憧れの場所と、やってきた少女 6
水曜日の放課後、はるかと真琴は約束通り『Blanche』へ向かうことにした。
本校の最寄駅から秋葉原までは割と近いので、帰宅はそう遅くならないだろう。制服であの街に行くのはちょっと勇気がいるが、まあ。別にいかがわしい場所に行くわけではない。
最寄駅のロッカーでメイド服の入った鞄を取り出したら、真琴と一緒に電車に乗った。
「宇佐美さんは秋葉原に行ったことある?」
「あ……うん、何回か。本を買いに行ったりとか」
移動中、雑談がてら尋ねてみると、真琴は少し恥ずかしそうに教えてくれた。
「私、漫画とか小説とか……アニメとか、結構好きなんだ。だから」
メイド喫茶も割と身近な存在だったのだと言う。しかし機会がなくて実際に入った経験はまだないらしい。
「だから、小鳥遊さんに誘ってもらえて良かったというか……嬉しかった」
「私も、興味を持ってくれる人がいるのは嬉しいな」
『Blanche』でアルバイトをした身としては、お客さんが増えてくれるのはやっぱり嬉しい。特にそれが女の子なら猶更だ。
けれど、真琴が言うには結構、この手の趣味は肩身が狭いらしい。
「中学校の頃、私もそのせいでからかわれたことがあって。だから、なるべく他の人には言わないようにしてるんだ」
そういえば司も敷島の趣味にはあまりいい印象を抱いていなかったか。
しかし、それなら学校帰りに寄り道するのは避けた方が良かったのではないだろうか。
「ううん。これは学園祭の準備のためだし。……それに、友達同士で行くのと、一人で行くのは違うでしょ?」
「……そうだね」
答えた声は少しだけ上ずったものになった。
真琴から友達だと言ってもらえた。それが嬉しかったのだ。
もちろん、はるかだって真琴とは友達のつもりなので、親愛の情も込めて微笑んで見せる。
「せっかく行くんだから楽しんでこようね」
「うんっ」
―――
秋葉原の駅を出たら、電気屋やアニメショップを尽く無視して『Blanche』へ。夏休み中のアルバイトで、駅から店までの道はしっかり頭の中に入っている。
(あれから一か月ちょっとかあ……)
アルバイトの最終日に「次に来られるのは冬休み」だと思ったものだが、予想外に早く来ることになった。
「ここが、小鳥遊さんがアルバイトしてたお店?」
「うん。落ち着いた雰囲気の、いいお店なんだよ」
入り口の前に立って店を見上げる真琴に目配せをしてから、入り口の扉を引く。するとからんからん、と懐かしい音がして、はるかは思わず目を細めながらゆっくりと踏み出した。
「お帰りなさいませ、お嬢様!」
入り口近くにいた一人のメイドがやってきて、深いお辞儀をしてくれる。続けて入ってきた真琴がそれを見て感嘆の吐息を漏らした。
出迎えのメイドに微笑みを返すと、互いの目が合った。
「って、はるか? どうしたの、学校は?」
相手の少女――中学時代の友人である和葉が驚いた顔で聞いてくる。
「久しぶり、和葉。実はちょっとだけこっちに戻ってきてて」
「そうなんだ。……はあ、今日の初仕事がはるかの出迎えとかびっくりした」
「私もびっくりしたよ」
二人で言葉を交わし合っていると、真琴が耳元で囁いた。
「小鳥遊さん、知り合いの人?」
「うん。同じ中学だった子で、バイト先を紹介してくれた人なんだ」
はるかの言葉に和葉も反応し、真琴に向けて会釈する。
「初めまして。いつもはるかがお世話になってます」
「あ、いえ、そんな。私こそお世話になってます」
挨拶しあう友人達の声を、はるかは少し落ち着かない気持ちで聞いた。
照れ隠しに周囲を見回すと、やや間延びした明るい声が飛んできた。
「はーちゃん、こっちこっち」
見ると私服姿の詩香がテーブル席の一つに座り、はるかに向けて手を振っている。
「藤枝先輩、お久しぶりです。今日は店員さんじゃないんですね」
「うん、最近忙しいからちゃんと休めって怒られちゃってね。仕方ないから今日はお客さんとして来たんだ」
真琴を連れてテーブルに移動すると、ぎゅーっと抱きしめられた。この辺りの行動は姉と似ているというか、なんというか。
(仕事場の人は、家でゆっくりして欲しいんじゃないかなあ)
詩香に会えるのは嬉しいし、野暮だろうから言わないけれど。
「あの、小鳥遊さん。この人って」
「初めまして、藤枝詩香です。はーちゃんのお友達だよね、よろしく」
「……は、はいっ。宇佐美真琴です。よろしくお願いします!」
詩香は深空と同じく本校の出身だし、割と有名なので紹介の必要もなさそうだった。同じテーブルに座らせてもらい、メニューを開く。
接客の際にメニューは覚えていたが、注文する側として見つめるのは初めてだ。真琴と一緒に悩んだ挙げ句、パンケーキとチョコパフェ、それからドリンクを注文した。あまり食べると夕飯に響くが、文化祭のための視察という意味ではチェックしておきたい。
「そういえば、一応衣装も持って来たんですけど、いらなかったですね」
姉が絶対に持って行けというからそうしたのだが、詩香がメイドさんをしないのなら必要ない気がする。
「あ、ううんー。後ではーちゃんとステージに立とうと思ってたからオーケーだよ」
と、詩香からはそんな答えが返ってきてはるかは硬直する。
「マジですか!?」
ただし、続けて響いたその声ははるかでも、ましてや真琴でもなかった。いつの間にか傍に寄ってきていた他の客――はるかとも顔見知りの常連さんだった。その様子を見るに、どうやら先程から話しかけるタイミングを窺っていたらしい。
「ラッキー、今日来てよかった!」
「あはは……」
彼が嬉しそうに声を上げると、他の客からも何人か似たような呟きを漏らした。話しかけてきた彼はすぐに頭を下げ、自分の席に戻ってくれたが、ちょっと恥ずかしい。
「私もう、小鳥遊さんが何をやっても驚かない気がする」
はるかの隣で真琴が呆然と呟いた。
―――
入店時の騒動が一段落すると、はるか達は運ばれてきたデザートに舌鼓を打った。
「あ、これ美味しい」
「良かった」
「えへへー、お口に合ったなら嬉しいな」
はるかがパンケーキで、真琴がチョコパフェ。とはいえ気になるので、お互いが注文した品もおすそ分けする。
「うん、こっちも美味しい」
「パンケーキはお店で焼いてるんだよ。だからタイミングによっては出来立てが出てきたり」
普段はあらかじめ焼いておいたものを温め直して出すのだが、あまり時間が経つと美味しくないのでストックはあまり多く作らない。なので手が空いている時やストックが切れた時はその場で焼いて提供しているのだった。
パフェ類も盛り付けは店の厨房で行っているが、アイスやコーンフレーク等はごく普通の既製品のため、他と比べて差はつかない。
と、小声で裏話をこぼしつつ、はるか達は文化祭の相談をしあう。せっかくだからと、会話には詩香も加わった。
「パンケーキくらいだったら出せるかな?」
「頑張ればできるかも。出すとしたらホットプレートで焼くことになるかな」
「枚数焼くと結構大変だから、他のメニューは楽なのにした方がいいかもね。クッキーとか」
出た意見はふむふむと、真琴がメモ帳にまとめる。制服のデザイン以外の部分は皆で相談して決めるので、あくまで参考にする程度だが、意見を出しておく分には損はない。
甘いものを食べ終わり、会話も一段落した頃、真琴のスマートフォンに着信があった。クラスの実行委員からのメールだ。
「実行委員会にメイド喫茶で受け付けてもらったから、これで確定。場所とかは追って決定する予定、だって」
「決まったかあ……」
他にメイド喫茶を希望するクラスが無かったのか、あるいは宣言通りに勝ち取ったのか、案外早い決定だった。
軽くため息をついたはるかを見て真琴がそっと微笑む。
「頑張らないとね」
「……うん」
はるかもそれに頷いて、笑った。
詩香はそんな二人をにこにこしながら見守って、
「むう、はーちゃんまで参加するなら、私達も行かないわけにはいかないね」
「あ、いえ。私は二週間で帰っちゃうので」
当日まで本校にいることはできない、とその呟きを訂正する。ちなみに本校と分校の文化祭は同じ週で、本校は金土、分校は土日での開催だ。なのでお客さんとして顔を出すのもできない。
しかし、詩香は首を振って言う。
「もちろんそうだけど。でも、今、参加してるでしょ?」
今は本校にいて、そこでのクラスメート達と協力して準備に動いている。
「なら、はーちゃんがしたことは必ず残るよ」
だったら参加してるのと同じことだ。
言われて、はるかは思わず赤面する。なんだか物凄く落ち着かない気分になった。
「でも、大丈夫なんですか? その、お仕事のスケジュールとか」
「あー、うん。それは祈るしかないかなー」
首を傾げた真琴に尋ねられると、真琴は一転、困った顔になる。けれど彼女はすぐに表情を戻した。
「ま、それはともかく。はーちゃん、そろそろ歌おっか」
「あ、はい。そうですね」
話をしているうちに時間も過ぎている。ステージに立つつもりなら早い方がいい。
はるかは頷き、衣装を持って席を立った。
「小鳥遊さん、頑張ってね」
「うん、ありがとう」
真琴と短く言葉を交わしてから奥へと引っこむ。
それから更衣室へ向かう途中で事務スペースへ寄り、店長の名取理恵子に挨拶をする。ステージを使うことは既に話が通っているようで、二つ返事で了承が出た。
更衣室で何日かぶりにメイド服を身に着け、アルバイト時代の名札も着ければ準備完了だ。
「それじゃあ、行こっか」
「はい」
歌うこと、誰かと共演することが大好きなのだろう。笑顔でマイクを差し出してくる詩香に微笑み返して、はるかはマイクを受け取った。
再びメイドとして店内に戻れば、察した誰かの歓声をきっかけに喧騒が大きくなっていく。
他のメイドたちも慣れたもので、軽く目配せをしあった後、一人が機材操作のため移動していく。
拍手の中、笑顔で手を振って歩く詩香の後ろをお客さん達に会釈しつつ歩き、はるかは詩香と共にステージに立つ。
「皆さん、お騒がせしてごめんなさい。これからちょっとの間だけど、『Blanche』名物突発ミニライブを開催します。歌うのは私、詩香と、夏休みにも私の相方を務めてくれたこの子、はるかちゃんです」
マイクに乗せた詩香の声に促され、深々とお辞儀。
十人から二十人ほどの視線が集まる中、ふっと小さく深呼吸をする。店内の照明が絞られ、スピーカーから音楽が流れ始める。
元いた席の方を見ると、こちらを言詰める真琴と目が合った。
「それじゃ、行くよー!」
詩香と頷き合い、リズムに乗せて唇からフレーズを紡ぐ。
いったん歌い出すと、緊張から早くなっていた鼓動が少し落ち着く。丁寧に、間違えないようにすることに意識が集中して、周囲の景色が気にならなくなる。
幸い曲目ははるかの良く知っている曲だ。はるかの好きなアーティストの持ち歌から、騒がしすぎず、それでいて歌いやすいものがチョイスされている。
一曲が終わり、続けて次の曲へ。
夢中で歌い続けて、三曲が終わったところでマイクを下ろす。すると客達からアンコールの声が上がった。
「ありがとう。それじゃあもう一曲だけ歌おうかな。はーちゃん、いけるよね?」
「はい、もちろんです」
予想していた流れだった。ここまで来て後に引くはずもなく、はるかは笑顔で頷いてみせる。
再び音楽が流れ始める。夏休みのライブでも経験している曲だ。
あの、五月に何度も聞いたその曲を、振り付け込みで歌う。
慣れない、動きながらの歌唱に息が切れそうになるけれど、それは必死に堪える。なるべく笑顔で、楽しく、丁寧に。
曲が終わって荒い息をついていると、店内に盛大な拍手が巻き起こった。
成功だね、と詩香がはるかにしか聞こえない声で呟いて、にっこり笑った。
―――
「今日は本当にお疲れ様、小鳥遊さん」
「ありがとう。ごめんね、付きあわせちゃって」
「ううん。楽しかった、すごく」
帰りの電車内で、はるかと真琴は短く言葉を交わす。真琴が行きと違うルートで帰るため、二人で話せる時間がそんなにないのだ。
窓の外に映る景色は少しずつ暗くなりはじめている。デザートを食べて、ライブをしているうちに結構時間が経ってしまった。
「あ、でも今日見た私のことは、なるべく内緒にしてくれると嬉しいな」
「ふふ。うん、大丈夫、わかってるから」
念のため、忘れないうちにとお願いすると、真琴は快く頷いてくれた。ステージで歌ったことなどを皆に話されてしまうと色々と困ってしまうので、その返事を聞いてほっとする。
「それと衣装、一回着ちゃったけど、そのままで大丈夫?」
「大丈夫だよ。むしろ、私が汚さないように気を付けないと」
メイド服を入れた鞄は真琴の手にある。文化祭用の衣装のスケッチに使うので、着替えたうえで真琴に渡したのだ。
返してもらうのはいつでもいい。はるかが帰ってしまってからだと送ってもらうのが手間だろうから、できれば来週の土曜日までがいいだろうが。
「それじゃ、小鳥遊さん。また明日ね」
「うん、また明日」
やがて真琴の下車駅に電車が止まり、二人は挨拶をして別れる。
また明日。
動き出した電車内で、交わした言葉の余韻に包まれながら、はるかはそっと息を吐く。
本校での生活がまた一日、過ぎていく。
けれどまだ三日。この生活が終わるまでにはまだまだ時間がある。
それまでにもっとたくさんの思い出を作らなくては。
(そういえば)
飛鳥達はどうしただろうか。あれから佐伯奈々子については何の連絡もないけれど、うまくいっているだろうか。
電話してみようか考えたが、それは止めて短いメールを送ることにする。
『今日も無事に終わりました。そっちは変わったことはない?』
まだ昨日の今日だし、知らせがないのがいい知らせともいう。問題ないのならそれはそれでいいのだ。
だから、簡単でいいから良い返事が来るといいなと思いつつ、はるかはスマホをぎゅっと握りしめた。




