少年とさ迷えるじいちゃん
その日の夕暮れ、重光は一人見知らぬ街中をひとりで歩いていた。
魔道兵士部隊の屯所へ戻ると、フリオに案内された重光は誰もいない食堂へ連れて行かれた。ここまで案内してくれたフリオは、しばらく外すがここで待つように、と言って立ち去った。今は、誰も、料理人すらもいない。
なんだかよく分からないので良いようにしてください、とばかりに頷いていた重光だがこうして考えてみるとやはり良くないのでは、と思えてくる。
ものの分からない幼子でもあるまいし、じっくり一人で考えてみると別の世界にいる、ということが信じられなくなってきた。
気付けば、ほんわかと暖かかった頭上もいつもの通り。
食堂の隅に立てかけられている鏡で見てみれば、イルカも鳥もいないではないか。重光はからかわれたのだろうか、と首を傾げる。
こんな老いぼれを騙してなんの得があるというのだろう。
年金だってたくさん貰っているわけではないし、蓄えだってたくさんあるわけでもない。お金目当てでないと思いたい。
そうかと言って、ヨシュアやフリオ、コジモが悪い人間とも思えない。だから、なおさら薄気味悪く思えてきた。
そう考えると居ても立ってもいられず、食堂を出て屯所から出た。
昼食ありがとうございました。みなさんのお気持ちはありがたく頂戴いたしました。少々出かけますが、心配なさらずに。みなさんお達者で――という書置きを記したメモ帳を食堂のテーブルに残して。
軍の敷地から出るときも、特に咎められることなく出られた。
入る者には入念なチェックが入るのだろうが、出る者にはそこまで神経を使っていないのだろう。
そうして無事に軍の敷地から出た重光は歩き始めた。
どこへ向かえば良いのかは分からないが、道を尋ねるのは得策ではないことは身に沁みた。
歩いているうちにバス停か駅でも見当たらないだろうか。そう思いながら大きな通りをゆっくりと歩く。
ベンチがあれば腰を掛けて一休みし、周りの様子を見ていると、ときおり二頭立ての馬車が通り過ぎる。
そうやってどれくらい歩いただろうか。重光はいつの間にか活気のある商店街を歩いていた。女性たちは踝が隠れるほどの草臥れたワンピースを着て、店主と遣り取りをしている。煤けた顔の男たちは継ぎ当てだらけのズボンにジャケット、ハンチングを被っている。
そんな中をとぼとぼ歩いていると、大きな車輪の自動車が通り過ぎた。
立ち止まり、それを眺めていた重光は自動車の去った方へ向かって歩き出した。
日が傾き始め、日が沈む頃に重光は広場へと着いた。
円形状で、短く刈られた草と石畳が地面を多い、周囲にはガス燈のような街燈が等間隔に配置されている。それなりに整えられた広場だ。
自動車はとうの昔に見失っている。
重光は途方に暮れた。
屯所に戻ろうにも道など覚えていない。やはり、出てくるべきではなかったのだろうか。
ため息を吐きながら、広場に据えられたベンチに腰掛けようとしたとき、ふと変な音が聞こえてきた。ギターの音色のようだが、物悲しいというより薄気味が悪い。
曲調は明るいのに、聴いているとそれこそ魂を異界へ持っていかれてしまいそうな、あるいは異界からなにか得たいの知れない物が這い上がってくるような、人を不安に陥れるような音だ。
重光は、ほう、と首を傾げて音源へ目を向けると、街燈の下で誰かが地面に座りギターを奏でているのが見えた。
影になる物などないはずなのにそこだけ暗く陰鬱な空気が漂っている。人が多いはずの広場なのに、そこだけぽっかりと穴が開いたようになっている。
我知らず、それに近づく重光。
ギターを抱え弦を爪弾いているのは少年のようだ。重光が近づくと、少年は楽器を引く手を止めて顔を上げた。まだあどけなさが残る顔立ちは、十三、四くらいだろうか。
「邪魔してすまんのう」
少年は別に、と素っ気無く言って再び楽器を鳴らし始めた。
「随分と不思議な曲を弾いておるのう。なんていう曲じゃ?」
イルテリ海岸の白い鳥、と少年は弾く手を止めずに素っ気無く帰した。鳥ではなく不気味な得たいの知れない何かが音もなく飛んでいそうな曲だなあ、と重光は思った。
曲はともかく、少年はまだ小さな手で弦をしっかり押さえてきちんと音を出している。チューニングもちゃんとしているようだし、ピッチがずれていることもない。
「上手に弾くもんじゃなあ。こんな時間まで練習しているのかい、坊や」
重光が褒めると、少年は再び手を止めて重光を見上げた。
「仕事が終わるのが、この時間だから……。家じゃ弾けないし」
褒められて悪い気はしなかったのだろう。まだ素っ気無いが会話をしようという気にはなったようだ。
「おお、仕事もしているのか、えらいのう」
やはり、別に、と言うが照れているのか耳が真っ赤になった。
「是非、他の曲も聴いてみたいもんじゃが……何か弾いてくれんか?」
重光がそう言うと少年は首を振った。
「父ちゃんに教えてもらったのこれだけだから、これしか弾けない」
「他の曲は教わってないのかい?」
すると、少年は返事をせずに暗い目をして俯いた。聞いてはいけないことを聞いてしまったようだ。楽器を持って立ち上がろうとする少年に、重光は慌てて謝り引き留めようとした。
「こりゃあ、悪いことを聞いてすまん。待ってくれんか……」
だが少年は重光をちらりとも見ず、ギターを大事そうに抱えると歩き始めた。小さくなる少年の姿に愕然とする重光。
本日何度目か分からない途方に暮れた重光は、おもむろにトランペットを出すと、たった今聞いたばかりのメロディーを吹き始めた。
恐らく民謡だと思われるが、もちろん歌詞は分からない。曲調のイメージでは明るい感じがするのだが、どうなのだろう。
白い砂浜で羽を休める白い鳥、青い海の上を羽ばたく白い鳥。
どうなのだろう。
重光が吹いていると、いつの間にか少年が戻ってきて重光を見上げていた。
「じいちゃん、もう一回、俺も一緒に弾いても良い?」
「もちろんじゃ。じゃが、その前に、この詩の内容を教えてくれんか?」
少年は、じいちゃん知らないの、と少し驚きながらも説明をはじめた。
「ん、と……。イルテリ海岸っていうのは、死んだ人の魂が白い鳥になって休む場所で……それで、この曲が流れるところにその海岸があるんだ……。だから、この曲弾けば、父ちゃんの魂が……」
少年は泣きそうな顔になったが、堪えた。
なるほど、鎮魂曲か。
重光は頷いた。重光が演奏をするときは、それがどのような曲なのか理解しても、そこに感情を込めることは一切ない。
死者に安息を。
だが少年は安らぎではなく、悲しみのうちに曲を奏でていたのだろう。それだけで、よくもあれほどまでに陰鬱な空気を出せるものだ、末恐ろしい。
「悲しい気持ちにならず、演奏することにだけ集中するのじゃよ。そして、じいちゃんの出す音も聴きながら演奏してみると良い」
生徒にたびたび言うことを、重光は少年にも言った。
少年が不思議そうな顔をしつつも頷くと、どちらからともなく演奏が始まった。
重光の出す音を聴き、自分の奏でるギターの音に集中する。
すると、不思議なことに音が世界を作り始めた。今までは、悲しい気持ちにしかなれなかったのに、今は純粋な音だけの世界になった。
重光の世界なのか、少年の世界なのか。
そこに音もなく降りてくる白い鳥が一羽見える。鳥は羽を畳むと静かにそこに佇んだ。
いつ曲が終わったのか分からないが、終わると拍手の音が聞こえてきた。その音に少年は我に返った。いつの間にか観客が数人、二人の前で拍手をしている。
重光が優雅に頭を下げると、少年も倣って頭を下げた。
そして顔を上げるとそこには。
「……父ちゃん……父ちゃんだ!」
「遅くなったな、ジーノ」
「父ちゃん! 討伐終わって、帰ってこな、か、ら……」
父親に駆け寄った少年は堰を切ったように泣き出した。
「怪我しちまってな。だいぶ遅くなったが、ちゃんと帰って来れたぞ」
他の観客とともに、良かったのう、と頷く重光だが、自分の状況がちっとも良くないことをすっかり忘れていた。