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追い返されるじいちゃん

 

「ここは、どこじゃ?」


 川中島重光は年の割りにはふさふさしている、と本人は思っている白い頭に手をやりながら、頭を回らせ今来た道を見やった。

 先ほど降りたバスはもうどこにも見えなくなっている。


 どこをどう歩いたのかまったく見覚えのない場所に「徘徊」の文字が頭を過ぎる。

 いやいや、まだ大丈夫。

 と、思いたいのだが現に見知らぬ場所に立っているのだから言い訳のしようがない。


 年を取ったせいか汗などかくことも少なくなったが、冷や汗がじんわりと額に浮いてくる。


 重光は順序立て、今朝からの行動を思い起こす。

 朝起きて、顔を洗い孫の用意してくれた朝食を食べた。


「朝食は、シャケにワカメの味噌汁……。そうじゃ、ほうれん草の胡麻和えじゃった」


 朝食は思い出せたが問題はその後だ。


「……しまった、薬を飲むのを忘れとった」


 降圧剤やらなにやら飲まなければならないが、すっかり忘れていた。

 昨日もすっかり忘れて、老友の芳一と「ワシらもロートルじゃなあ」と笑っていたばかりだ。


 そう言えば、ここ一年ほど薬の飲み忘れが多くなってきたのは気のせいだろうか。

 意識的にか無意識的にか、週に三、四回は飲み忘れる。

 以前は妻が飲み忘れのないように、湯飲みにぬるま湯をを淹れて薬とともに出してくれたものだ。

 今日で五十回目の結婚記念日になるはずだったのだが、一昨年、肺炎を拗らせて呆気なく逝ってしまった妻。

 そこで重光はようやく思い出した。


「そ、そうじゃ。確か、雪江さんの墓参りに行ったんじゃな」


 朝食後、茶碗を洗い、洗濯掃除も済ませて十一時少し前に家を出た。

 グレーのスラックスにクリーム色のポロシャツ、その上に白いジャケットを着てベージュの中折れ帽子を被り玄関を出た。片手に茶色の皮の長方形のケースを持って。

 バス停までは歩いて五分、バスに乗って十分の商店街で降りて花を買い、さらに歩いて十分ほどのお寺に着いて花を入れ替えて妻のお墓に手を合わせていた。


 夫婦になって五十年。

 良い夫とは言い難い重光に、よく着いてきてくれた。


 戦前生まれの重光は戦後、進駐をによって齎されたジャズにのめり込んでいった。柔らかくシルキーなトランペットの音を始めて聞いた衝撃は今でもはっきりと覚えている。

 なんとも切なく甘く、体中に染み渡る音に時が止まった。


 翌日音楽の教師の下へ行き、ブラスバンド部に入部。そこでトランペットを手にするもすぐに音は出るはずもない。先輩の指導の下、譜面の読み方を教わりひたすら練習を繰り返す。それが重光は楽しかった。

 

 重光は卒業を待たず、バンドに出入りし米軍キャンプでの慰問の仕事をこなすようになった。

 もちろん最初から演奏させてもらえるわけではなかったが、プロの演奏を生で聴きその熱を直に感じ、その熱が冷めやらぬうちに練習に打ち込んだ。


 彼に才能があるとするなら、音楽の才能ではないだろう。

 ひたすらに練習をし努力を努力と思わずに、ただひたむきに真摯に音楽と向き合える、それが彼の才能であろう。

 

 時はめぐり、キャンプからクラブ、キャバレーへと時代は移り変わる。ナイトクラブやホテルでのショウではジャズを演奏し、キャバレーでは演歌の生オケ演奏はもちろんルンバでもマンボでもタンゴでもボレロでも何でも演奏した。彼自身は三番トランペットを任されていたのだが、欠員があれば何番だろうとかまわずに演奏した。

 

 そしてキャバレー時代に二度目の衝撃の出会いを果たす。それが妻の雪江だった。

 その日、仕事で入ったキャバレーでホステスのアルバイトを始めたばかりの雪江と出会った。聞けば簿記の専門学校生として地方から上京してきたという。

 偶然にも重光が疎開していた地方からやってきた雪江と話しが弾み、また都会擦れしていない彼女に好意を寄せるのに時間は掛からなかった。

 音楽に向けるひたむきさと同等かそれ以上の真摯さを雪江に向けるうちに、雪江も重光の一途さに好意を寄せるようになっていた。

 当時のバンドマンにしては珍しく、女性遊びなど見向きもしない実直な重光と純朴な雪江は周りからも大いに祝福された。


 さらに時代の変遷とともにキャバレーの時代は幕を閉じる。カラオケが出始め、生バンドの需要はバブルの終焉とともに急速に失われていった。重光は、ある一つの時代の全盛期から終焉をその中で過ごした。

 それでも重光の中では何も終焉を迎えてなどいなかった。 


 結局重光は小さな音楽教室で講師を務めることになり、家計の半分は大手建設会社の経理に勤めていた雪江に背負わせることになった。

 それでも雪江は文句一つ言わずによくもまあ着いてきてくれたものだ。息子二人を立派に育て上げ、孫も大きいのは高校生になる。とうに仕事も退職して、のんびり孫が来るのを楽しみにしていた。

 そんな穏やかな生活は長くは続かなかった。雪江は七十を待たずに逝ってしまった。

 このとき重光の中で何かが終わりを告げた。 


 突如として音楽が、楽器が、彼の人生そのものが憎たらしくなった。


 もし、まともな職に就いていれば妻をもっと幸せにしてやれただろうか。楽な生活を過ごさせてやれただろうか。もっともっと長生きをしてくれただろうか。


 ――重光さん。だったら、私とあなたは出会わなかったでしょう


 目を閉じて掠れた声で言った、それが最後の言葉だった。

 そう言って欲しかっただけじゃないのか。結局、雪江に最後まで甘えただけの格好悪い年寄りじゃないか。

 それでも重光は死ぬまで演奏は止められないだろう、と悟った。

 結局、雪江は重光のことを一番理解していたのだ。


 生まれてからの思い出が脳裏にまざまざと浮かんだ。まるで走馬灯のようだった。


「ううむ……。もしや、暑さで倒れてそのまま死んだか?」


 確かに六月になって気温も上がってきたようだ。

 だがそれなら、こんな見知らぬ場所ではなく天国にいるであろう妻の下へ行きたかった。


 いや違う。

 その後で公民館に行くためにバスに乗ったのだ。そこでうとうとしてしまい何か夢を見たような気がする。はっとして起きるとちょうど目的地だった。慌てて降りて、ざる蕎麦でも食べようか、と蕎麦屋へ向かっていたはずだ。


「……困ったのう」


 何せこの場所真っ白で、上も下も右も左もさっぱり分からないのだ。歩き回っても、歩き回らなくてもどうにもならなさそうな場所だ。


「あら、あなた……?」


 どうしたら良いものか、と途方に暮れていると後ろから声を掛けられた。まさしく天の助け、と振り返ると。


「ゆ、雪江さん……。雪江さんじゃあないかい!」


 見間違えようもない、重光の妻である雪江その人が驚きに目を見開いて立っているではないか。


「重光さん……なの?」


 雪江は生前と変わらぬどころか出会った頃のように若々しい姿をして、あ然として重光を見つめている。

 片や重光は、嬉しさに声を弾ませた。


「おお、では、やはりワシは死んだんじゃのう」


 もちろん、死んだことが嬉しいわけではない。

 ここがどこかは分からないが、妻と再会できたこと、また妻と過ごせるのでは、という期待がそうさせただけだ。


「やはりここは天国かの? ワシも若返っとるかの?」


 重光は弾む声を抑えきれず、自分の手を見た。

 だが皺だらけのごつごつとした、老いた手が見えるだけだ。

 いつの間に表情を戻した雪江は、そんな重光を静かに黙って見ていた。


「若返るのに時間が掛かるのかのう……」


「何馬鹿なことをおっしゃるの」 


 そして、雪江は呆れたように言った。


「いやあ、だってなあ……」


 重光は、年甲斐もなくはしゃいでしまったことに照れたように頭をかいた。

 でも、若奥さんも良いかもしれない、なんてことは実直な重光はこれぽちも考えていない。


「そもそも」


 すっかり浮かれている重光は、雪江の声が思ったよりも冷たいことに気付かない。緩みきった顔で妻を見つめてしきりに頷いている。


「私は、死んだ後まであなたと一緒だなんてごめんです」


 予想外の言葉に固まる重光。


「……え!?」


 いや、ちょっと待ってくれ。


 雪江さん。

 あなたが、今わの際に言った言葉はどこへ。


 だが、驚き過ぎて言いたいことが口から出てこない


「さあさあ、ここは私のための場所なんですから。あなたは出て行ってくださいね」


 雪江はおろおろする重光の背中を情け無用となばかりに押し始めた。

 おろおろし過ぎて頭も体もついていけない重光は押されるがまま。


「死んだ後に介護なんて冗談じゃありませんからね。ほら、出て行った出て行った!」


 訳が分からず重光が振り向くと、雪江は最高の笑みを浮かべていた。

 そしてその直後、二人の距離が離れていく。どちらも動いていないはずなのに、二人はどんどん遠ざかっていく。


「さようならー!」


 そして、満面の笑みで手を振る雪江の姿が小さくなっていく。


「……ゆ、雪江さーん!」


 そして重光が我に返ったころには、再び見知らぬ場所に立っていた。






※生オケ……生オーケストラ。カラオケのない時代、キャバレー全盛期はバンドの演奏でお客さんたちは歌を歌ったそうです。今でもやっているところはあると思いますよ。

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