エピソードⅤ 暗黒の魔導師
エピソードⅤ 暗黒の魔導師
フィリアから何の連絡もないまま数日が過ぎた。
ラウルのオールド・ドラゴンを倒せたという興奮もすっかり冷めて、いつもと変わらない日常が戻ってきた。
相変わらずエレナは王都の見回りの仕事をしているし、ルーシェも王立図書館の本を読み続ける毎日が続いている。
ドラゴンに勝ったからと言って、何かが変わるわけではなかった。
とはいえ、ギルドではまたラウルの冒険者ランクが上がった。
これでラウルが引き受けられない仕事は、事実上、なくなったと言える。だが、大人と同じ扱いをされるようにもなったのだから責任も付きまとう。
一時、高い評価を得ても、何かの失態ですぐに帳消しになってしまうことは良くあることだった。
浮かれすぎには気を付けなければとラウルも自らを厳しく律する。
ラウルはリーネの作ってくれた朝食を食べながら、フィーネリア女王の病気は治らなかったのだろうかと心配になる。
フィーネリア女王がかかっているのは不治の病だと言うし、幾ら大珠の瞳を使っても、そう簡単には治らないのかもしれない。
だとすれば、長い目で見るしかない。
だが、もし大珠の瞳を使っても病気が治らないとなると完全にお手上げだった。
ルーシェは創造神ゼクスナートなら、不治の病どころか死者すら蘇らせることができると言っている。
だが、ゼクスナートに会うにはこの世界のどこかにいる善神サンクナートと邪神ゼラムナートの両方に認められなければならない。
ある意味、それは不老不死の体を手に入れることよりも難しいらしいのだ。
となると、今は祈るしかない。
ラウルは厚切りのベーコンに齧り付きながら、のんびりとした時間を過ごした。
すると、食堂に華やかな赤い騎士の制服を着た女性が現れる。その女性はラウルが見ている前でフィリアを厳しく嗜めたシモーヌだった。
「おはようございます、ラウルさん」
シモーヌはラウルの前まで来ると、そう言って一礼して見せた。そのこなれた仕草を見て、ラウルは自分の体が固くなるのを感じる。
シモーヌの立ち振る舞いは優雅に見えて、隙というものが全くなかった。きっと剣の腕も立つに違いないと判断する。
「おはようございます」
ラウルはどう反応して良いのか分からず挨拶を返していた。
「前にあった時には自己紹介をしていませんでしたね。私は近衛騎士団の副団長を務めているシモーヌです」
シモーヌは凛とした表情で言った。
「はあ」
ラウルは少し間の抜けた声を出す。近衛騎士というと、王宮にいる要人を守っている騎士のことだな。
「あなたには報告しておきますが、現在、フィリア様は王宮で謹慎させられています。国王陛下の意向を無視し、再びオールド・ドラゴンと戦ったせいで」
それを聞いて、ラウルは反駁するように口を開く。
「でも、オールド・ドラゴンにはちゃんと勝てたんですよ」
ラウルは声が大きくなるのを抑えきれない。
「大珠の瞳だって見事、持ち帰ったわけだし、褒められることはあっても、謹慎させられる理由はないはずじゃ」
理不尽だと言いたくなる。
「その通りですが、もし、あなたやあなたのご友人がオールド・ドラゴンとの戦いで死んでいても、同じことが言えましたか?」
シモーヌの言葉は冷ややかだった。
「それは…」
ラウルは何も言い返せなかった。
「自分の行動には責任を持たなければならないのが王族なのです。結果だけを見て、その行動の是非を決めることはできません」
シモーヌの言葉は全くの正論だった。
「そうかもしれませんね。それで、フィーネリア女王どうなったんですか?もう病気は治ったんですよね?」
フィーネリア女王が助かったのなら、ラウルの私情なんてどうでも良いことだった。
「女王陛下の病気は治っていません」
シモーヌの目が怜悧に光った。
「どういうことですか?」
ラウルは心臓の鼓動が跳ね上がる。
「大珠の瞳から作られる霊薬は確かにどんな病も治す力があります。ですが、その霊薬を作ることができる者が今の王宮にはいないのです」
「そんな」
ラウルは自分のたちがやったことは無駄だったのかと思い脱力した。
「大珠の瞳から霊薬を作ることは大賢者ウルベリウス様にさえできませんから。ですので、他の魔法使いたちにできる道理がありません」
シモーヌは淡々と続ける。
「もし、それができるとしたら、暗黒の魔導師ヘルガウストしかいないでしょうね」
ラウルはヘルガウストの名前を聞いて嫌なものを感じた。
「ヘルガウストは非人道的な研究を繰り返してきた人物ですが、その一方で魔導具や魔法薬を作る技術においては他の追随を許しませんでしたから」
ヘルガウストが、ある意味、偉大な魔法使いだったことはラウルも知っていた。
「なら、ヘルガウストに頼むしか…」
背に腹は代えられない。
「ヘルガウストを王宮から追放したのは他ならぬ女王陛下なのです。その女王陛下を助けるためにヘルガウストが霊薬を作ってくれるはずがありません」
「頼んでみなきゃ分からない」
つまらない意地の張り合いなら止めた方が良い。
「そう、フィリア様も仰っています。ですから、勝手にヘルガウストの元に行かないよう、フィリア様は謹慎させられているのです」
「そうですか」
なら、フィリアが王宮から出られないのも納得できる。
「とにかく、国王陛下はフィリア様がお世話になったお礼も兼ねて、あなたとあなたのご友人に会いたいと言っています」
「俺たちに?」
ラウルは自分の顔を指さした。
「はい。私はそれを伝えにここまで来たのです。強制をするつもりはありませんから、ご友人と良く話し合われた上で王宮に来てください」
シモーヌは懐から封がしてある手紙のようなものを取り出す。
「この書状を警備の兵士に見せれば王宮にはいつでも入れます」
シモーヌはラウルに書状を渡すと「では、これで」と言って頭を下げる。それから、キビキビとした足取りでラウルの前から去って行った。
残されたラウルは厄介なことになったと思いながら、絶妙の苦さのコーヒーに口を付けた。
ラウルはエレナとルーシェと共に絢爛豪華な宮殿の中を歩いていた。
床には絨毯が敷かれ、壁は琥珀色の光沢を放っている。天井からは煌びやかな光を放つシャンデリアがぶら下がっていて、明かりが絶えない。
そんな通路をラウルたちは使用人の女性に案内されながら進んでいく。
「王宮って、こんなに凄いところだったんだ。アタシも住んでみたいけど、何だか息が詰まりそう」
エレナは通路に立っている近衛騎士を横目にしながら言った。
「私は王宮に客人という待遇で住んでいたことがあるわ。でも、いつも使用人や近衛騎士たちに見張られているみたいで良い気持ちはしなかったけどね」
ルーシェは砕けたように肩を竦めた。
「おいらも王宮で出される料理はあんまり好きになれなかったんだよな。むしろ、使用人や兵士たちの食ってる料理の方が旨かったぜ」
ジャハナッグは過去を懐かしむような目で言った。
「俺はやっぱり子鹿亭が一番、良いよ。住めば都っていう言葉もあるし、身の丈に合った生活がしたいな」
ラウルは自分の家に不満を持ったことは一度もない。
「だよね。こんなところに住んでいたら性格まで変わっちゃいそうだし、アタシはちょっと怖いな」
エレナは横手にある天使の描かれた絵画を見て言った。
「つまりはそういうことよ。大切なのは、住む人に合った家かどうかなんだから。私も子鹿亭が一番、落ち着けるわ」
ルーシェはラウルにとっては嬉しくなるような言葉を口にした。
「でも、フィリアはこの王宮にずっと住み続けてきたんだ。一体、どんな気持ちで、フィリアは育ったんだろうな」
ラウルはぼやくように言った。
フィリアが幸せな生活をしていなかったことは容易に想像が付く。だが、食うに困るような生活をしていなかったことも確かなのだ。
それでは、貧しい民の心は分かるまい。
結局、どんな人間に生まれても、本当の幸福などないのではないか。
そんな諦観を抱きながらラウルは宮殿の廊下を歩いた。
それから、ラウルたちは気を紛らわすような話をしながら、見たこともないような大きな扉の前にまでやって来る。
この扉の向こうに国王のいる謁見の間があるのだろう。ルーシェはともかくラウルやエレナに緊張するなと言う方が無理があった。
ラウルが圧倒されていると使用人の女性が頭を下げてラウルたちの前から下がる。
それを受け、ラウルは躊躇いがちに扉を押し開けた。すると、抜けるような高い天井を持つ大広間があった。
大広間、いや、謁見の間の一番、奥には玉座が会った。そこには壮年の男がいて、確かな貫禄を持って座っている。
その服装も何とも豪奢なものだった。
「良く来てくれた、ドラゴンを倒した勇者たちよ。そんなに恐縮したような顔をしてないで、前に進み出てくれ」
男は貫禄のある声で言った。
その声は広い謁見の間に響き渡る。ラウルは緊張感で体がガチガチになるのを感じながら足を踏み出す。
「はい」
そう言われたので、ラウルたちは玉座から八メートルくらいの場所まで歩み寄る。そこには赤いカーペットが敷かれていた。
「知っての通り、私はサンクリウム王国の国王、アルベールだ。娘が大層、世話になったようだな」
アルベールは髭の生えた顔に笑みを刻んだ。
ラウルもアルベールの顔を見たのは初めてだったが、なかなかの人物に思えた。フィリアはアルベールをあまり高く評価していなかったが。
「そんなことは」
国王相手に下手なことは言えない。
「謙遜しなくても良い。娘が生きて帰って来れたのは、みな、そなたたちのおかげだ。娘に変わって礼を言わせて貰う」
アルベールは手にしていた錫杖を持ち上げた。
「はあ」
ラウルは謁見の間の空気に飲まれて曖昧な返事しかできない。
「娘は思慮を欠いたような人間ではないのだが、母親のフィーネリアと同じで頑固なところがあるからな」
アルベールは顎髭を撫でる。
「一度、決めたことは絶対にやり遂げなければ気がすまないのだ。私は常々、柔軟性を持つように言い聞かせておるが聞く耳を持たん」
アルベールも人間としては良くできた人物なのだろう。ただ、フィーネリア女王が偉大すぎただけだとラウルは思った。
「だからこそ、私もこの度のことではフィリアに随分と辛く当たってしまったし、それについては猛省しておるよ」
アルベールは自嘲の笑みを浮かべた。
フィリアは自分はアルベールから嫌われているようなことを言っていたが、そんなことはないみたいだとラウルは安心する。
アルベールは心からフィリアのことを案じている。ただ、その思いがフィリアには通じていないだけで。
「そなたたちも随分と振り回されたことだろう。だが、最後まで娘に付き合ってくれたことには感謝する」
アルベールはふっと息を吐いて笑った。
「もちろん、その感謝は言葉だけでなく、しっかりと形にするつもりだ。その上で、そなたたちには頼みたいことがあるのだ」
アルベールは本当に心苦しそうな顔をした。
「何ですか?」
ラウルは何を言われるのか想像が付いたが、そう尋ねていた。
「フィーネリアの病を治すために大珠の瞳の霊薬が必要なのは知っておろう。が、霊薬はヘルガウストでなければ作れぬ」
アルベールは複雑な顔で言った。
「聞いています」
ラウルは相槌を打つ。
「だが、ヘルガウストは王宮に強い恨みを抱いているし、奴の傍には魔界の支配者、魔王アルハザークも控えている」
アルベールの顔に恐怖の感情がありありと浮かんだ。
「そんな奴のところにフィリアを行かせるわけにはいかん」
アルベールは更に言葉を続ける。
「魔王アルハザークはオールド・ドラゴンなどとは比べものにならないほどの恐ろしい奴だ。奴の怒りを買ったら、今度こそフィリアは殺されかねん」
さすがに魔王と戦う勇気はラウルにもない。
「いや、フィリアどころかこの王都すら滅ぼされかねないのだ」
アルベールは錫杖を握る手を震えさせた。
「アルハザークがその気になれば、魔界のゲートを開きモンスターの大軍勢を呼び寄せることも可能だからな」
ジャハナッグでさえ、魔界のゲートが開けるのだ。魔王であるアルハザークにできないと言うことはない。
「この国は過去にアルハザークの僕、魔将アルゴルウスの率いる大軍勢と戦い滅ぼされたかけたこともある」
それはラウルにとって聞いたことがある話だった。
「その上、アルハザークの飼い慣らす恐るべき魔獣アルカンデュラは三万人の兵士をむごたらしく殺した」
言い伝えではアルカンデュラを倒すために兵士だけでなく五十頭のドラゴンも犠牲になったという。
アルゴルウスもアルカンデュラも普通のモンスターとは桁が違う強さを持っているのだ。
「もし、善神サンクナートの助力がなければ、今頃、この国はリバインニウムに存在していなかっただろうよ」
それは恐ろしいとラウルは思った。
とはいえ、そこまでの力があるアルハザークがなぜ人間の魔法使いと一緒にいるのだろう。
不思議と言えば不思議だった。
「だから、俺たちにヘルガウストのところに行って欲しいと言うことですか?」
ラウルは不敬にも、そう聞き返していた。
「そういうことになる。もし、ヘルガウストを説得して霊薬を作らせることができたら、一億シュケムを払おう」
アルベールもフィーネリア女王を助けたいという気持ちはあるのだ。
「もちろん、名誉騎士か、名誉市民の称号も授ける。どうだろうか?」
アルベールは顎をしゃくった。
「分かりました。フィーネリア女王のためなら、例え見返りなどなくてもヘルガウストのところに行きます」
ラウルがそう言うと、アルベールはそこでようやく穏和な笑みを浮かべて見せた。
「そうか。その力強い言葉はさすがフィリアが認めた人物だけのことはある。そなたのような男こそ、フィリアの伴侶に相応しい」
アルベールは笑えない冗談を言って、ラウルを動揺させた。
が、その瞬間、謁見の間の扉が開く。そこには大きくて長い木の杖を持った白髪の老人とフィリアがいた。
フィリアの肩には白金色のドラゴンもいる。このドラゴンこそ邪竜ジャハナッグのライバルである聖竜エリュミナスだった。
「どうした、ウルベリウス」
アルベールが眉を顰める。
というと、この老人が大賢者と称えられるウルベリウスなのかとラウルは興味を覗かせる。
ラウルにはただの人の良さそうな老人にしか見えなかったが。
「フィリア様がどうしても陛下と話し合いたいと言って聞かなかったのです。ですから、仕方なく連れてきました」
ウルベリウスはフィリアの肩にそっと手を置いた。
「お父様、私は何があろうとヘルガウストの元に行きます。もし、それを止めるなら、例えお父様でも切って捨てますよ」
フィリアの目には剣呑な輝きがあった。
「落ち着きなさい、フィリア」
アルベールは厳しい声音で言った。
「落ち着いてなどいられません。あと、もう少しでお母様の病気が治るというのに、手をこまねいてなどいられるはずがないでしょう」
フィリアはもどかしさを感じさせるように言った。一方、アルベールは泰然とした態度を崩さない。
「だからこそ、私もこの者たちにヘルガウストの説得を頼んだのだ。お前が焦らずとも、この者たちがきっとヘルガウストを説得してくれる」
アルベールはラウルたちのいる方に手を掲げた。
「なら私も行きます」
フィリアは一歩、前に進み出る。その凛々しい顔には確かに王女としての風格が備わっていた。
「それは駄目だ。フィーネリアの娘であるお前が行けばヘルガウストの怒りに火を付けることにもなりかねん。その程度のことがなぜ分からぬ」
アルベールは嘆くように首を振った。
「でも、私だって何もしないわけには…」
フィリアは食い下がるように言った。
「逸る気持ちは分かるが、ウルベリウスと共に大人しくこの王宮で待っていなさい。お前もこの者たちを信頼していないわけではないだろう」
アルベールの言葉にフィリアは唇を噛んだ。
「はい」
フィリアは項垂れた。そんなフィリアの肩をウルベリウスが掴む。
「フィリア様、自らの感情を抑えなさい。今のフィリア様を見たら、フィーネリア様もきっと、お叱りになることでしょう」
ウルベリウスはフィリアを諫めるように言った。
「フィーネリア様のことを真に思うのなら、ここは我慢の時ですぞ、フィリア様」
ウルベリウスの言葉にフィリアは薄く目を閉じた。
「分かりました」
フィリアは恥じ入るような顔をした。
「よろしい。その聞き分けの良さこそ、本来のあなたです。今日の授業はまだ終わっていませんし、自室にお戻りください」
ウルベリウスは入り口の扉を指さした。
それを受け、フィリアはラウルの方をちらっと見ると、後ろ髪を引かれるように謁見の間から去って行った。
「客人の前で見苦しいところを見せてしまい、申し訳ありません、陛下。これも私の教育が至らない結果でして」
ウルベリウスは面目なさそうに言った。
「いや、ウルベリウスは良くやっている。フィリアがああなってしまったのは私の愛情が足りなかったせいだ。そのことで、そなたが気に病むことはい」
アルベールは疲れたような顔をする。
「そうですか。では、私はこれで下がらせて頂きます」
ウルベリウスは小さく頭を下げると、謁見の間から出で行こうとした。だが、それを呼び止める声が発せられる。
「随分と丸くなったものね、大賢者ウルベリウス。あなたが、あんな風に優しく人を諭すなんて、昔じゃ考えられないわ」
愉悦を感じさせるように言ったのはルーシェだ。
「邪神の僕に成り下がったお前に私のことをどうこう言って貰いたくはないな。お前に魔法を教えたことは我が人生、最大の過ちだ」
顔に精気のようなものが戻ったウルベリウスは怒りに満ちた声で言った。
「言ってくれるわね。不老不死の体をくれるって言うなら、誰にだって魂を売るわよ。それが人間ってもんでしょ」
ルーシェは大仰に肩を竦める。
「分別なき人間に魔法を扱う資格はない。お前には口を酸っぱくして教えたはずだが、忘れたと言うのか?」
ウルベリウスは突き刺すような目でルーシェを直視した。
「百年も生きていると余計な記憶はなくなっていくのよね。あなただって何とかして自力で老化を食い止めているようだけどいつまで持つか」
ルーシェの瞳に過ぎったのは悲しみだろうか。
「人が死ぬことは、自然の掟だ。その掟を覆すことなどあってはならない」
ウルベリウスは声を大にして言った。
「その掟を決めたのは自然ではなく神々よ。神々の押しつけた掟に従っていては、いつまで経っても人間は進歩しないわ」
ルーシェは持論を口にする。
「かもしれん。だが、私は人が神の領分に足を踏み入れることなど、あってはならないと思っている」
ウルベリウスは涅槃にでも達したような声で言葉を続ける。
「その結果、死ぬというなら、それも受け入れよう」
そう言い切るウルベリウスの言葉に弱々しさは欠片もなかった。
「頑迷ね。ま、あなたが自分が死ぬのは仕方がないことだと言うのなら、私から言うことは何もないわ。ただ、あなたほどの人間が死ぬのを惜しいと思うだけよ」
ルーシェは小悪魔のような笑みを浮かべた。これにはウルベリウスも青筋を蠢かせる。
「私が死んでも私の代わりになれるような人間は幾らでもいる。本来なら、お前もその一人になるはずだった」
ウルベリウスは虚空を見るような目で言った。
「期待に添えなくて悪かったわね。あいにくと、私は誰かに何かを押しつけられるのが嫌いなのよ」
自由を愛するルーシェらしい言葉だ。
「自分のやるべきことは、自分の手でやり遂げるわ。私はあなたのように大切なことを誰かに託したりできるようなタイプじゃないし」
その言葉を聞いたウルベリウスは無言でルーシェに背を向けると、謁見の間から出て行こうとする。
が、急にその足を止めた。
「予言しよう。お前にはいつか必ず恐ろしい災厄が降りかかる。その時は死よりも苦しい生を味わうが良い」
振り返ることなく発せられたウルベリウスの言葉にルーシェがビクッと肩を震わせた。
「望むところよ」
ルーシェは笑みを掻き消すことなく気丈に言った。それから、ウルベリウスは今度こそ謁見の間から出て行く。
すると、特に羽をはばたかせるわけでもなく、宙に浮いていた白金色のドラゴンが口を開いた。
「ジャハナッグ、あなたとの勝負もこの次で百回目。もし、この私が勝ったら竜神の杖・サンクウォルトは渡して貰いますよ」
その場に残っていた聖竜エリュミナスは小川のせせらぎのような声で言った。もちろん、勝負というのはチェスのことだ。
もはやドラゴンが大空を飛び回りながら火を吹きあって戦える時代ではない。
「良いだろう。その代わりおいらが勝ったら、この宮殿に保管されているワインは全て飲み尽くさせて貰うからな」
ジャハナッグは血のような赤いワインを思い出し、舌なめずりをする。
「構いませんよ。私はワインになど興味はありませんので」
エリュミナスは首を竦めた。
「ワインの味が分からないなんて、お前、人生を相当、損しているぞ。ドラゴンに酒を飲むことを禁じたサンクナートは大馬鹿者だな」
ジャハナッグの言葉にエリュミナスが顔をしかめる。
「我が父を冒涜するのは止めて頂きたい。まったく、竜神ゼグディオンはなぜあなたのような品性の欠片もないドラゴンに竜神の杖・サンクウォルトを預けたのでしょうね」
エリュミナスは理解に苦しむと言った顔をした。
「さあな」
ジャハナッグは投げやりな態度で言った。それを聞き、エリュミナスはニヤッと笑って謁見の間から去って行く。
それを見たラウルは聖竜と言えども、氷のような冷たい目をするエリュミナスを好きになることはできそうにないなと思った。
次の日の昼、ラウルはエレナとルーシェと一緒に食堂にいた。そこで一緒に昼食を食べていたのだが、漂う空気は何とも重々しいものだった。
オールド・ドラゴンの時でさえ、こんな暗い空気に包まれることはなかった。
リーネの作る昼食がいつもより美味しかったのが、みんなにとってのせめてもの救いだった。
「これから、ヘルガウストの屋敷に行くわけだけど、何か問題があるかな」
ラウルは何が起きても良いように帯剣していた。
話し合いに剣を持って行くのは失礼に当たると思ったが相手が相手だし、それくらいの用心は必要だと思ったのだ。
「アタシは大丈夫よ。剣と盾は持ったし、相手が誰であっても問題なく戦えるわ。ただ、勝てるかどうかは話が別だけどね」
エレナは防具まで装備していた。
どう見ても話し合いに行くような格好ではないし、ヘルガウストを不快にさせやしないかとラウルも心配になる。
「戦いは避けた方が賢明よ。暗黒の魔導師ヘルガウストは力だけなら大賢者ウルベリウスよりも優れているんだから」
そう言いつつも、ルーシェは魔法使いのローブを着て、杖を手にしている。やはり戦いになった時のことを想定しているのだろう。
「正直、まともに戦ったら私でも勝てないでしょうね。ましてや、魔王アルハザークが一緒にいるなら尚更よ」
ルーシェの言葉はラウルの不安を煽った。
「魔界の王の力は伊達じゃないぜ。もし、アルハザークに勝てる奴がいるとしたら、サンクナートかゼラムナート様だけだろうな」
ジャハナッグが本来の力を取り戻してもアルハザークには勝てないのだろうかとラウルは聞きたくなった。
もし、そうだとしたら、どう足掻いても自分たちに勝てる相手ではない。
「なら、戦うことにならないように慎重な態度を心懸けるべきだな。口にする言葉も良く選ばないと」
ラウルは何があっても自制が求められると思いながら言った。
「ええ。今度ばかりは相手が悪すぎるわ」
ルーシェは肩にかかる銀髪を流れるように払う。
「国王陛下の言葉じゃないけど、ヘルガウストを下手に刺激すれば死ぬのは私たちだけじゃすまなくなるし」
ルーシェの懸念はもっともだった。
「なら、アタシはなるべく口を開かないようにするね。アタシはどうしても無神経なことを言っちゃいそうだから」
エレナは舌を出した。
それを受け、ラウルはコーヒーを全て胃に流し込むと、椅子から立ち上がる。ここで相手を想像していても始まらない。
こうしている間にフィーネリア女王の命の灯火が消えそうになっているのだから急がなければ。
「よし、鬼が出るか蛇が出るかは分からないけど、とりあえず行こう。ヘルガウストだって人間なんだから、オールド・ドラゴンとは違って話は通じるはずだ」
ラウルは奮起するように言った。
それを見たエレナとルーシェも、勇気づけられたように笑う。すると、食堂の入り口から、ここに現れてはいけない人物が現れた。
「私も行きます」
目力を強くして言ったのはフィリアだった。
あまりにも現れるタイミングが良すぎたので、ラウルも外で様子を窺っていたのだろうと察した。
「フィリア…」
ラウルは眉間に皺を寄せる。
「そんな顔はしないでください。お父様の了承はちゃんと取ってありますし、私もヘルガウスト相手に早まったことはしませんから」
フィリアはバツが悪そうな顔をした。
「でも、フィリアがいたらヘルガウストも機嫌を悪くするんじゃ」
その辺の事情は話で聞いていただけだが。
「その心配なら要りません。王宮にいる魔法使いで、かつてヘルガウストの弟子でもあった人が、ヘルガウストの屋敷に使い魔を送ってくれましたから」
ラウルたちが行くことは、向こうも既に知っていると言うことだった。それなら、ラウルたちも少しは安心できる。
「帰ってきた使い魔の報告によると、ヘルガウストは私の同行も歓迎すると言っていたそうです」
「何かの罠なんじゃ」
そう考えるのが自然だ。
「その可能性はありますが、歓迎するとまで言われては行かないわけにはいかないでしょう。ヘルガウストとて王宮を敵に回すようなことはしたくないはずです」
フィリアはある程度の自信を込めたような声で言った。
「そうかな」
「はい。もし、王宮に対する恨みを晴らしたいなら、単に魔王アルハザークの力を使えば良いだけですから」
アルハザークは余程、恐ろしい奴みたいだなとラウルは思った。そして、フィリアは更に言葉を続ける。
「サンクナート様の加護が失われつつあるこの国を滅ぼすことは、魔王アルハザークにとって、そう難しいことではないでしょうし」
この国が滅ぼされたりしたら困るとラウルは言いたくなった。
「だとすると、ヘルガウストは王宮魔法使いの座に返り咲きたいのかもしれないわね。だから、フィーネリア女王を救って恩を売りたいのかも」
そう言葉を差し挟んだのはルーシェだ。
「かもしれません」
フィリアも難しい顔で頷いた。
「ま、そういうことなら善は急げと言うし、さっさとヘルガウストの屋敷に行こう。幸いにも迷宮と違ってモンスターは出て来ないから、行くのは簡単だ」
ラウルがそう揚々と言うと、みんなは揃って頷いた。
ラウルたちは見窄らしい建物が迷路のように並ぶスラム街に来ていた。
建物の窓ガラスは全て割られていて、壁には汚い落書きがされている。道端にはたくさんのゴミが散乱していた。
他にもホームレスなどが焚き火をしていたり、敷物の上で寝ていたりもしていた。今は昼間だから良いが、夜は絶対に歩きたくならない通りだ。
ラウルはあまり長居はしたくないなと思いながら、スラム街の通りを進んでいく。すると、見窄らしいスラム街の中では異様なほど立派な屋敷が見えてくる。
地図が確かならあれがヘルガウストの屋敷だ。
ラウルは門を潜り、屋敷の敷地へと足を踏み入れる。使用人でもいるのか、敷地の庭は良く手入れがされているようだった。
木なんかも刈り込まれているし。
そして、ラウルたちは入り口のドアの前までやって来る。すると、ドアが手も触れていないのに自動的に開いてしまった。
ラウルは心臓の音がバクバクなるのを感じながら屋敷の中に入る。
すると、そこは驚くほど広いエントランス・ホールになっていた。
屋敷の中は宮殿には及ばないが、それでもスラム街には似つかわしくない豪華さを誇っている。
そして、中央の階段には十歳くらいの金髪碧眼の少年が立っていた。着ている服はかつてラウルも来ていたサンクフォード学院の制服によく似ている。
悠々としている少年を見て、ラウルはヘルガウストの子供かなと思った。
「よく来たな、お前たち。あまりにも来るのが遅いから、スラム街で迷子にでもなっているのかと思ったよ」
少年は嫌味を口にする。
これにはラウルもムッとした顔をしてしまった。
にしても、ヘルガウストは自分たちが今日、屋敷に来ることを知っていたのか。使い魔に自分たちの動向でも探らせていたのだろうか。
「自己紹介の必要はないと思うが、僕が暗黒の魔導師ヘルガウストだ」
少年、いや、ヘルガウストはせせら笑うように言った。
「君がヘルガウストか」
ラウルはただの子供ではないと察する。
視線の先にいるのは何の変哲もない少年だが、実際には凶暴なモンスターを相手にしている時のようなプレッシャーを感じたからだ。
「その通り、こんな子供の姿をしているが三百年は生きている。だから、僕には敬意を払うんだぞ」
ヘルガウストは高慢に言った。
「はあ」
ラウルはとにかくヘルガウストを刺激しないように務める。生意気な子供だなとは心の中で思っていたが。
「とにかく、大珠の瞳を使った霊薬を作って欲しいという連絡は来ている。だから、条件によっては霊薬を作ってやっても良い」
ヘルガウストはただの子供には絶対にできない邪悪な笑みを浮かべる。
「条件?」
やはり、すんなりとは作ってくれないか。
「そうだ。まず僕を王宮魔法使いに復帰させること。次に僕のする研究には費用や人材の提供を惜しまないこと」
ヘルガウストはそこで言葉を句切ると、能面のような顔で言葉を続ける。
「そして、最後に大賢者ウルベリウスを王宮から追い出すことだ」
ウルベリウスの名前を口にした瞬間、ヘルガウストの目に押さえきれない憎しみのようなものが宿った。
ラウルもルーシェから聞いていたが、ヘルガウストを王宮から追放するようにフィーネリア女王へ進言したのはウルベリウスらしいのだ。
ヘルガウストがウルベリウスを恨めしく思うのも当然のことと言えた。
「この三つの条件が飲めるのなら、霊薬は作ってやろう。どうだ、別に悪い話ではないと思うけど」
ヘルガウストの問い掛けに応えたのはフィリアだった。
「そんな条件は飲めません」
フィリアは歯を噛み締めながら言った。
「あなたが王宮魔法使いに戻れるようにすることはできますが、あまりにも非人道的な研究をしたり、この国を支えている大賢者様を王宮から追い出すようなことは…」
フィリアは逡巡するような顔をする。
「なら、帰りたまえ。僕も忙しい身だし、その程度の条件も飲めない王宮のために霊薬を作ってやる義理はない」
ヘルガウストはにべもなく言った。
「他の条件では駄目なんですか?」
フィリアは縋るように言った。
「駄目だね。僕は自分の意見を撤回するのが何よりも嫌いなんだ。それは、そこにいる懐かしき同僚のルーシェも良く知っていることだろ」
ヘルガウストはとりつく島もない態度を見せる。
「まあね」
ルーシェは辟易したように肩を竦めた。
とにかく、ヘルガウストに下手な交渉を持ちかけるのは逆効果だとラウルも判断した。悔しいが向こうの方が役者としては一枚上手だ。
すると、中央にある階段から黒ずくめの人物が現れる。その人物の足下には不吉さを感じさせる黒い猫がいた。
「さっきから、随分と騒々しい声が聞こえてくるが、どうしたというのだ。ゆっくり食事もできないではないか」
顔が全く見えない黒ずくめの人物はくぐもった声で言った。これにはラウルも身構えてしまう。
「アルハザークか。お前はのこのこ出て来ないでワインでも飲んでいれば良いんだ。こちらの方々には帰って頂くところだったんだから」
ヘルガウストが何とも嫌な顔をした。
「あなたが魔王アルハザークなのか?」
好奇心を抑えきれずに尋ねたのはラウルだ。
アルハザークは自らの存在感を黒いローブのような物で押さえ込んでいるのか、プレッシャーのようなものはあまり感じられない。
ただ、不気味さは嫌でも伝わって来る。
「そうだ。この人型の姿も仮のものに過ぎない。ま、お前たちを取って食うようなことはしないから安心するが良い」
アルハザークがそう言うと、足下の黒猫は大きな欠伸をした。
それを見たアルハザークは「お前は餌を食べに戻るんだ、アルカンデュラ」と黒猫に言った。
それを聞いたラウルはすぐに黒猫がジャハナッグと似たような存在であることを理解した。
黒猫にはどこかジャハナッグに通じるものがある。猫なのに、猫らしくない雰囲気を漂わせているからだ。
ひょうきんな顔も人面を彷彿させるし、血に餓えたような獰猛そうな目もただの猫とは明らかに違う。
ただ、この黒猫が三万人の兵士を殺した魔獣アルカンデュラだというのは全くイメージできない。
「はあ」
ラウルはどう言葉を返して良いのか分からず相槌を打つ。
「とにかく、帰りたまえ。僕は自分の研究で忙しいし、これ以上、お前たちに付き合うつもりはない」
ヘルガウストは身を翻そうとする。
「一応、言っておくが、僕の他に大珠の瞳の霊薬を作れる人間はいないぞ。僕の条件を飲まなかったことを後悔するが良い」
そう言って、ヘルガウストはラウルたちに背を向けた。
「客人に対してはもう少し礼儀を尽くした方が良いのではないか、ヘルガウスト。にしても、大珠の瞳の霊薬か」
アルハザークは神妙さを感じさせる声で言った。
「確かに人間になら無理だが、私なら霊薬を作ることができる。だが、見ず知らずの人間のために作ってやるほど私もお人好しではない」
アルハザークは一瞬ではあるがフードの奥にある目を光らせると、ちらっとジャハナッグと視線を絡ませた。
それを受け、ジャハナッグも示し合わせるように小さく頷く。
ルーシェすら知らないことだったが、ジャハナッグにとってアルハザークは古い友人の一人だったのだ。
なので、アルハザークもジャハナッグが世話になっている人間の頼みなら何とかしてやろうと思った。
ただ、自分が仕えているヘルガウストの手前もあるし、アルハザークも魔王としてのプライドがある。
人間の頼みをすんなりと聞くわけにはいかない。
「なら、どうすれば作ってくれるんだ?」
ラウルはアルハザークをヘルガウストよりは話が分かる人物だと見て取った。
「そうだな…」
アルハザークは屋敷の中を見回すような動きをする。が、全てが黒いローブで覆われているのでその表情は窺えない。
それを見たラウルもアルハザークが建設的なことを考えていると思いたかった。
「では、私の忠実な僕である魔将アルゴルウスと戦って勝ったら、霊薬を作ってやる、というのはどうだろう?」
アルハザークの声は軽かった。
「アルゴルウスも戦いのない毎日に退屈しているだろうし、私も久しぶりに血湧き肉躍るような戦いが見たい」
アルハザークはローブの裾を流れるように払った。この辺の仕草は本当に優雅だ。
「ハハハ、そいつは名案だ。とはいえ、こいつらにアルゴルウスに勝てというのは酷というものだよ、アルハザーク」
嘲弄するように言ったのはヘルガウストだ。
「アルゴルウスは三万人の兵士を殺したアルカンデュラを楽々と打ち倒せる力があるんだ。こいつらが束になっても相手になるはずがない」
ヘルガウストはあくまでラウルたちを小馬鹿にする。
「老いぼれのドラゴンを倒した程度で良い気になっている奴らなんて、捻り潰されるのがオチさ」
ヘルガウスト鼻で笑った。
「かもしれない。だからこそ、アルゴルウスと戦うかどうかはお前たちの判断に任せる。無理強いしても、興ざめするだけだからな」
アルハザークは笑いを含んだ声で言った。
「分かったよ。その条件を飲む」
ラウルはみんなの挑むような顔つきを見ながらそう言っていた。
戦いになるかもしれないことは、ある意味、覚悟していたことだった。なので、心の準備は既にできている。
「その心意気はよし。では、これから魔界にいるアルゴルウスを呼び出すぞ」
アルハザークが暗闇の向こう側にある瞳を光らせる。
すると、ラウルたちの目の前の床に光り輝く魔方陣が現れた。魔方陣の中には見たこともない文字や記号が踊っている。
その文字や記号が目まぐるしく変わったり消えたりしているのだ。それから、魔方陣から目も眩むような光りが膨れ上がった。
その瞬間、未だかつてない恐ろしいプレッシャーを感じる。尋常ならざる何者かの出現をラウルも察知した。
そして、魔方陣の上に現れたのは三メートル以上の背丈を持つ巨人だった。
巨人は山羊の顔をしていて、頭からは二本の角を生やしている。そのいかにも悪魔と言った顔は実に禍々しい。
その巨人はラウルたちの目からすると、アルハザークよりもよっぽど強そうに見えた。
「アルハザーク様、何のご用でしょうか。私は部下たちに剣の稽古を付けるのに忙しいのですが」
そう口にする巨人の手には黒光りする大剣が握られている。
エレナのバスター・ソードの三倍はありそうだし、あのような剣で斬り付けられたら人間など一溜まりもない。
こんな恐ろしい怪物と戦うと言ってしまったラウルは激しく後悔した。
「稽古などいつでもできるだろう、アルゴルウス。それよりも、今からこいつらと戦え。そして、この私を存分に楽しませろ」
アルハザークは高らかに言った。
「ご冗談を。この程度の者たちに私の相手が務まるはずがありません。それくらいのことはあなたなら見抜けているはず」
アルゴルウスは意外にも腰が低かった。
「なら、勝負に条件を付ければ良いのではないか。ハンデなどを設ければ、少しは面白い勝負ができると思うが」
アルハザークの言葉に、アルゴルウスの水晶のような目が光る。
「ハンデですか…」
アルゴルウスは顎を撫でる。
「そうだ」
アルハザークはまるで大きさの違うアルゴルウスを見上げている。
とはいえ、このアルゴルウスよりもアルハザークの方が強いと言うのだから、神や悪魔を見かけで判断することがどれだけ危険か。
それが分かったラウルはゴクリと唾を飲み込んだ。
「酔狂なところは変わりませんな、アルハザーク様。では、こうしましょう、そこの少年が私と一対一の剣の勝負をする」
アルゴルウスは剣の切っ先をラウルに向ける。
「もし、この少年が自分の手にする剣を私の体に少しでも触れさせることができたら、私の負けということにいたします」
アルゴルウスは剛毅に笑いながら言葉を続ける。
「もちろん、私は自分からの攻撃を一切しません。なので、この少年が死ぬことは絶対にないでしょう」
本当にそんな勝負で良いのか、とラウルは思った。
「それは面白そうだな。無闇に命を奪うことができないのも、いかにも豪傑の魔将のお前らしいし。で、アルゴルウスの言った勝負を受ける勇気はあるか、少年?」
アルハザークは興が乗ってきたような声で問い掛ける。
「あるよ。そういうことなら心置きなく戦わせて貰う」
ラウルは何とかなるかもしれないと思いながら、剣の柄に手を置いた。
「では、剣を抜くが良い。勝負の時間は日没までだ。それまでに見事、私の体に剣を触れさせて見せよ」
そう言うとアルゴルウスは大剣を一分の隙もなく構える。
その構え一つ取っても、アルゴルウスの剣を扱う技量が並大抵のものではないことを窺わせる。
その上、アルゴルウスから発せられる闘気にはラウルの肌もビリビリと震えた。
アルゴルウスは攻撃してこないと分かっているのに、ラウルも恐れで足が竦みそうになる。
ラウルは考えても仕方がないと思い、裂帛の気合いでアルゴルウスに斬りかかった。アルゴルウスはその斬撃を軽々と受けとめる。
そして、僅かな動作でラウルの剣を弾き返した。その瞬間、ブワッとした風が舞い上がり、ラウルは派手に吹き飛ばされて尻餅をつく。
あまりにも腕力が違いすぎる。
力押しの斬撃が通じるような相手ではない。
ならば、と思ったラウルはすぐに立ち上がると目にも映らないような突きを放った。その突きはアルゴルウスの脇腹に吸い込まれる。
が、またもや大剣で雷撃のように弾かれてしまった。ラウルは両手がジーンと痺れて剣を落としそうになる。
が、何とか堪えて見せた。もし、剣の動かし方を間違えれば、こちらの腕の関節が壊れかねない。
気を緩めることは絶対にできない。
それから、ラウルは連続して、無数の突きをアルゴルウスにお見舞いする。が、アルゴルウスはその突きをいとも容易く捌いて見せた。
さすがの剣技だ。
ラウルは相手が攻撃してこないというなら懐に入り込むのも怖くないと思い、アルゴルウスの脇の下へと巧みな動きで接近する。
そして、剣を鮮やかに振り抜いたが、その斬撃は空を切った。アルゴルウスは体を少し斜めに傾けるだけで、ラウルの斬撃を避けたのだ。
巨体に似合わぬ俊敏さだ。
とにかく、ラウルの動きは完全に見切られている。
ラウルは手数で圧倒しようと、畳みかけるように絶え間ない斬撃をアルゴルウスに浴びせたが、全て大剣で受けとめられてしまった。
腕力だけではなく、剣を扱う技量も天と地ほどの差があった。しかも、アルゴルウスは全く本気を出していないように思える。
その顔には余裕の笑みが張り付いていたし。これが遙か昔の神話の時代から剣を振るい続けてきた魔将の力か。
ラウルは戦慄しつつも、精神を集中させると、那由多の如き突きを放った。斬り合いを挑んでも歯が立たないと悟ったからだ。
なら、大剣で受けとめるには難しいと思われる突きをお見舞いするしかない。
ラウルの突きはまるで流星のようにアルゴルウスの体に襲いかかった。
が、アルゴルウスは大剣でその突きを的確に受けとめると、ラウルが放った最後の一撃を力強く弾き返した。
ラウルはそのあまりの勢いに跳ね飛ばされる。床をゴロゴロと転がって、激しく壁に叩きつけられた。
「この程度の力に押されるとは、やはりたいしたことはないな。貴様は才気、溢れる良い顔をしていると思ったから、少しは期待したのだが」
アルゴルウスは心底、つまらなそうな顔で言った。
「期待に添えなくて悪かったな」
ラウルは息を荒げながら憮然とする。
「なに、人間に裏切られるのは初めてのことではないし、別に構わんよ。とにかく、今のお前では十年、経とうと、この私に剣を触れさせることなどできん」
そんなことは言われなくてもラウルだって分かっていた。アルゴルウスの力量を見抜けないほど、ラウルも未熟ではないのだ。
「それでもやるしかないんだ」
ラウルは瞳を潤ませているフィリアの方を見た。
「事情は知らぬが、余程、大きなものを背負っていると見える。では、諦めずにかかってくるのだな」
再びアルゴルウスが不可視のエネルギーを放ちながら剣を構えた。しかも、その構えは最初の時より、洗練されたような印象を受ける。
生半可な攻撃を仕掛ければ、ラウルの方が大怪我をしてしまうだろう。だからといって、怯んでばかりもいられない。
その後、ラウルは必死にアルゴルウスへと剣を叩きつけた。が、まるで悪夢のような動きで全ていなされてしまう。
フェイントを折り混ぜた動きも通じず、視認することすら許されない早さの突きもアルゴルウスの体には全く届かない。
正直、甘く見過ぎていたとラウルは思う。
自分の命が奪われないなら、何の恐れもなく剣を振るうことができると楽観していた。だが、その剣がことごとく弾き返され、悪戯に時間だけが過ぎていく。
その焦燥感は半端なものではなかった。
気が付けばラウルの体はボロボロになっていた。
ただアルゴルウスの剣で弾き飛ばされているだけなのにオールド・ドラゴンと戦った時、以上のダメージを受けていたのだ。
死にはしない。
それは分かっているのに、アルゴルウスに対する怯懦で足が動かなくなるのだ。
それでも、ラウルはみんなが見ている前で剣を下ろすこともできずに、がむしゃらな動きでアルゴルウスに突きかかった。
だが、そんな冷静さを欠いた攻撃が通じるわけがなかった。マグレの当たりなどを許してくれるような相手ではないのだ。
ラウルは懸命に剣を振るうも、どうしようもない焦りだけが募っていく。
気が付けば屋敷の窓から見える太陽は真っ赤になり、今にも地面に沈もうとしていた。ラウルの体からも血のような汗が滴り落ちている。
「クッ」
ラウルは全身の筋肉が悲鳴を上げるのを感じながら膝を突いた。
「ここまでだな。決して諦めることなく剣を振るい続けたその心根は褒めてやる。だが、心根だけでは、どうにもならないこともあると分かったはずだ」
アルゴルウスは全く息を乱すことなく言った。
「まだまだ、だ」
ラウルは痛みに顔をしかめながら立ち上がる。諦めないというポーズをみんなに見せたかったわけではない。
ただ、純粋にアルゴルウスに勝ちたいという闘志が心の中から沸き上がってくるのだ。
こんな相手と剣を交えられるチャンスはもう巡ってこないはずだ。だからこそ、後悔しないように自分の全てを出し切きりたいと思ったのだ。
「最後まで諦めぬか。私の部下にもお前のような骨のある人間がいたら、少しは鍛え甲斐もあっただろうに」
アルゴルウスは羨望の眼差しでラウルを見た。
ラウルは腕の筋肉が引きちぎれそうになるような痛みを感じながらも、ガクガクする膝を叱咤して立ち上がった。
そして、アルゴルウスへと電光石火の動きで走り寄ると、全身全霊の力を込めた突きを放った。
これ以上の剣技を見せることはラウルにはできない。
が、その突きをアルゴルウスは今までにない大きな動作で弾き返した。ラウルは烈風を纏った斬撃の勢いに耐えきれず壁に叩きつけられる。
凄まじい痛みが背中を走り、ラウルは口から血を吐き出した。
「グッ」
壁から引き剥がされて倒れたラウルは右手に今までにない強い痛みが走っていることに気付いた。
良く見ると右手がおかしな感じで曲がっている。
それを受け、ラウルは愕然とした。
「骨が折れたな。その腕ではさすがにもう戦えまい」
そう言うと、アルゴルウスは戦いの続行は不可能だと判断したのかスーッと剣を引いた。と、同時にアルゴルウスの体から発せられていた闘気も薄れていく。
一方、ラウルたちの戦いを見ていたみんなも消沈しきったような顔をしていた。これ以上の戦いは無意味だと思われていたのだ。
ラウルとしては、それは冗談ではなかった。
「まだもう片方の腕があるぞ」
満身創痍のラウルはそれでも落ちた剣を左手で持ち上げる。
例え全身の骨が砕けようと戦いを止めるわけにはいかない。もし、止めたらここまで付き合ってくれたみんなの思いを無駄にすることになる。
もちろん、ラウル自身の思いも。
ラウルはもう命すら捨てる覚悟で、アルゴルウスのいる方へと走り出した。
「その絶対に諦めない心こそ、人間の強さの源か。良いだろう。お前が納得するまで、とことん付き合おうではないか」
アルゴルウスが剣を構えて闘気を発散させると、落ちていた床の破片が震えだした。ここで膝を付けられれば楽になれるのにとラウルも思う。
が、そんな心に活を入れて、最後の力を振り絞る。
ラウルは痛みで意識が途切れそうになりながらも、残映を生み出すような動きで空に風穴を穿つような突きを放った。
その瞬間、アルゴルウスの目が炯々と光り、腕の筋肉も隆起する。それは手加減を止めて、本気になった目だった。
そして、アルゴルウスの豪腕から繰り出された恐るべき斬撃は、ラウルのミスリルの剣を根元から叩き割ってしまった。
ミスリルの剣は粉々に砕け、その破片は宙を舞う。その際、キラキラとした銀色の光りがラウルの前を流れていった。
さすがの魔法金属も、アルゴルウスの大剣による攻撃には耐えきれなかったか。今まで良く持ってくれたと言いたくなる。
そして、それを見たラウルは力尽きたようにドサッと前のめりに倒れた。もう、体を動かす力は残っていない。
はっきり言って、完敗だった。でも、悔いはない。ラウルは自分の力を存分に出し切ったのだから。
ただ、フィリアにはすまないと思う。
そして、ラウルが倒れたエントランス・ホールはシーンと静まりかえった。
「どうやら、アルゴルウスの勝ちのようだな。最初はどうなることかと思ったが、なかなか楽しめるショーだったぞ」
アルハザークはラウルとアルゴルウスの戦いを堪能したようだった。ラウルはこのまま泥のように眠り込んでしまいたいと思いながらも意識を繋ぎ止める。
「いえ、アルハザーク様。この度の勝負、私の負けでございます」
アルゴルウスの意外な言葉を聞き、ラウルは顔を上げた。
「どういうことだ?」
アルハザークは解せない声で尋ねる。
「剣が砕け散った時、僅かではありますが、その破片が私の頬に傷を付けたのです。つまり、この少年の剣は私の体に触れたことになります」
アルゴルウスは頬を指で触りながら、穏やかな声音で言葉を続ける。
「であれば、勝負の条件を決めた私も負けを認めないわけにはいきません。この少年は本当に良く戦いました」
アルゴルウスの言葉にラウルは目から涙が溢れそうになった。ラウルは本当に勝てたのかと自分に何度も問い掛ける。
「そうか…、そうだったか。では、私も約束通り、大珠の瞳を使った霊薬を作らねばならんな。にしても、真にあっぱれな勝負であった」
アルハザークがそう称賛するように声を張り上げると、ラウルは途端に全身から力が抜けていくのを感じる。
もう当分は剣を振るいたくないとしみじみと思った。
その後、アルハザークから大珠の瞳の霊薬を作って貰ったラウルたちは子鹿亭へと戻ってきた。
ラウルの受けた傷はルーシェの魔法で治っている。
だが、失われた体力の方は戻っていなかったので、ラウルもここまで帰ってくるのはかなり辛かった。
とはいえ、これでフィーネリア女王の病気が治ると思ったら、へばってもいられない。
ラウルたちが凱旋でもするような気持ちで子鹿亭の中に入ると、そこにはご馳走を用意しているはずのリーネがいた。
「大変だよ、ラウル兄さん」
リーネは亡霊でも取り憑いたような顔でラウルのところまで駆け寄ってきた。
「そんなに慌ててどうしたんだよ。俺たちならこの通り大珠の瞳の霊薬を持って無事に帰ってきたぞ」
ラウルは全てをやり遂げた顔で笑った。
「違うよ。一緒に料理を作ってたら、お母さんがいきなり倒れちゃったの。しかも、凄く苦しそうで、今にも死んじゃいそうな顔をしてるんだよ!」
リーネは顔の表情をクシャクシャにして泣き出した。
「何だって」
ラウルは前から抱いていた嫌な予感が現実のものになったことを知り、ぞっとしたような顔で手にしていたミスリルの剣の鞘を落とした。
他のみんなも衝撃を受けたような顔をしている。
それから、すぐにショックから立ち直るとラウルはリリシャの部屋へと一目散に駆け込んだ。
すると、そこには顔から大粒の汗を垂れ流しているリリシャがいてベッドに寝かされていた。
ただの風邪などではないことは、その苦しげな顔を見れば分かる。
しかも、リリシャは魔族の血を引いているのだ。
そう簡単には風邪など引かないし、ラウルもリリシャが体調を壊しているのを見たのはこれが初めてだった。
ラウルは狼狽するばかりで何もできなかったが、ルーシェは冷静にリリシャの顔を覗き込んだ。
そして、妖しげな光を放つ掌をリリシャの胸に当てた。
「悪性の腫瘍が体中に転移してるわ。このままじゃリリシャさんが死んでしまうのも時間の問題よ」
ルーシェは額から脂汗が噴き出すのを感じながら言った。
「そんな」
ラウルは絶句する。
「ルーシェさんの魔法じゃ治せないんですか?俺の折れた腕だってあっという間に治して見せたし、ルーシェさんならできるんでしょ」
ラウルはルーシェに縋り付いた。
「ご免なさい。私の魔法じゃ、この手の病気は治せないの」
ルーシェは悲しげに目を伏せて言葉を続ける。
「もし、治せるとしたら、私が持つ闇の魔法ではなく、善神サンクナートの加護を受けた光りの魔法だけだわ。でも、リリシャさんは…」
ルーシェの言葉が止まった。
「光りの魔法ならフィリアが使えたはずだ」
ラウルはすぐさまフィリアを見た。
「駄目よ、ラウル君。リリシャさんはゼラムナート様の眷属である魔族の血を引いているのよ。下手に光りの魔法なんてかけたら拒否反応で死んでしまうわ」
ルーシェはラウルの服袖を掴んだ。
「なら、どうすれば良いんだ」
ラウルは途方に暮れた。
「冷たいことを言うようだけど、私たちの持つ魔法の力ではどうにもならないわ。リリシャさんの病気を治すにはもっと別の力が必要よ」
ルーシェは大珠の瞳から作られた霊薬を持つフィリアを見た。
「大珠の瞳の霊薬なら治せるんじゃないの。あのアルハザークだって自分の作った霊薬で治せない病気はないって豪語してたし」
言葉を差し挟んだのはエレナだ。
「それは…」
ラウルは沈みきった顔をする。
例えリリシャのためでも霊薬を使うことはできないと思ってしまったからだ。なので、ラウルの心に激しい葛藤の嵐が生まれた。
「霊薬を使ってください、ラウル。大珠の瞳が手に入れられたのも、霊薬を作って貰えたのも、全てラウルのおかげなんですから」
ラウルの葛藤を見て取ったフィリアの心に揺るぎはなかった。
「だけど」
ラウルはどこに視線を向けて良いのか分からない。
「お母様がこの場にいたら、きっと自分の命を省みずにリリシャさんを救ったはずです。なら、私も同じことをするだけです」
フィリアもここでリリシャを助けなかったら、母であるフィーネリア女王の娘ではいられなくなると思ったのだ。
目の前の命を見捨てて母の名誉を傷つけるわけにはいかない。
「ありがとう、フィリア」
ラウルは本当に情けない顔で、フィリアに感謝の言葉を伝えた。が、その背筋を凍らせるような声が発せられる。
「それはいけないわ、ラウル」
その声はラウルの心の穴に入り込んだ。
「大丈夫なのか、母さん」
ラウルはリリシャの方を弾かれたように振り返った。
「私はもう駄目そう。でも、私は十分すぎるほど長く生きたし、例え、このまま死んでしまったとしても悔いないわ」
リリシャはいつもの優しい笑みを浮かべながら言った。
「そんなことを言わないでくれよ。もし、母さんが死んだら、残された俺やリーネはどうなるんだよ」
ラウルは声を上げて泣き出すのを必死に堪えているリーネを見た。
「あなたたちなら、もう大丈夫。私がいなくてもちゃんと生きていけるわ。それは保証します」
リリシャは朗らかに笑って見せた。
「そんなことない」
ラウルは駄々をこねるように首を振った。
「ラウル、お願いだから、私にお休みをくれないかしら。私はずっと働いてきたし、休息も必要よ」
リリシャはぎこちなく腕を上げ、ラウルの頬を指で触った。
「休むことと死ぬことは違うよ」
ラウルは声が沈み込むのを止めることができない。
「違わないわ。どれだけ長く生きようと、人はいつか死ぬの。でも、この世界を作った神々は死んだ人間を見放したりはしないわ」
リリシャがラウルの前で神々を頼るような言葉を口にしたのは初めてだった。
「私のお父さんが信じていたゼラムナート様も冥界に辿り着いた魂は生まれ変わらせてくれると言っているし」
リリシャの言葉はラウルにとって、ただの気休めに聞こえた。
「そんなのおとぎ話だ。神々が人間のために一体、何をしてくれると言うんだ。現に俺たちを助けてくれたのは神とはほど遠い邪竜や魔王なんだぞ」
悪というレッテルを貼られた者たちがラウルたち一行を助けたのだ。
善だとか光りだとかいう仰々しい言葉が使われる者たちは何の協力もしてくれなかった。
「それでも良いの。とにかく、母さんの心を本当に尊重してくれるなら、霊薬は死ぬにはまだ早いフィーネリア様に使ってちょうだい」
リリシャは憔悴しきった顔で言葉を続ける。
「これが母さんの最後のお願いよ」
そう言うと、リリシャは力尽きたように目を閉じた。
「母さん…」
ラウルはリリシャの胸に顔を埋めて低い嗚咽を漏らす。
それから、二時間後、リリシャはラウルたちみんなに見守られながら静かに息を引き取った。
ラスト・エピソードに続く。