているのは体格の良いガテン系の若者だった。若者の着ている服は元が何色か分からないくらい血で染まっていて、しかも悪い事に若者はすでに動いていないように見える。

 ニット女とガテン男の2人に目を奪われていたおかげで気付くのが遅れたが、今、達彦が見下ろしている通りのあちこちで悲鳴が起こり、喧嘩(この時点で達彦はあれが喧嘩ではないと思っていたが)が発生していた。混乱はみるみる拡がり、それと共に歩道には血を流し倒れる者が溢れていった。中学生くらいだろうか、制服を着た少女が追手から逃れようと道路に出た瞬間、タクシーがもの凄いスピードで少女に衝突しその身体を文字通り宙に舞わせた。タクシーの運転手が慌てて出てきたが、少女を追っていた者が標的を変更したのか今度はその運転手に向け突進していった。運転手は倒れ込み、車体の影に隠れたため詳細は見ずに済んだが、そこで何が行われているか達彦には想像出来た。急停止したタクシーのおかげで後続の車は次々と停止し、進路を阻まれた運転手達が上げる怒声やクラクションで通りは一段と騒がしくなった。

 窓の下、4階下で起こっている惨事に達彦が呆然と見入っていると、喫煙室の外からこのオフィスのドアが開く大きな音が聞こえた。達彦はいきなりの音にすっかり驚いてしまい、思わず持っていたカップを落としそうになった(中身はほとんどこぼれた)。喫煙室のドアの向こう、今は暗く静かなオフィスの中から、はぁはぁと荒い呼吸音が聞こえてくる。

『何だ!?誰だ!?もしかして連中の1人か!?』

頭の中で叫ぶ。必死に息を殺し、入ってきた者に自分の存在を悟られまいとぐっと堪えた。理由は分からないが酷い殺し合いをしていた連中だ、わざわざ自分から接触する必要はあるまい。

 入ってきた者が誰であれ、そいつはうろうろと歩き回る事もせず、じっと動かないでいるようだった。はぁはぁという荒い呼吸音は相変わらずだったが、その呼吸音の中に時折すすり泣くような声が混じり、それは達彦の居る喫煙室の中へドアを通して聞こえてきた。女性の声だった。外の血みどろな惨状を見、その後に響いたドアを開ける大きな音という奇襲のような驚きに我を忘れていた達彦だったが、すすり泣きが聞こえてくる頃になるとだいぶ落ち着きを取り戻していた。ドアの向こうに居るのが何者かは知らないが、少なくとも表で騒ぎを起こしていた側の者ではなさそうだ。もし騒ぎから逃げてきた被害者の1人なら、詳しい話が聞けるかもしれない。そう考え、達彦はゆっくりと喫煙室のドアを開けた。

 たった1つの蛍光灯が照らすオフィスの中を、達彦は慎重に移動し侵入者を探した。すすり泣く声はオフィスのドアのすぐ前から聞こえていた。目を凝らすと、薄ぼんやりと蹲った人影が見える。やはり、女性のようだ。こちらにはまだ気付いていない。達彦は必要以上に驚かせないよう気を付けながら、やや距離を取り声を掛けた。

「その・・・君?大丈夫かい?」

誰も居ないと思っていたのだろうか、達彦の声でその人影は暗くてもはっきりと分かるくらい身体を震わせ振り向いた。

「香川さん・・・?香川さんですか!?」

人影はもぞもぞと動き、手を床に着き膝立ちのままこちらに向かってくる。

「私・・・私です!!柚木です!!」



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