エピソードⅡ 王女との出会い
エピソードⅡ 王女との出会い
ラウルは次の日の朝になると、ベッドから起き上がる。夏の気配を感じさせる日差しは、少し暑かった。
シャツも汗で濡れていたし。
サンクフォード学院に通っていた頃の朝は、もう五分だけ眠りたいと思ってしまったが、今はそんなこともなくなった。
正直、高等部には通いたかった。
別に将来のためだなどと言うつもりはない。
ただ、学校という場所は今になって振り返ってみると、とても楽しい場所に思えたのだ。勉強も嫌いではなかったし。
もちろん、迷宮に潜って仕事をこなすのも楽しくはある。だが、迷宮はある意味、大人の世界だった。
子供のラウルには肩身が狭く感じられる時がある。
大人の冒険者たちは、子供の冒険者を明らかに馬鹿にしているし。
しかも、ギルドでは年齢制限がある仕事もたくさんある。そう簡単には一攫千金の仕事など請け負えない。
ラウルもそろそろ自分の進むべき道を決めた方が良いかもしれないと思った。
もちろん、子鹿亭を守るのも大切なことだ。だが、一生を子鹿亭のために費やしてしまうのはどうなんだろうと思わなくもない。
リリシャもそれを望んではいないようだった。
何にせよ、今はとにかくお金だ。
先立つ物は金だとも言うし、お金がなければ何もできない。
リーネも食堂の床が傷んできたから、そろそろ改装したいと言っていたし。
リリシャもラウルの将来のために積み立てをしてくれているが、それだけを頼りにするわけにはいかない。
もっと大きな仕事がやりたい。
高等部に進んだ学友たちの耳にも届くような大きな何かを成しとげたい。
それには危険な仕事にも挑戦しなければならないんだろうが。
そう思ったラウルは一角獣の角を入れた革袋を持って、自分の部屋を出る。そして、食堂で朝食を取ろうとする。
「おはよう、ラウル兄さん」
食堂に下りてくると、床のモップがけをしているリーネがいつもの朝の挨拶をする。
「おはよう。これからギルドに行かなきゃならないから何か作ってくれないか。できれば肉があると嬉しい」
一角獣の肉はまだ残っているはずだ。神経を使うギルドに行くためにも、力が付く物を食べておきたい。
「朝から肉が食べれるなんて、ラウル兄さんはやっぱり男の子だなぁ。私はポタージュのスープだけでお腹が一杯になっちゃったけど」
リーネはモップがけをまだ続けている。
「たくさん食べないと成長しないぞ。特に胸なんか」
「私は胸の大きさなんて拘らないから良いの。好きな男の子ができたら、その心は料理で掴んで見せるんだから」
リーネならできるだろうなとラウルは思った。
けれども、もしリーネに恋人ができたら、自分もちょっとショックを受けてしまうかもしれない。
別にリーネと兄妹、以上の関係になりたいなどと思っているわけではないが。
「良い心懸けた。俺も高等部に進学していたら、好きな女の子のひとりでもできたかもしれないのに。高等部の女子の制服は凄く可愛いんだぞ」
特にあの青のケープは可愛らしかった。
「確かにあの制服は絶対に着たいって思えるよね。私もサンクフォード学院は小等部までしか通えなかったし」
「残念だったな」
ラウルもリーネを中等部に進学させてやれなかったことには引け目を感じている。たぶん、その思いはリリシャも同じだろう。
「別に良いよ。私の中ではもう吹っ切れてることだから。でも、彼女ができる云々は、朴念仁のラウル兄さんには無理だと思うけどね」
リーネは舌を出した。
「そんなことはないと思うぞ」
ラウルはムッとした顔で言った。
「とにかく、一角獣の肉のスペアリブとフライドポテトを作ってあげるから待ってて。あと、私が新しくブレンドしたコーヒーなんかも飲ませてあげるから」
「頼むよ」
ラウルがそう言うと、リーネはモップがけを止めて、カウンターの奥の厨房に行った。
「おはようー」
入れ違うように現れたのはエレナだった。
「エレナか。最近は朝も良く来るな」
昨日もいたしな。
「しょうがないでしょ。家の近くにあったパン屋さんが、大通りの方に移転しちゃったんだから。ソーセージのパンとか美味しくて好きだったのに」
エレナは残念そうな顔をする。
「そうか」
「ま、朝から子鹿亭の料理を食べるのも悪くないけどね。特にリーネの入れるコーヒーは大好きだし」
リーネがブレンドしたコーヒーは本当に美味しいとラウルも自慢したくなる。
「そういうことね」
「とにかく、帯剣しているところを見ると、ラウルもギルドか迷宮に行くんでしょ。なら、アタシも朝の見回りがあるし、途中まで一緒に行こうよ」
エレナの誘いを断る理由はラウルにはなかった。
「別に構わないぞ。お前も朝から見回りをしなきゃならないなんて、大変だよな。騎士なんて、詰め所でチェスをやってるんだぜ。暢気なもんだよ」
ラウルの言葉にエレナも顔をしかめる。
「確かにあれは頭に来ちゃうよね。騎士たちは詰め所に報告が来ないと絶対に動こうとしないんだから」
「自警団は常に王都の中を巡回してるからな」
「うん。自警団の詰め所にいる人たちは、チェスなんてしている姿は絶対に見せないよ。じゃないと、市民から舐められるでしょ」
舐められたら市民も自警団の言うことを聞かなくなる。そうなったら、自警団の存在価値が失われてしまうだろう。
「だけど騎士は格好良く思われてるんだよなぁ。この王都の治安を守っているのは、自警団だって同じなのに何で差が出るんだか」
騎士の制服を着た連中は、何であんなに鼻を高くしているんだろう。
「そうなのよね。まあ、肩書きって馬鹿にする人も多いけど、超えられないところとかあるから。自警団と騎士じゃ、やっぱりみんな騎士になりたがるでしょ」
「ああ」
その言葉は否定できない。
「ま、腐っててもしょうがないんだけどね。アタシたちを必要としてくれる人はたくさんいるんだし」
エレナはドライに肩を竦めた。
「そうだぞ。俺だって学院に通ってる連中には負けないような人生を送ってやろうって思ってるし、社会の荒波にいち早く揉まれれば手に入れられる物もある」
ラウルはそう豪語した。
「だよね。ま、アタシは勉強とか本当に嫌いだったから、学院を早めに卒業して良かったって思ってるけど」
エレナがそう言うと、リーネが芳醇な香りを放つコーヒーを運んできたので、ラウルとエレナもそれを飲んだ。
ラウルは道の途中でエレナと別れると、その足でメイン通りの一角にあるギルドに行く。ギルドは縦に長い石造りの建物だった。
宮殿や神殿を覗けば、ギルドの建物はこの王都で一番、立派なものだ。どこか砦のような雰囲気も漂わせている。
ラウルは身が引き締まる思いでギルドの建物の中に入る。
入り口からすぐの広間には華美で赤いカーベトが敷かれ、天井には無数の光石が取り付けられている。
誰でも座れるようなソファーや、仕事の報告やアイテムの換金を行うカウンターもある。だが、一番、目を引くのは壁に取り付けられている巨大な掲示板だろう。
掲示板には仕事を依頼する紙が所狭し、と貼り出されている。この中から自分の請け負いたい仕事を選べば良いのだ。
掲示板の前には目に見える形で武器を所持している冒険者がたくさんいる。その熱気はかなりのものだ。
もし肩をぶつけたりしたら、因縁を付けられかねない。冒険者たちは基本的に荒くれ者が多いのだ。
ラウルは受付カウンターに行くと、受付嬢に一角獣の角を渡す。
すると、受付嬢は書類のような物を捲ってから、カウンターの奥に消える。それから、三分ほど経つと、お金の入った袋を持って来た。
ラウルは十五万シュケムあるのを確かめると受付カウンターを後にする。それから、掲示板の前へと足を運んだ。
ラウルはどんな仕事を請け負おうか貼り出された紙の内容と相談する。
すると、迷宮にいるオールド・ドラゴンを倒すためのパーティーに加わって欲しいという貼り紙を見つけた。
依頼料はパーティーに加入するだけで百万シュケムだ。
破格と言って良い報酬だった。
しかも、更に驚くべきことに、依頼人はプリンセス・フィリアとなっていた。つまり、サンクリウム王国の王女、フィリアのことだ。
ラウルは貼り紙を見ながら、前にルーシェが言っていた話を思い出す。
オールド・ドラゴンは顔に三つの瞳があり、額にある大珠の瞳はどんな病気も治せる霊薬になるという。
大珠の瞳、欲しさにオールド・ドラゴンに手を出した冒険者はたくさんいたが、みんな返り討ちに遭った。
聖竜エリュミナスや邪竜ジャハナッグには及ばないにしても、オールド・ドラゴンも相当な力を持っているし、ラウルも絶対に手を出すなとルーシェから言われていた。
そのドラゴンにフィリアが戦いを挑もうとしている。余程の事情があると見て間違いないだろう。
気になったラウルはパーティーのメンバーの募集場所であるギルドの酒場の八番テーブルに行くことにする。
ラウルはギルドの広間を出ると二階にある酒場へと足を運んだ。
酒場は薄闇に包まれていて、昼間なのに夜を演出していた。これなら、好きな時間に酒が飲める。
酒場の奥にいるハープ弾きも耳に心地良いメロディーを奏でていた。
それから、ラウルが八番テーブルに行くと、そこには屈強そうな男たちが笑いながら酒を飲んでいた。
男たちの中心には肩を窄めている少女がいる。
麗しい金色の髪は高貴な生まれを感じさせるし、肌も透けるように白い。目なんて宝石のブルーダイアのようだった。
着ているのも白を基調とした神聖さを感じさせる服だ。あの少女がフィリアと見て間違いないだろう。
「あのー、フィリア王女ですか?」
ラウルはおずおずと尋ねる。
「そうですが、あなたは?」
金髪碧眼の美少女、フィリアは固い笑みを浮かべた。
「パーティーのメンバーを募集してるっていう貼り紙を見て来たんですけど、ひょっとして、お邪魔でしたか?」
無理してパーティーに入るつもりはない。ただ、少し話が聞きたかっただけだ。
「別に邪魔じゃないが、ちょっと遅かったな、兄ちゃん。残念だがパーティーのメンバーの募集はさっき閉め切っちまったよ」
ビールのジョッキを掲げた男が笑った。
「はあ」
それを聞いてラウルは少しほっとしていた。仲間になれと言われても絶対に断っていただろうから。
「ま、閉め切られてなくても、兄ちゃんのような子供が俺たちと肩を並べて、オールド・ドラゴンと戦うことはなかったけどな」
そう嘯く男がかなりの実力者だと言うことは体付きを見れば分かる。
「違いねぇ。この三百年、オールド・ドラゴンを倒した冒険者はいないって言うからな。もし倒せれば、一億シュケムが俺たち全員の懐に転がり込んでくるってわけよ」
別の男がせせら笑うように言った。
「一億シュケムだって?」
ラウルもその金額に目を剥いた。
「さすがに驚いたみたいだな。それだけの金があれば一生、遊べるからな。オールド・ドラゴンは是が非でも倒してやるさ」
また別の男が骨付きの肉に齧り付く。
「というわけですので、あなたをパーティーに入れるわけにはいきません。わざわざ足を運んでくれたのにすみませんでした」
フィリアはぺこりと頭を下げた。
「でも、オールド・ドラゴンは恐ろしいモンスターですよ。どうして、自ら進んでそんなモンスターと戦おうとするんですか」
ラウルは好奇心を抑えきれずに尋ねた。
「母が不治の病に冒されているのです。このままではあと半年もしない内に母は死んでしまいます。母の病気を治すためにも大珠の瞳がどうしても必要なんです」
フィリアは芯の強そうな青い目で言った、
「そういうことですか」
フィーネリア女王の具合が良くないことはラウルも聞いていたが。
「私は必ずや大珠の瞳を手に入れ、この国の女王である母の命を救って見せます。あなたには申し訳ありませんが、お引き取りください」
フィリアの言葉には突き放すような響きがあったが、その声音にはラウルへの気遣いが込められていた。
「そういうことだ、兄ちゃん。ま、一億シュケムと名誉騎士の称号は俺たちが貰ってやるから、兄ちゃんもせいぜいお家で期待しててくれ」
その言葉と同時に男たちは「ギャハハハ」と高笑いをした。
十五万シュケムも手に入ったので、ラウルは王都の中を歩き回る。良い剣や盾があれば見て置きたいと思ったからだ。
でも、なかなか良い物は見つからなかった。やっぱり、このお金はリリシャに預けるべきかもしれない。
それともリーネの気に入りそうなアクセサリーでも露店で買ってあげるか。
ラウルは昼食を屋台で買った串焼きで済ますと、また王都の中を練り歩く。それから、日が傾きかけた時刻になると、今日も迷宮に挑むことにした。
食材は市場で買うこともできるが、やっぱり迷宮で調達した方が遥に安上がりだ。
ラウルは町の一角にある四メートルを超える大きさを誇る鋼鉄の扉の前に来る。この扉の先に迷宮へと続く階段があるのだ。
もちろん、迷宮の入り口はここだけではない。
町の至るところにあるのだ。
だが、ラウルは特に理由はなかったが、大抵はこの入り口から迷宮に入るようにしている。
ラウルは扉を警備している槍を持った兵士にギルドで発行される許可証を見せる。すると、兵士はドアの横にあるレバーを操作した。
そして、鋼鉄の扉が開かれると、薄闇に包まれた階段が現れる。この先に地下三十階まである迷宮があるのだ。
ラウルは迷宮の中に入ると、食材の調達をしようとする。
今日はどんなモンスターと出会えるのか。それによって宿で提供される料理も違ってくるのだ。
ラウルは剣を抜いて慎重に迷宮の通路を進んでいく。
階段とは違い、迷宮の通路は横幅がかなり広い。なので、モンスターと入り乱れるように戦っても問題ない。
ちなみにラウルは地図も持っているが、地下四階までは迷宮の構造が頭に入っている。だから、地図を広げて歩く必要はない。
それとオールド・ドラゴンのいる部屋は地下十二階にある。オールド・ドラゴンはその部屋から動こうとしないのだ。
ただし、オールド・ドラゴンの強さは地下二十五階以上のモンスターの強さに相当するらしいのだ。
その辺りのモンスターの強さは神や悪魔クラスだと言われている。今のラウルではとても太刀打ちできそうになかった。
そんなことを考えながらラウルが歩いていると、さっそく現れたウルフェンの群れと遭遇する。
ウルフェンは三メートル近くの体長がある狼だ。
ラウルにとって倒せない敵ではないが、群れで現れるのが厄介なところだ。
現にラウルの視線の先には五匹のウルフェンがいるし、気は緩められない。もし、動き方を間違えればナイフのような爪で切り裂かれるだけだ。
一瞬の油断や気の緩みが死を招く。それが迷宮を支配する残酷な掟とも言えた。
ラウルがそう思った瞬間、ウルフェンたちは猛然と間合いを詰めてきた。
そして、一気にラウルに飛び掛かろうとする。ラウルは敢えて逃げることなくウルフェンの懐に入り込んで剣を振り抜いた。
正面から迫っていたウルフェンの胴が真っ二つになる。内臓が傷口から飛び出した。
だが、息を吐く暇はない。
ラウルはすぐに体の向きを変えると、斜めから飛びかかっていたウルフェンの爪を避ける。
それから、振り下ろしを、そのウルフェンの頭に叩きつけた。
ウルフェンの頭からグロテスクな脳漿が噴き出す。返り血がラウルの頬を赤く染めた。ラウルも脳漿からは目を背けたくなったがそれは危険だ。
そして、真後ろから爪を突き立てようとしたウルフェンにも振り向き様に剣を一閃させる。
その一撃はウルフェンの左目を抉り出した。
目を傷つけられたウルフェンは絶叫する。ここで逃げ出してくれれば、ラウルとしては楽な展開になる。
だが、モンスターはそんなに甘くはない。
ラウルの痛烈な反撃を受けたウルフェンたちはようやく動きを止める。
ラウルも軽く息を整えた。
一方、仲間たちの死に動揺したのか、残り三匹のウルフェンは一定の距離を空けてラウルを取り囲む。
ラウルの死角を入念に探し出そうとしているようだった。それから、ピッタリとタイミングを合わせてウルフェンたちはラウルに襲いかかった。
対するラウルはクルリと回転して、三匹のウルフェンを綺麗な円を描くようにして切り裂いた。
三匹のウルフェンは揃って吹き飛ばされる。
それはラウルの繰り出した斬撃が久しぶりに冴え渡った瞬間でもあった。
それでも立ち上がった一匹のウルフェンは足を引きずりながら逃げていった。追いかけて仕留めることもできたが、それはしない。
深入りは禁物だ。
追いかけていった先に、更なるモンスターが待ち伏せしていると言うことは良くあることなのだ。
モンスターたちにも知恵があることは忘れてはいけない。
ラウルはウルフェンの群れを退けると床に転がっている死体から毛皮をはぎ取る。
一角獣のように美味しくはないが、ちゃんと解体して肉も取る。迷宮の資源は無駄にしてはならない。
植物や鉱物ならともかく、生き物の命なら尚更だ。
ラウルがウルフェンの肉の詰め込みを終えると、また歩き出す。すると、今度は武器を手にした人型のモンスターが二匹、現れた。
その顔はトカゲのようだった。
こいつらはリザードマンだとラウルは気を引き締める。
ラウルは剣と槍を手にしている二匹のリザードマンたちと対峙する。武器は持っていても、群れを成して襲ってくるウルフェンよりは戦い易い。
ただ、中にはかなり腕の立つリザードマンがいるので、最初の立ち合いで、その力を見極めることが大切だ。
リザードマンたちはラウルを睨み付けると、武器を振り上げて襲いかかってきた。
ラウルは余裕を持って待ち構えると頭上から振り下ろされる剣を受けとめる。ガキンと金属がぶつかり合う甲高い音が響いた。
ラウルは力負けせずに、リザードマンの剣を押し返そうとする。が、側面からは鋭い槍の穂先が迫っていた。
ラウルは身を捻って槍の穂先を避けると、リザードマンの剣を勢い良く弾き返す。勢いに押されて剣を引いてしまったリザードマンは体勢を崩す。
よし、このリザードマンたちはたいして強くないとラウルは笑った。
ラウルは風のような動きで、剣を持ったリザードマンの懐に入り込んだ。それから、剣の切っ先をリザードマンの喉に突き立てる。
剣を手にしたリザードマンは口から血を吐き出して倒れた。
もう一匹のリザードマンは仲間の死に焦ったのか、がむしゃらな動きで何度も槍を突き出してくる。
だが、ラウルは槍の穂先を見切ったようにかわして、その柄を器用に切断した。
武器を壊されたリザードマンは動揺のあまり、動きを停滞させてしまう。それは致命的な隙とも言えた。
そして、その隙を突くように、ラウルはリザードマンの体を袈裟懸けに切り裂こうとする。
肉に刃が食い込む感触が腕に伝わってきた。
その一撃で槍を持ったリザードマンは肩から心臓をまでを切り裂かれ、盛大な血飛沫を上げながら崩れ落ちる。
それから絶命したのかピクリともしなくなった。
二匹のリザードマンを血溜まりに沈めたラウルはほっとする。
やはり、リザードマン程度の敵なら自分の相手にはならない。まだ五匹のウルフェンの方が手強かった。
とにかく、店で売るためにもリザードマンの剣と槍は貰っておかなければ。リザードマンの肉は不味いのでさすがに持ち帰らないが。
その後、ラウルは三階にまで下りて新たなモンスターを探したが、あいにくと出会うことはなかった。
今日の迷宮はやけに静かだった。
そんなことを考えていると、通路で倒れている少女を見つけた。少女はラウルの視線の先でぐったりとしている。
ラウルは犠牲者かと思った。
迷宮に潜っていれば冒険者の亡骸を目にすることも少なくないのだ。
もちろん、亡骸を目にするのに慣れると言うことはない。だからこそ、自分はこうならないようにと気を付けるのだ。
ラウルは倒れている少女の方に近づく。
すると、その少女は何とあのフィリアだったのだ。横腹の辺りに爪で切り裂かれたような跡があり、血で真っ赤になっていた。
だが、フィリアには息があり、死んではいなかった。
ラウルは勿体ないと思ったがリザードマンの剣と槍を床に置くと、失礼だとは思いつつも、フィリアの体に触れる。
それから、その体を持ち上げて背負う。
ラウルは意外と重いなと思いながら駆け足で迷宮の入り口を目指す。群れを成したモンスターに襲われないことを祈りながら。
そして、その祈りが神に通じたのか、ラウルは無事に迷宮の外に出ることができた。病院に連れて行った方が良いと思ったが、この入り口からだと病院はかなり遠い。
ならば、と思ったラウルは子鹿亭に帰ろうとする。
回復魔法も使えるルーシェは借りてきた本は宿に持ち帰って読むようにしている。なら、この時間でも宿にいてくれるはずだ。
ラウルは祈るような気持ちでフィリアを背負いながら子鹿亭へと走った。
「ラウル兄さん、その女の子どうしたの?」
食堂のテーブルを拭いているリーネが、女の子を背負っているラウルを見て目をまん丸にした。
「話している暇はないから、二階にある客室のベッドを使わせてくれ。それと、ルーシェさんはいるか?」
ラウルはのんびり話している暇はないと思いながら尋ねる。
「ルーシェさんなら自分の部屋で本を読んでるよ。さっき、若鶏の唐揚げを差し入れとして持って行ったし」
リーネの言葉にラウルも安堵した。ルーシェならできないことはない気がするからだ。
「そうか。なら、ルーシェさんを呼んできてくれ。この女の子だけは絶対に死なすわけにはいかないんだ」
ラウルは覇気のある声で言った。
「分かった」
リーネが深刻そうな顔で頷くと、ラウルはフィリアを背負って、客室にある二階に上がっていく。
一足先に客室に入ったリーネはベッドのシーツを整えた。ラウルはフィリアの体をベッドに横たえる。
苦しそうだった呼吸は静まり始めていた。だが、顔は苦痛に歪んでいるし、安心できるものではない。
それを見たリーネは部屋を飛び出した。それから、すぐにルーシェを連れてくる。
「どうしたの、ラウル君?」
ルーシェは訝るような顔をしていた。
「この女の子は、あのフィリア王女なんです。でも、迷宮で怪我をして倒れていたから、ここまで運んで来たわけで」
ラウルはたどたどしい口調で言った。
「つまり私に回復魔法をかけて欲しいというわけね。なら、任せておいて。死ぬ前だったら、どうとでもできるから」
ルーシェにも死者を生き返らせる力はない。それができるのは神々だけだ。
「お願いします」
ラウルは頭が下がる思いで言った。それから、ルーシェの掌が光るオーラのようなものに包まれる。
ルーシェはその掌をフィリアの傷口に押し当てた。
「まずいわね」
フィリアの傷口から手を離したルーシェの顔が曇る。
「どうしたんですか、ルーシェさん。困ったような顔をしないで、早く回復の魔法をかけ続けてくださいよ」
ラウルはとにかく急かした。
「そうしたいんだけど、この子は善神サンクナートの加護を受けているの。だから、邪神ゼラムナート様の加護を受けた私の魔法は効かないのよ」
相反する力が打ち消し合っているということなのかとラウルは考えた。
「そんな」
「自然に治癒するのを待つしかないわね。大丈夫、傷の方は治りかけているから。ちょっと悔しいけど善神サンクナートの加護は伊達じゃないわ」
今はルーシェの言葉を信じるしかないとラウルは俯く。
「そうですか」
ラウルが不安げな面持ちでいると、リーネがフィリアの腰に下げられていた剣を触る。すると、バチッと青白い火花が散った。
「凄く美しい剣だけど、私が触ったらビリってしちゃった。何かエンチャントの魔法でもかけられているのかな」
エンチャントの魔法は主に物体に様々な魔法的な効果を付属させる。地味だが使い方によっては、役に立つ魔法だった。
「それは聖剣サンクカリバーね。サンクナートに認められた人間だけが扱うことができる伝説の聖剣よ」
ルーシェは別段、驚く風でもなく言った。
「さすがフィリア様だね。サンクナート様から聖剣まで授けられているなんて。こんなことなら、ベッドのシーツはもっと綺麗な物にしておけば良かったな」
リーネはそう言ったが、こんな状態の時にシーツの綺麗さなんてどうでも良いとラウルは心の中で呟いた。
「フィリア王女はそんな贅沢は言わないだろ。とにかく、俺たちにできることは今のところ何もないってことだ」
ラウルは歯噛みした。
「でも、どうしてフィリア王女は迷宮なんかにいたの。一国の王女が危険を伴う迷宮に入ることなんて普通は考えられないでしょ」
ルーシェはそう疑問をぶつけてくる。
「それは…」
ラウルは自分が知っている範囲のことをルーシェに教えた。
「なるほど。女王の病を治すには大珠の瞳が必要ってわけね。それでオールド・ドラゴンと戦うなんていう無茶をしたんだ」
ルーシェの声には呆れが混じっていた。
「馬鹿な奴だ。幾ら聖剣の使い手でも、オールド・ドラゴンに勝てるわけがない。たぶん、こいつの仲間も殺されているだろうな」
そう嘲るように言ったのはジャハナッグだ。
「お前でも勝てないのか?」
ラウルは挑発するように言った。
「力が封印されてなければ、おいらなら勝てる。ただ、相当、しんどい戦いにはなるだろうな。そもそも、おいらはドラゴンの姿をしているけど、種族としては悪魔に分類されるんだ」
ラウルにとってその事実は初耳だった。
「ま、幾ら最強と名高いドラゴンでも、所詮は動物だ。闇の魔法を駆使する悪魔に勝てる道理はないさ」
今のジャハナッグにその力はない。
「なるほどね」
ラウルも納得するしかなかった。
「昔はおいらもドラゴンのゾンビをたくさん率いて、人間の国を攻め滅ぼしたものさ。でも、そのせいでゼラムナート様からは、命に対する敬意が足りなすぎるって叱られたけどな」
そりゃ怒るだろうと、そこにいた全員が思った。ゾンビを使役するのは最低の行為だと言われているのだから。
「ゼラムナートが命の敬意を語るのか」
ラウルにとっては滑稽に思える。
「邪悪な存在だって、生きていることには変わりない。命に対する敬意というか価値観はちゃんと持っているさ」
言い返すことができない正論だった。ジャハナッグは時々、こういう的を得た言葉を口にするのだ。
「ただ、善神や人間のようにあまりにも命を尊びすぎるようなことはしない。本来、人間に限らず命なんてものは消費されるべきものだからな」
「そっか」
命を消費物として扱っているのは、モンスターを殺しているラウルも同じだ。否定はできない。
「ま、とにかく、信じて待ちましょう。ゼラムナート様の僕が、サンクナートに祈ることはできないけど、頼りにすることくらいは許されるはずだから」
ルーシェはそう言って、フィリアの傍に椅子を持って来て、それに腰をかけた。
ラウルはしばらくすると食堂へと下りてくる。それから、一人カウンター席に座ると、何もできないことに歯がゆさを感じた。
剣の力では助けられない命もあるということを痛感させられたからだ。結局、物を言うのは魔法の力かと自嘲する。
すると、野菜の買いものを済ませたリリシャが帰ってきた。ラウルは何も知らないはずのリリシャに一通りの説明をする。
「あらあら、それは大変だったわね。私に何かできることがあれば、遠慮なく言ってちょうだい」
リリシャはこんな時でも明るさを失わなかった。
「ありがとう。とにかく、フィリアの体の傷口は塞がってるんだけど、熱が下がらないんだ」
毒でも受けているんじゃないかとラウルも心配している。
「そうなの。なら、熱冷ましの薬を作ってあげようかしら。ラウルやリーネが風邪になった時に良く作った薬だけど」
リリシャは薬作りが上手いのだ。
「そうしてよ」
「分かったわ。でも、ラウルがフィリア様と一緒に行かなくて良かったわ。あなたが殺されたりしたら、私もショックでそれこそ死んじゃうかもしれないもの」
リリシャは頬に手を当ててて言った。
「それは大袈裟だよ」
「でも、それくらい私にとってラウルは大切な家族だってことなの。もちろん、それはリーネも同じよ」
改めてそう言われると何だか気恥ずかしくなるな。
「そう言ってくれると嬉しいよ。ま、母さんも若さが保てる内に、結婚した方が良いんじゃないの」
幾ら長寿でも歳は確実に取る。
「ラウルとリーネが一人前にならない内はそんなことはできないわ。それに異種族には何かと偏見も多いから」
リリシャは少し寂しそうな顔をした。
「異種族なら人間よりも長生きができて良いのに」
「異種族は汚れているって思い込んでいる人も多いのよね。長寿だったり、強い魔力を持っているだけに妬まれることも少なくないし」
魔界にいる異種族を創造したのは邪神ゼラムナートだと言われている。ただ、今、魔界を統治しているのは魔王アルハザークだ。
そのアルハザークも現在、魔界ではなくこの世界にいる。
どういう風の吹き回しかは知らないが暗黒の魔導師と呼ばれるヘルガウストに付き従っているらしいのだ。
ヘルガウストは王宮魔法使いのトップにいたが、非人道的な研究を何度もやったという理由で王宮を追放された。
今はどこで何をしているのか、ラウルには分からない。
「それはあるかもね」
異種族に対する偏見を許してはいけないとラウルは思っている。
「でも、心は普通の人間と何ら変わらないわ。だからこそ、私もモンスターを食材にした美味しい料理を食べて欲しいと思ってるの」
リリシャは澄んだ目で言葉を続ける。
「迷宮のモンスターも汚れてるって食べるのを敬遠されている時期があったけど、その見方は改められたでしょ」
今やモンスターの肉を食べない者はいないのだ。ただ、神官などは未だにモンスターの肉を食べるのを避けているらしい。
「なら、異種族に対する見方も改められるかもしれないってことか」
そうなれば良いなとラウルは願った。
「そういうこと。とにかく、ラウルは私の心配なんかしないで、立派な大人になってちょうだい」
そう言うとリリシャは厨房に行って、熱冷ましの薬を作り始めた。
次の日の朝になる。
ラウルも昨日はあまり眠れなかったので精彩を欠く顔をしていた。
ルーシェが言うにはフィリアの傷は完全に治癒したらしく、後は意識を取り戻すのを待つだけらしい。
さすが、善神サンクナートの力で守られているだけのことはあるとラウルは思った。普通の人間なら死んでいたかもしれないというのに。
ラウルは食堂で少し遅めの朝食を食べる。
リリシャとリーネはフィリアのために、栄養が付くような料理を作ろうと、食材を市場に買いに行っている。
フィリアにモンスターの肉を食べさせるのは抵抗があったからだ。
ラウルもサンクナートの加護がある者は魔界の住人であるモンスターの肉を食べないと聞いていたし、たぶん、フィリアもそうなのだろう。
とはいえ、栄養満点の一角獣の肉ならフィリアに食べて貰いたかった。そんなことを考えていると、思わぬ人物が階段から下りてくる。
「あなたは確か」
すっかり顔色が良くなったフィリアが形の良い眉を持ち上げた。
「フィリア王女じゃないか。もう傷の方は大丈夫なんですか?」
ラウルは慌てて丁寧な言葉遣いで問い掛ける。
「はい。でも、何で迷宮にいた私がベッドで寝ているんですか?記憶が途切れていて、何があったのか良く思い出せないんですが」
フィリアはかぶりを振って、ラウルの前にまでやって来る。その足取りは確かなものだったし、もう大丈夫なようだった。
「あなたは昨日、迷宮で深い傷を負って倒れていたんですよ。それを見つけた俺があなたを宿に運び込んだんです」
すぐに目を覚ますことができて良かった。
「そういうことでしたか。あなたには大変な迷惑をかけてしまいましたようですし、すみませんでした」
フィリアは深々と頭を下げる。これにはラウルも心苦しいものを感じてしまった。
「謝らなくて良いですから、昨日、何があったのか教えてください」
それくらいは聞いても罰は当たらないだろう。
「昨日、私は腕利きの冒険者と共にオールド・ドラゴンに戦いを挑んだんです。でも、勝つことができなくて」
フィリアの瞳が揺らめいた。
「あなたと一緒にいた冒険者たちはどうなったんですか?」
「みんな殺されました。私も懸命に戦ったんですが歯が立たなくて、逃げるのがやっとだったんです」
フィリアは握り拳を震わせる。
「そうですか」
あんな屈強な男たちが殺されてしまったというのか。他人事とはいえ、ラウルも胸が痛んだ。
「大珠の瞳を目の前にしながら、逃げなければならないなんて。私のせいで死んでしまった冒険者たちにも、お詫びのしようがありません」
フィリアは悄然とした。
「それで、これからどうするんですか?」
「今度はもっと腕の立つ冒険者と共にオールド・ドラゴンを倒しに行きます。オールド・ドラゴンの力は把握できましたし、次は負けません」
フィリアは闘志を漲らせるような顔をする。
「無茶だ」
ラウルはそう言い放った。
「無茶でもやらなければならないんです。母を助けるためなら、どんな犠牲が出ることも覚悟してますし」
「でも」
「それに母だけのために言っているわけではないのです」
フィリアは頑迷さを見せながら言葉を続ける。
「失礼なようですが、国王の父にはこのサンクリウム王国を治めるだけの器量はありませんから。だから、名君だった母の復帰をみんなが望んでいるのです」
「そっか」
国王のアルベールは才覚に欠ける人物だと聞いてるが。
「母が政治の舞台に戻れば、このサンクリウム王国も益々、発展していくことでしょう。母は私にとっても、この国にとっても必要な人物なのです」
そう言い切るフィリアの声に迷いはなかった。
ラウルも政治の話にはかなり疎かったが、フィーネリア女王が本当に素晴らしい人物だったことは聞いている。
そんな人間が亡くなるのは、この国にとって大きな損失になるのは間違いない。
「おはようー」
計ったようなタイミングで、エレナが今日も元気良く店の入り口から現れた。
「このタイミングで来るなんて」
ラウルは頭を抱えたくなる。
「何よ、その態度は。客であるアタシがいつ来ようと、ちゃんと持て成すのがラウルたちの仕事でしょ」
エレナは頬を膨らませる。
「そうだけど、今は母さんもリーネもいないからな。俺だって作り置きのサンドウィッチを食べてるくらいだし」
ラウルが困り笑いをしていると、エレナの視線がフィリアへと向けられる。
その瞬間、エレナは「えっ」と声を漏らした。それから、顔の表情が見る見る内に恐縮したものになる。
「あ、あなたはフィリア様じゃない。どうしてこんなところにいるの?ひょっとして、ただのそっくりさん?」
エレナは引き攣り笑いをした。
「違います。私は正真正銘のプリンセス・フィリアです」
フィリアは臆すことなく言った。
「そ、そうなんだ。アタシもフィリア様の顔は式典で見たことがあったの。ちゃんと、覚えてて良かったー」
エレナはほっとしたよう息を吐くと、疑問を投げかける。
「それで、フィリア様はどうしてここに?」
「実は…」
フィリアは暗い顔で、ことの経緯を話した。
「ふーん。そんなことがあったんだ。でも、アタシもオールド・ドラゴンに戦いを挑むのは止めた方が良いと思うけどな。オールド・ドラゴンは何もしなければ襲ってこない無害なモンスターなんだし」
エレナは謙ることなく、自分の意見を口にした。しかも、ラウルみたいに丁寧な言葉ではなかった。
「それは分かっています」
フィリアは芯の強さを感じさせる声で言った。
「ま、あのフィーネリア様を是が非でも助けたいって言う気持ちは分からなくはないけど」
エレナは過去を懐かしむような目で言葉を続ける。
「アタシもお母さんが死ぬ時は、自分の命を引き替えにしてでも助けて欲しいって、サンクナート様に祈ったから」
だが、その祈りが通じることはなかった。
「善神サンクナートの加護を受けているフィリア王女の魔法では、フィーネリア女王の病気は治せないんですか」
そう口を挟んだのはラウルだ。
「無理ですね。私もあらゆる魔法を試してみましたが、効果がなくて。サンクナート様も私の祈りには応えてくれませんでしたし」
フィリアの言葉を聞き、ラウルはサンクナートは何もしないというルーシェの言葉を思い出した。
神々のことは人間には分からない。
「サンクナートは自然の流れを何よりも重んじる神よ。病気で人が死ぬのも、当たり前のことだと思っているんじゃないかしら」
階段から下りてきたのはルーシェだった。
「あなたは?」
フィリアが少し警戒するような顔をする。
善神サンクナートの加護を受けたフィリアと邪神ゼラムナートの加護を受けたルーシェ。
この二人には互いに通じ合うものがあるようだった。
「ルーシェよ。昔は王宮魔法使いをやっていたこともあったし、まだ小さかったあなたを見たこともあるわ」
ルーシェは顔の表情を綻ばせる。
「私は覚えていませんが」
フィリアは首を傾げた。
「そう。ま、私は大賢者ウルベリウスとの反りが合わなくて、すぐに王宮魔法使いを止めちゃったから無理ないかもしれないけど」
大賢者ウルベリウスは国王や女王の相談役だった。その権限は大臣よりも上だと言われている。
「でも、あなた以上にサンクナートの加護を受けているウルベリウスなら、女王の病を治すこともできるんじゃないの?」
ルーシェの言う通り、ウルベリウスもサンクナートを芳信していたのだ。
「そうだと良かったんですが、残念ながら大賢者様は手の施しようがないと諦めています。ですが、他の王宮魔法使いたちは大珠の瞳があれば治るかもしれないと言っていて」
フィリアはもどかしそうな顔をした。
「ウルベリウスが無理だって言ってるなら、無理なんでしょう。それとも、ウルベリウスも人が病気で死ぬのは仕方がないことだと思っているのかしら」
ルーシェの言葉には皮肉が込められていた。
「私には大賢者様の真意は測りかねます。あの方は人よりも常に高いところを見ておられますから」
魔法を使える人間は偉い、という先入観をこの国の人間は植え付けられている。特にこの国では。
ラウルはこんな体質では騎士たちも腐るわけだと言いたくなった。
「ふーん。私は頭の固いウルベリウスよりも、暗黒の魔導師のヘルガウストの方が好感が持てるけどね」
ルーシェは砕けたように肩を竦めた。
その言葉を聞き、ラウルもやはりルーシェも心に闇を持つ人間なのだと改めて思い知らされた。
もっとも、心に闇のない人間がゼラムナートの加護など受けられるはずがない。
力への渇望と知的好奇心。
この二つが魔法使いの本質だということはラウルも知っている。善悪といった性質は魔法使いたちにとっては二の次なのだ。
これが騎士だったら、誰もが善を尊ぶ言葉を口にするだろう。
そう考えたラウルは滑稽だと思い笑った。
少なくとも自分は騎士にも魔法使いにもなりたくない。自分はしがらみのない自由な冒険者になれれば十分だ。
ラウルがそう考えた瞬間、食堂の入り口から、三人の騎士たちが現れた。しかも、その内の一人は女性で、赤を基調とした騎士の制服を着ていた。
「ここにいましたか、フィリア様」
琥珀色の髪をした女性の騎士が厳めしい顔で言った。
「あなたはシモーヌ」
フィリアの顔が強張る。
「フィリア様が迷宮で怪我をされたという知らせを聞いて私も焦りました。でも、その顔を見るにたいしたことはなさそうですね」
シモーヌと呼ばれた女性騎士は安堵したよう顔をする。
「ええ」
フィリアも自然に笑って見せた。
「それでどうして、誰にも知らせることなく迷宮になど行ったのですか。正直、配慮に欠けた行動だと言わざるを得ません」
シモーヌはきっぱりと言った。
「それは…」
フィリアはエレナの時と同じように、ことの経緯をシモーヌに話す。それを聞いたシモーヌはこめかみに指を当てた。
「無茶にも程があります。フィーネリア様の病気は治らないと大賢者様も言っておられるでしょう。なぜ、それを理解しないのですか?」
シモーヌは叱責するように言った。
「ですが、大珠の瞳さえあれば、お母様の病気は治るかもしれないと、他の王宮魔法使いたちは言っています」
「それは可能性の問題です。実際には大珠の瞳の効能は何も分かっていないんですよ。手に入れられたとしてもフィーネリア様の病気を治せるとは限りません」
大珠の瞳がどんな病気も治すというのは言い伝えの域を出ない。シモーヌの言うことの方が正しいことはフィリアも分かっていた。
「だとしても私はそれに賭けてみたいんです。お母様の病気が治るのなら、どんな方法でも試さずにはいられませんし」
フィリアの声は熱を帯びている。
「でしたら、まずは国王陛下の判断を仰いでください。そうすれば兵を挙げて、オールド・ドラゴンを討伐することもできるでしょう」
シモーヌの言葉にフィリアは表情を固くする。
「お父様はそんなことはしません。大賢者様が治らないと言われるのなら、何をしても無駄だと言っているのですから」
フィリアは怒りを覗かせながら言葉を続ける。
「しかも、真偽も分からない情報を鵜呑みにして、兵を動かすことはできないとも私に言いました。お父様にはもうお母様の病気を治す意思はないんです」
フィリアは憎々しそうに言った。
「であれば、そのご意向にフィリア様も従うべきです。それとも、冒険者の命なら幾ら使い捨てても構わないとでも言うおつもりですか?」
シモーヌの言葉にはバラのような棘があった。
「そんなことは…」
フィリアも言い淀む。
「とにかく、一度、王宮にお戻りください。王宮にはフィリア様のことを心配しておられる方がたくさんいるのですから」
「分かりました」
フィリアも観念したように頷いた。
それから、シモーヌさんはラウルたちに向かって優雅に一礼すると、フィリアを伴って、食堂から去って行った。
「どうして、シモーヌさんはフィリアがここにいるって分かったんだろうな。俺たちだって、余所の人間にはまだ何も話してないのに」
ラウルは腑に落ちない顔をする。
「おいらが王宮に行って、フィリアのことを話してきたんだ。おいらも王宮じゃ少しばかり顔が利くからな」
そう言ったのはルーシェの肩の上に乗っていたジャハナッグだ。
「ついでに、エリュミナスとチェスの勝負の続きもしてきた。ま、今回の勝負は奴の勝ちだったが、次は負けないさ」
ジャハナッグは道化のように笑った。
「そういうことね」
ラウルは合点がいったような顔をすると、フィリアの母親の病気を治す方法は本当にないのだろうかと考えた。
エピソードⅢに続く。