お祭りとお別れ 1
実を言うと寝起きはあまり良くない。そう話すと大抵驚かれるが、本当のことだ。
月曜日の朝、間宮昴はいつもと同じく、枕元に置いた時計のアラーム音で目を覚ました。ほぼ無意識のまま手を伸ばし頭部のボタンを押す。口からは勝手に小さな呻き声が漏れた。
「ん……」
ゆっくりと目を開く。再び微睡みへと落ちそうになる意識を気力で留め、やがて睡魔が和らぐのを待って身を起こした。全身が気怠いのは無視して洗面所へ移動し、冷たい水でじっくり顔を洗う。
「ふぅ……」
軽く息を吐いて更に眠気を追い出すと、ようやく気分がはっきりしてきた。
(……毎度のことですが、やっぱり朝は辛いです)
誰にも言ったことのない弱音を心中で呟く。
目覚ましを使わなければ、あるいは目覚ましを止めた後で再び意識を手放せば、いくらでも眠れるのに気力を振り絞って覚醒を選んでしまう。昴の寝起きが悪いことを周囲が認識しないのはこれが原因でもある。
昔から、休日であろうと朝寝坊は許されなかった。寝坊した場合、誰かに叩き起されることなかったが、代わりに目覚めた後、時間に応じた罰と叱責が待っていた。おかげでこうして起きられるようになったわけだが。
シャワーを浴びれば、もう少し簡単に目覚められるだろうか。
そんな事を思わないでもないが、朝風呂は小さい頃から父に禁じられている。もちろん寮では親の監視など無いのだが、既に習慣から外れているため敢えて約束を破る気にはならなかった。
あるいは、これは一種の呪縛なのか。
洗顔の後は長い髪を丁寧に梳いてから部屋に戻った。そうして制服に着替え終わる頃、相部屋の生徒が起きてくるのがいつものパターンだ。ちなみに、起床時間に差があるのは相手の子が遅いのではなく昴が早起きなせいだ。登校までにはまだまだ余裕がある。
「おはようございます」
「おはよ、間宮さん。今日はかなり機嫌良さそうだね」
これまたいつも通り朝の挨拶を交わす。普段なら挨拶だけしてそれぞれの作業に移るが、しかしこの日はそれで終わらなかった。パートナーが昴の姿を見て首を傾げたのだ。
「そうでしょうか」
「うん。髪とか、ちょっと気合入ってる感じ」
指摘されて再度鏡に向かってみると、確かに。意識はしていなかったが普段以上に丁寧な整えられている。それを見ると、思わず口からため息が漏れた。
――なるべく表に出さないつもりだったのだが、そう簡単にはいかないらしい。
(やっぱり、どうしても浮かれてしまいますね)
鏡に向かって微笑む昴を、パートナーの少女が不思議そうに見つめていた。
―――
朝の身支度を終えた昴は、パートナーより一足先に食堂へ移動した。お互い親しい相手と食事を摂るため、別々になることは良くある。
入り口付近から全体を見渡すと、約束の相手はすぐに見つかった。視線で合図を交わした後、配膳スタッフから食事を受け取り、そちらに向かう。
「おはよう、昴」
まだ手を付けていない朝食を前にした小鳥遊はるかが、顔を上げて微笑んでくれた。昴も同じように微笑み返して正面に腰かける。
「おはようございます、はるか」
敬称なしで呼ぶのはまだ慣れていないため、口に出した途端頬が熱くなった。はるかも同様に恥ずかしそうな表情を浮かべる。
呼び方を変えたのは、二人の関係に変化があったからだ。昴は先週はるかに想いを伝え、昨日はるかから返事をもらった。その結果、二人は交際を始めた。
つまりはもう、ただの友人ではなく恋人同士だということだ。
「飛鳥さんは?」
「今日はぎりぎりまで二度寝するって」
「そうですか」
ひょっとして、気を遣わせてしまっただろうか。昴の親友であり、はるかのパートナーでもある一ノ瀬飛鳥が朝寝坊するのは以前からだが、今日という日に限っては二人に遠慮したのではないか、と勘繰ってしまう。
(いえ、きっと大丈夫ですよね)
昴とはるか、そして飛鳥。三人の関係に変な壁を作らない。それは交際を始めるにあたってはるかと決めたルールであり、そして昴が飛鳥と交わした約束だ。
『結果がどうなっても恨みっこなし。変な遠慮もしないから』
『はい。でも、飛鳥さんとお友達なのも変わりませんから』
二人同時にはるかへ告白した後、昴と飛鳥は二人だけで話し合ってそう決めた。もし恋人同士になれたら、はるかへの好意には遠慮しない。でもお互いに友達でいる。自分が選ばれなかったとしても恨まない、と。
敗者――という言い方はしたくないが――にとって辛い条件を納得のうえ呑んだのだ。だから、きっと大丈夫だ。
「それじゃあ、いただきましょうか」
「うん、いただきます」
はるかと二人の食卓は、三人の時と比べると交わす言葉が少なくなる。あまり話が得意ない昴のペースにはるかが合わせてくれるからだ。
会話に周囲を巻き込んでいく飛鳥の性格も好ましく思うが。
それ以上に、昴は、はるかと過ごす穏やかな時間が好きだった。
―――
「飛鳥さん、本当に眠そうですけど大丈夫ですか?」
「大丈夫。もうテスト前だから、授業でそんな大事なところやらないだろうし」
「テストに出なくても、受験で使うかもしれないけどね……」
一度部屋に戻って一息ついた後、昴は再びはるか達と合流した。通学路を歩く最中、飛鳥がまだ寝足りないのか何度も大きな欠伸をするのを見て、少し心配になる。
「はるかの言う通りです。それに、テスト勉強もありますし」
二学期の中間テストは明日、火曜日から実施される。今日は言うなれば最後の追い込みだ。睡眠不足は色々な意味で致命傷になりかねない。
(飛鳥さんならきっと、そう悪い成績は取らないでしょうけど)
移り気で持続力に欠けるだけで勉強に関しては真面目な少女だ。特に短期的な集中力で言えばむしろ羨ましく感じるくらい豊富だったりする。
「それはそうなんだけど……ほら、昨日はいろいろあったし」
「あ……確かに、そうですね」
本校での生活を終え、島へ戻ってきたはるかを出迎えた後。はるかから告白の返事を聞いてすぐ解散となったわけではない。色々と話さなければならないこともあって、なんだかんだ忙しかったのだ。
「とはいえ、文化祭も近いですし。気を引き締めないと行けませんね」
「今月も結構ハードスケジュールだよね。劇の練習とか間に合うのかなあ……」
テストとテスト休みで今週がほぼ潰れることを考えると、十一月初めにある文化祭はもう遠い話ではない。特にはるかは戻ってきたばかりで大変だろう。
しかし。
「頑張りましょう」
昴は心配よりも文化祭への期待で胸がいっぱいだった。
はるかや飛鳥と過ごす初めての文化祭。しかも演劇となると稽古等、皆で一丸となって取り組むことになる。中学以前の昴はあまりこういうお祭り事には触れて来なかったので、今回の文化祭が余計に楽しみなのだった。
「うん、そうだね」
「だね。じゃあとりあえず、まずはテストから」
きっとはるか達も同じ気持ちでいてくれているのだろう。
三人は誰からともなく頷きあうと、残る通学時間を定期テストの話題に費やした。
―――
「こんにち……」
「いらっしゃい、三人とも。待ってましたよ」
放課後、連れ立って『ノワール』へ向かえば、三人が来るのを本当に待ち構えていたらしい由貴に笑顔で出迎えられた。
(そんなに楽しみにしていたんですね)
昴達の告白がどうなったのか、おそらく一番気にしていたのは彼女ではなかろうか。呆れと羞恥から昴がため息をつくと、圭一が苦笑した。
「やあ、みんな。それからお帰り、小鳥遊さん。とりあえずこんな状態だから、まずは座って話を聞かせてくれ」
「はい。それじゃあ……」
はるかが頷いたのを合図に、三人は荷物を置いて席に着く。入れ替わりに由貴が隣の部屋へ消え、すぐにティーセットを持って戻ってきた。
「それで? どうなったんですか?」
全員分の紅茶が用意されたところで、再度由貴に促される。
(えっと……どうしましょうか)
そっとはるかへ視線を送ると、小さな頷きが返ってきた。ここは任せて、という合図に微笑んで頷く。
(わかりました。お任せします)
昴が見守る中、はるかは静かに口を開いた。ほんのり頬を赤く染めながら。
「私、昴とお付き合いを始めました。……ただし皆には内緒で、ですけど」
そこではるかが顔を向けてくるので、昴もそっと頷いた。すると由貴達は一拍の間を置いてからほうっと息を吐いた。
「……そうか。おめでとう、昴」
「おめでとうございます。はるかちゃんも、頑張りましたね」
「ありがとうございます」
二人はそれからふっと視線を逸らし、飛鳥を見た。一人だけ蚊帳の外に置かれる格好となった飛鳥は由貴達の視線に気づくと笑ってみせる。
「あたしは残念でしたけど、こうなった以上は二人の仲を応援しますよ!」
その明るい笑顔を見て、昴は感謝と、かすかな胸の痛みを感じた。
(飛鳥さんはすごいです)
逆の立場だったら、自分はあんな風に笑えただろうか。朝、ほんの少しの不安を覚えたことさえ申し訳ないと思える。
彼女の気持ちに報いるためにも自分は微笑んでいなくては。
「でも、皆さんには内緒ということは、あまり恋人らしいことはできませんね」
「そうですね。島の中にいる限り、どうしても人目はありますから。……ですが、そうしようと二人で話し合って決めました」
昴達が公に交際を始めれば、きっと校内では混乱が起きる。そして二人は多かれ少なかれ偏見や差別にさらされることになるだろう。もちろん「そんなの気にしなければいい」「別に悪い事をしている訳じゃない」と開き直るのも一つの選択だ。しかし最悪のケースを考えるとどうしても、昴達にはその道を選ぶことができなかった。
例えば、昴のパートナーが嫌悪感から寮での相部屋を拒否したら? あるいは昴やはるかが同じ寮で生活していること自体を嫌がる生徒が出たら? どちらか、あるいは両方が寮を追い出されないという保証はあるだろうか? そうなった場合、住居と生活費の宛てはあるのか?
現実は物語のように甘くはない。低くとも最悪の可能性がある以上、取り返しのつかない選択をすることはできない。
「それに、私は、はるかと一緒にいられるだけで十分幸せですから」
「昴……。うん、私もだよ」
視線が絡み合い、こそばゆい幸福感が胸の奥から湧き上がってくる。
はるかが愛しい。好きな人と思いあい、共にいられることがこんなにも嬉しいのだと、初めて知った。
これがあれば、公に交際できるかどうかなんてどうでもいい。
溢れる想いを込めて、昴は更に笑みを強くする。
「……やれやれ。二人とも、くれぐれも外では人目を気にするようにね?」
呆れたような圭一の呟きも、今の昴にはあまり気にならなかった。
―――
今日の『ノワール』には普段よりやや多くの来客があった。テスト勉強ついでにお茶を飲みにくる生徒が何人かいたためだ。それ自体はとても良いことなのだが、
「私達もテスト勉強はしなくちゃいけないんですよね」
ということで、営業は早めに切り上げることになった。いつも片づけを始める三十分程前にちょうど客足が途切れたので、そこで表のプレートをひっくり返す。
昴も開いていた教科書を閉じると、飲みかけだった紅茶に口をつけた。
(今日は、少し飲みすぎてしまったかもしれませんね)
せっかくだから、とはるかが淹れてくれたためつい何度もお代わりしてしまった。摂ったのは水分ばかりとはいえ、夕食は控えめした方が良さそうだ。
「昴、そのカップも片付けちゃうね」
「はい、ありがとうございます」
飲み終えたティーカップはソーサーと共にはるかが回収してくれる。由貴や飛鳥と手分けしててきぱきと片づけをこなす姿は美しく、また格好良くも感じる。
(私もお手伝いした方がいいでしょうか)
昴が『ノワール』に入部していないのは、主に由貴達への劣等感と対抗意識が理由だ(メイド服が恥ずかしいのも本当だが)。けれど、そうした感情も日々を過ごすうちにだいぶ和らいでいる。
だから、今なら素直に、正式なここの一員になりたいと思える。
(ちょっとだけ、勿体ない気もしますが)
入部してしまえば昴も店員として働かざるを得なくなる。そうするとはるかに給仕をしてもらう機会も減ってしまうのが残念だ。
そんな益体もない思考を巡らせているうちに片づけは終了した。
「それじゃあ、帰ろっか」
「そうですね」
入部については急ぐ必要もない。またの機会に考えよう。そう思い、昴は傍らに置いてあった荷物を手に取る。と、由貴の声がそれを制止した。
「あ。昴はちょっと残って貰えますか? 話したいことがあるんです」
「――わかりました」
荷物から手を離して、昴は頷いた。
「はるか、飛鳥さん。また夕食で」
「うん。それじゃあ、先に戻るね」
似たようなことはこれまで何度もあったからだろう。はるか達は軽く了承してくれた。入り口から出て行く彼女達と手を振りあい、ドアが閉まるのを確認してから由貴達に向き直る。
知らず、開いた口からため息が漏れた。
「きっと、いい話ではないんでしょうね」
「そうですね。正直、私もあまり気乗りはしないんですが」
向かい合った由貴もまた眉を寄せて不満を表した。圭一は苦笑いを浮かべ、入り口のドアへと移動する。はるか達が戻ってこないか警戒するつもりだろう。
やはり、二人には聞かせられない話なのか。
「……はるかちゃんとの事は、本当におめでとうございます。私としては色々な意味で安心できました」
「心配をかけてすみません」
苦笑交じりに答えれば、由貴も複雑な笑みを浮かべる。お互いに昔のことを思い出してしまったらしい。
昔、昴は由貴に恋をしていた。一つ年上という年齢以上に大人びた、格好いい女の子。父を始めとする男性のように怖くもなく、いくら仲良くしても父から小言を言われることのない相手。そんな彼女に幼い憧れを抱いていたのだ。
その恋心は結局、由貴本人の拒絶によって完膚なきまでに壊されたが、昴にとっては忘れられない思い出だ。
「……で、ここからが本題なんですけど。私はお二人の力になれないんです。むしろ邪魔になる行動を取らないといけなくて」
途端、すっと思考が冷えていく。脳裏に厳めしい顔をした男の姿が浮かんだ。
「父ですね」
「そういうこと。無視できるならそうしたいところだけど」
口調が素に戻ったのは意識してやっているのか、無意識か。
嘆息した由貴は昴に鋭い視線を向ける。
「昴。覚悟はできてる?」
「はい」
その問いに昴は頷いた。明確にではないが予想はしていたため、胸の内に動揺はない。
「了解。じゃあ、今日のうちに報告するから……後は、自分でなんとかしてみなさい」
「ええ。ありがとうございます、由貴」
冷たく響いた由貴の言葉に、しかし昴は微笑んだまま答えた。
(もちろん、なんとかするつもりです)
事を起こす前に敢えて忠告してくれた由貴の気持ちに答えるため。そしてはるかや、他ならぬ自分自身のためにも。
でなければ、きっと――。
(大丈夫)
胸の前で合わせた両手を、ぎゅっと握りしめる。
きっと大丈夫だと、自らに言い聞かせながら。




