エピソードⅠ 王都の日常
エピソードⅠ 王都の日常
リバインニウムと呼ばれるこの世界でも、最も大きく華やかな国として見られているサンクリウム王国。
そのサンクリウム王国の王都サンクフォードはまさしく世界一、賑やかな都市と言っても過言ではなかった。
その要因としてはやはり地下に大迷宮があるからだろう。
大迷宮は遙か昔にいた古代の人間が作った遺跡と言われていて、その最深部には魔界のゲートがあると言われている。
その魔界のゲートからモンスターが際限なく現れるのだ。なので、幾ら倒してもモンスターの数が減ることはない。
ただ、どういう形でモンスターが生み出されているのかは分からない。
魔界の王、アルハザークは強大な力だけでなく、人間には遠く及ばない深遠な知識も兼ね備えている。
故に、何もないところからモンスターを生み出す術も持ち合わせていると言われていた。
しかしながら、強いモンスターほど魔界から流れ込む空気がないと生きていけなくなる。なので、地上に近い階にいるモンスターはそれほど強くない。
そして、そんなモンスターたちを冒険者と呼ばれる人間たちが狩るのだ。
モンスターの肉は食料になったり、爪や牙、革などは加工品として使われたりする。モンスターという資源は大変ありがたく、貴重なものだった。
モンスターという資源によって、この王都の経済が成り立っていると言っても過言ではないのだ。
迷宮に挑戦するために世界中から冒険者が、この王都サンクフォードに集まるし、地上の都市も見るべきところはたくさんあるので観光客も押し寄せて来る。
王都が世界一賑やかなのもそう言った要因を考えれば頷けというものだった。
現在、ラウルはそんな王都の地下にある迷宮の中にいる。
ラウルの家は小さな宿屋を営んでいるし、建物の中にはこじんまりとした食堂もある。実際、料理だけを目当てにラウルの宿に来る客も多い。
それだけに料理の質を支える食材の確保には余念がないのだ。
だからこそ、今日もラウルは危険を冒してモンスターを狩らなければならない。
そんな、ラウルの剣の腕前はかなりのものだし、相手が一角獣、程度の相手なら負ける要素はどこにもなかった。
ラウルは一メートルを超える長い角を持つ一角獣と対峙する。一角獣の体調は三メートル以上あり、かなり獰猛だ。
また、勝てない相手だと分かれば逃げる知恵も持ち合わせている。
そんな一角獣が鋭い角を突き出して突進してきた。槍の穂先のような、角が空に穴を穿つように迫る。
が、ラウルはそれを軽やかにかわす。
そして、手にしていた愛用のブロードソードを振り下ろした。が、一角獣はその一撃を角で受けとめて見せる。
ラウルの腕に強い衝撃が加わった。
ラウルが剣を握り直している隙に、一角獣はクルリと機敏に方向転換をして再びラウルの方へと迫り来る。
ラウルは一角獣の動きを冷静に捉えると、一角獣の突進を身を捌いてかわす。それから、すれ違い様に雷光のような剣の一撃を放った。
その一撃は一角獣の頭部をいとも容易く切断する。
あまりの鮮やかな斬撃に血飛沫すら上がらなかった。残った一角獣の胴体は糸が切れたように横倒れになる。
ラウルは床を転がった一角獣の頭部を持ち上げると、それを革袋の中に入れた。
その顔に敵を倒したことによる高揚感はない。
魔界から現れたモンスターと言えども、一つの命には変わりないからだ。だから、命に対する軽視が染みつかないように気を付けてはいる。
それから、一角獣の死体を剣とは違った長さを持つナイフを使い、慣れた手つきで解体していく。
解体が終わると脂の乗った良い部分の肉を、やはり革袋の中に入れた。手は一角獣の血で赤く染まっていたが迷宮の中では洗い落とすこともできない。
血の匂いも慣れてはいるが、不快なことには変わりなかった。
ラウルは食材の調達もできたし、これで帰ろうと思う。今、ラウルがいるのは地下三階だから、三十分も歩けば地上に戻れる。
もちろん、モンスターと出会さなければの話だが。
ラウルは解体された一角獣の屍に背を向けて、迷宮の通路を歩き出す。
ちなみに古代の遺跡である迷宮の壁には光石という文字通り光を発する石が埋め込まれている。
光石はどこにでも使われている石だが、遺跡などにある光石は取り分け良質の物が多い。一万年も光を発する光石もあるくらいなのだ。
なので、太陽の光など一筋も入らない迷宮の中でも明かりは確保されている。
松明を持つ必要性がないのは冒険者たちにとっては、とてもありがたいことだった。
迷宮に光石を取り付ける仕事もあるくらいだし、ラウルも昔はその手の仕事を良く引き受けていた。
ラウルは迷宮の存在にありがたみを感じながら、帰路についた。
ラウルは遊技場やカジノ、酒場などが軒を連ねる王都の歓楽街にやって来た。
今は夕方だが、それらの店にはポツポツと明かりが灯り始めている。夜になれば、この辺りは昼間とは全く違う顔を見せる。
特に肌を露わにした女性たちが客引きをしてる店は看板の明かりも刺激的だ。
夜の歓楽街はあらゆる楽しみを提供してくれるのだ。
そして、そんな歓楽街の奥まった路地には子鹿亭という宿屋がある。
そこがラウルの家だった。
ラウルは本格的な夏の暑さを感じながら、暗い雰囲気を漂わせる店が押し込まれた路地を歩いていく。
それから、子鹿亭の前までやって来た。
「ただいま」
ラウルが子鹿亭の中に入ると、ウエイトレス姿の妹、リーネがラウルを出迎えた。
ラウルとリーネがいるところは食堂になっていて、カウンター席の他にテーブルなども四つほど用意されている。
ちなみにリーネはラウルとは全く血が繋がっていないのだが、母親のリリシャに引き取られた子供には違いないので、一応、妹と言うことになっていた。
「お帰り、ラウル兄さん。今日は随分と帰ってくるのが遅かったけど、食材はちゃんと手に入れられた?」
リーネはツインテールにしてある栗色の髪を揺らしながら言った。
まだ十四歳になったばかりのリーネだが、その顔には女性としての器量の良さも窺えた。嫁の貰いには苦労しなさそうである。
「ああ。かなり粘ったおかげで、一角獣の角と肉を手に入れることができたよ」
ラウルは背中に背負っていた革袋を持ち上げた。
血の付いた革袋はしっかりと洗っておかないと臭くなって二度と使えなくなる。革袋を洗うのもリーネの仕事だった。
「一角獣の肉は美味しいからね。角も固いけど一生懸命、磨り潰して、お湯に溶かせば、栄養満点のスープになるし」
リーネはモンスターのことにも詳しい。
もともと、リーネは何かを学ぶと言うことに関しては貪欲なのだ。
だから、気になったことはそのまま放置せず、この王都にある王立図書館に行って調べるようにしている。
もっとも、戦いとは無縁のリーネにとっては、どんなモンスターもあくまで食材に過ぎないのだが。
「残念だけど、角は明日、ギルドに持っていかなきゃならないんだ。十五万シュケムで引き取ってくれるって言うし」
ギルドの仕事を依頼する紙には一角獣の角を求むと書いてあった。
「そんなに貰えるんなら、ウチの食材としてはちょっと使えないか。私も一角獣のスープは久しぶりに飲みたかったんだけどな」
リーネはコロコロと笑った。
「飲ませなきゃいけないのは、母さんだけどな。ここのところ、ずっと働き詰めだし、栄養は付けて貰いたい」
母親のリリシャがいるからラウルたちも特に問題なく暮らしていけるのだ。そのリリシャに倒れられたりしたら大変なことになる。
「だよね。ま、そういうことなら少しだけ一角獣の角を使わせて貰おうよ。少しなら引き取る値段も変わらないでしょ?」
「まあな」
ラウルも少しくらいなら文句も言われないだろうと楽観する。基本的には真面目な性格のラウルだったが、融通が利かないわけではなかった。
「あらあら、私の話が聞こえてきたんだけど、どうかしたのかしら?」
カウンター席の奥にある厨房からリリシャが現れた。ブルネットの髪が艶やかで、年齢も二十歳くらいにしか見えない。
普通だったら、リリシャがラウルとリーネの母親だとは思われないだろう。ほとんどの人間が姉だと思うはずだ。
「お母さん、ラウル兄さんが一角獣の角を取ってきてくれたの。だから、お母さんに角のスープを飲ませてあげようと思って」
リーネの声は弾んでいた。
「そうだったんだ。なら、最近、疲れっぽいし、お言葉に甘えて少しだけ飲ませて貰おうかしらね」
リリシャは首の辺りに被さる髪を撫でつけた。
「それが良いよ」
リーネも頷く。
「私も魔族の血を引いてるから歳は関係ないと思うんだけど。やっぱり、働き過ぎかしら」
リリシャがいつまでも若さを保っていられるのは魔界に住む魔族の血のおかげだった。リリシャは人間の母親と魔族の父親を持つハーフなのだ。
だが、母親は既に死んでいて、父親も魔界へと帰っている。
そんなリリシャの年齢は百歳を超えているのだ。
引き取られた息子のラウルとしてはリリシャの将来が心配だし、できれば元気な内に結婚して欲しいと思っていた。
「うん。お母さんはもっと兄さんや私を頼りにしてくれて良いんだって。私の作る料理だって、お母さんと比べても、もう遜色ないでしょ」
リーネの料理の腕はかなりのものだ。
しかも、最近はその腕をメキメキと上達させ始めたし、リリシャを超えるのも時間の問題だった。
「そうねぇ。でも、子鹿亭で料理を作るのは私の生き甲斐だから、それは奪わないで欲しいわね」
リリシャは寂しげに笑った。
「分かってますよ」
リーネもリリシャの心は理解している。
「とにかく、俺の夕食を作ってくれよ。母さんじゃないけど俺も疲れが溜まってるし、旨い肉が食いたい」
そう言うと、ラウルから革袋を受け取ったリーネは厨房の奥に消えた。
「家族って良いわねぇ」
そう言って、二階へと続く階段から下りてきたのは魔法使いのルーシェだった。
十八歳くらいに見えるルーシェは腰まで伸ばした銀髪を何とも色っぽく掻き上げる。その服装はいかにも魔法使い然としていた。
実際、ルーシェは凄腕の魔法使いなのだが、滅多に魔法は見せてくれない。
「夕食はもうじきできますよ、ルーシェさん。聞いてたかもしれませんが、今日の料理には一角獣の肉が使われます」
ラウルはカウンター席に座るとそう言った。
「それはありがたいわね。私は食事なんて三ヶ月はしなくても、生きていけるんだけど、この子はそうじゃないし」
ラウルの横にルーシェも座る。
彼女の肩には黒色の手乗りサイズのドラゴンがいた。ドラゴンはかなり愛くるしい顔をしている。
「おいらは今日も肉と豆の料理が食べたい。しかも、この血の匂いは、若くて健康的な雄の一角獣だな。なら、楽しみだ」
そう言って、ドラゴンは舌なめずりをする。このドラゴンの食い意地の張りようは目に余るものがあるのだ。
最強の生物であるドラゴンとしての気品などまるで感じられない。
「さすがに良い鼻をしてるな」
血の匂いまでは隠せないが、どんなモンスターの血かを正確に嗅ぎ分けられるこのドラゴンはさすがだとラウルも言いたくなる。
やっぱり、ドラゴンは侮れない。
「邪神ゼラムナート様が生み出した最高のドラゴン、邪竜ジャハナッグ様を舐めたら駄目ってもんだぜ」
ジャハナッグは胸を反らした。
「それは知ってるよ」
何度も聞いた台詞だ。
「そうかよ。ったく、ゼラムナート様の命令じゃなきゃ、こんな小憎たらしい女と一緒にいることもないのに。しかも、俺の持つ本来の力も封印されたままだし」
ジャハナッグは半目でルーシェの横顔を見る。
ジャハナッグは過去に邪神ゼラムナートを激怒させることをして、ドラゴンとしての力を封印されたとラウルは聞いていた。
もし、ジャハナッグが本来の力を持っていたら、ルーシェはともかくラウルなど丸呑みにされていただろう。
「それも知っているわ」
そう言ったのは艶然と笑うルーシェだ。
「とにかく、おいらは早く飯が食いたい。リーネにはさっさとビールと枝豆を持ってくるように言ってくれ」
ジャハナッグがそう言うと、厨房にいるリーネが「分かってるよー」と声を返してくる。リーネの耳は良い。
「でも、ルーシェさんも長いことこの王都に滞在してますけど、何かやるべき事は見つかったんですか?」
ラウルは改まったように尋ねた。
「今のところないわね。ゼラムナート様はせっかく不老不死の体を与えたんだから、人生をじっくり楽しめって言ってたけど」
ゼラムナートの使う魔法でルーシェは若々しい姿を保っている。
ちなみに、ゼラムナートはこのリバインニウムの中でも、最も名前を知られている神の一人だ。
邪神ゼラムナートと対になる形で存在しているのが善神サンクナートだった。このサンクリウム王国もサンクナートの助力で作られた国だと言う。
またサンクナートは王宮で暮らしている聖竜エリュミナスを生み出した神でもあった。
聖竜エリュミナスと邪竜ジャハナッグは大変、仲が悪く、遙か昔にはこの王都を焼き尽くすほどの激しい戦いを繰り広げたという。
今でもジャハナッグはエリュミナスのことを苦々しく思っているようだった。ただ、かつてのような争いはしない。
もし、そんなことをすれば今度こそ神々の怒りを買いかねないからだ。例え、一国すら滅ぼせるドラゴンでも神には勝てない。
そして、善神サンクナートと邪神のゼラムナートの上に創造神ゼクスナートがいる。創造神ゼクスナートはこのリバインニウムの創造者とも言われている。
ただ、ゼクスナートのことに関しては、ほとんど何も分かっていない。
ただ、ゼラムナートを良く知っているルーシェやジャハナッグがゼクスナートはいるというのだから、やはりいるのだろうとラウルは思った。
「なら、楽しめば良いじゃないですか」
「もう楽しんでるわよ。こうして、毎日のように王都サンクフォードの王立図書館に通い詰められるんだから」
王都の王立図書館は世界一大きな図書館と言われている。建物の中には目が回るほどのたくさんの本があるのだ。
ラウルも本を読むのは苦手だった。
一応、サンクフォード学院の中等部までは卒業していたが。
しかしながら、高等部には費用の関係で入れなかったし、その上のアカデミーなんて絶対に無理だろう。
結局、最後まで学校に行けるのはある程度の富裕層だけなのだ。
「そうですか」
「ま、読むべき本がなくなったら、ジャハナッグと一緒に東の大陸にでも言ってみるわ。そこには一風、変わった文化を持つ人々が暮らしているらしいし」
東の大陸は未知の部分も多く、どんな国があるのかはあまり知られてない。
「東ですか。俺も行ってみたいですね」
いつかは旅に出たいとラウルも思っていた。
「なら私と一緒に行く?王立図書館の本はあと十年はかけなきゃ読み終わらないけど、その時にはあなたも立派に成長しているでしょ」
「考えてみます」
ラウルはまだ十六歳の少年だった。自分の人生を自分で決定する力や意思はない。もちろん、勇気も。
「クーッ、やっぱり、子鹿亭のビールは旨いぜ。他の店とは使われている麦が違うんだよな。枝豆の塩加減も絶妙だし」
カウンターの上に運ばれたビールを飲むと、ジャハナッグは最高だとでも言いたそうな顔をした。
「こんばんはー」
一際、元気の良い声が聞こえてきた。
「エレナか。今日は来るのがいつもより遅いけど、もう見回りはもう終わったのか?」
腰に帯剣し、軽めの防具も身につけている女の子が赤い髪を棚引かせながら食堂に入ってくる。
「たった今、終わったところよ。アタシの見回り時間は夕方までになったからね。でも、父さんは未だに夜の見回りを許してくれないのよ」
ラウルの幼馴染みのエレナはそう言った。
エレナは毎日のようにこの子鹿亭に夕食を食べに来る。ラウルも自分の家で食べれば良いのにと思うのだが、エレナの家には母親がいない。
だから、夕食も外で食べるしかないのだ。
「エレナは女の子だからな。夜の歓楽街は歩かせたくないんだよ」
小さい頃は、ラウルも自警団の団長をしているエレナの父親に良く剣術を教えて貰った。ラウルもエレナも父親のあまりに厳しいしごきにいつも泣いていたが。
だが、それがあったからこそ、ラウルもモンスターと戦えるくらいの剣の腕を身につけることができたのだ。
その剣の腕は今の生活にも大いに役立っている。
「私は大の男が七人がかりで襲いかかってきても負けなかったのよ。女の子だからって理由で軽く見られたくはないわね」
エレナは剣の柄に手を置いた。
「まあ、そこら辺は親父さんの心中を汲み取ってあげろよ」
エレナの父親のハンフリーは今も自警団の団長として、バリバリに活躍している。
ただ、現在の騎士の体質には憤りを抱いていた。なので、騎士たちと衝突することもしばしばだった。
「そうね。でも、十八歳になったら、私も男と同じ扱いをするようにして貰うんだから。もし、それができなきゃ。父さんが嫌ってる騎士になってやるわ」
エレナはニタッと笑った。
「女性の騎士も良いと思うんだけど、そんなことは親父さんには言えないな。昔のようにゲンコツが飛んできそうで怖いし」
「あり得るわね。ま、アタシも町を守る自警団の団員としての誇りはあるんだけど、やっぱり、華やかな騎士には憧れちゃうな」
エレナが本当に騎士になりたいと思ったら、ハンフリーも反対しないだろうとラウルは思った。
自分の道は自分で決めろとハンフリーも常々、言ってたし。
「とにかく、頑張れ。俺たちはまだ十六歳なんだし、努力しだいでどんな人間にだってなれるだろ」
自分の道は自分で切り開かなければ。
「うん。ラウルにそう言って貰えると、アタシもファイトが沸いて来ちゃうな。頑張れ、アタシ!」
エレナはギュッと握り拳を作った。
「その意気だ」
ラウルも鷹揚に頷く。
「若いって良いわねぇ。私もあなたたちくらいの年齢の時は、そんな風に目を輝かせていたのかしら」
そう言って笑ったのはラウルたちの話を聞いていたルーシェだった。その目はどこか遠くを見ている感じがする。
「健全な人間を止めて、歳を取ることも忘れちゃったルーシェさんの言葉は嫌味にしかなりませんけど」
エレナはジト目でルーシェを見た。
やはり、女性にとって若さとはかけがえのないものなのだ。だからこそ、エレナもルーシェには少なからず嫉妬していた。
「なら、エレナちゃんも邪神ゼラムナート様に仕えれば良いのよ。働きぶりが評価されれば、不老不死の体を手に入れることだって夢じゃないわよ」
ルーシェの言葉には抗いがたい誘惑があった。
邪神ゼラムナートは自分に従う者には寛容な神だった。
厳格さばかりが際立っている善神サンクナートよりも、人々にとっては親しみ易い一面もある。
なので、ゼラムナートを崇める者も多いのだ。
「おあいにくさま。ウチの家系は代々、善神サンクナート様を芳信してきましたから、アタシもそれに習います」
エレナは甘い言葉を撥ね除けるように言った。
「残念ね。サンクナートなんて何もしてくれないのに」
ルーシェは肩を竦める。
善神サンクナートはほとんど表舞台には現れない。
その代わり、サンクナートを崇める宗教組織が、サンクナートの意思を代行している。
だが、それらの宗教組織も近年では、その腐敗ぶりが目立つようになり、民衆たちのサンクナート自身に対する不信感も大きくなっている。
「サンクナート様はこのサンクリウム王国を作った神ですよ。なら、この国に暮らす者としてサンクナート様を信じるのは当然の務めです」
エレナも信心深い人間ではないが、やはり善神サンクナートの存在には心を支えられている部分があるのだ。
「ま、エレナちゃんがそう言い張るなら私から言えることは何もないけどね。でも、信じる相手は間違えちゃ駄目よ」
ルーシェはそう重みを持たせるように言い聞かせた。
「お待たせしましたー」
威勢の良い声と共にリーネが夕食の載った丸いトレイを運んできた。その上には湯気が立ち上る肉の乗った鉄板がある。
いい加減、空腹に耐えられなくなっていたラウルは一角獣の肉のステーキを前にすると、生き返ったような心地で肉を口に運んだ。
エピソードⅡに続く。